我が家から近い、桜神明社&曽池
桜神明社は、厳粛で参拝者も少なく、本当に静かな神社
お正月には、古墳の近くまで行けます。
近すぎて、余り知りませんでした。
木蓮さんのブログを見て、これは⁉️
と思い行って来ました。
木蓮さ~ん
行ってきました(^^♪
見晴台考古資料館
名古屋市南区見晴町47
本笠寺駅から徒歩10分くらいでしょうか。
笠寺観音の裏側にあります。
入館料も無料です。
桜神明社古墳と曽池遺跡展
名古屋市南区四丁目に所在する、桜神明社古墳は、これまで発掘調査された事がないそうです。
採集された須惠器(すえき)から5世紀後半頃の築造と考えられたそうです。
すぐ隣には、名鉄名古屋本線が通り、高架事業計画に伴い、古墳の規模や年代を知るため、令和3年に試掘調査が実施されたそうです。
古墳の規模や出土した埴輪(はにわ)が紹介されていました。
桜神明社
名古屋市南区呼続4丁目28
我が家から、徒歩3分の所にあります。
すぐ隣には、名鉄名古屋本線が通っています。
この界隈は、名鉄線路の高架が計画されており、名鉄本線西側に借り線路の予定です。
すぐ隣には、この桜神明社があります。
ここにある古墳が、高架計画に影響があるかの調査もかねて、今回の調査になりました。
トレンチ方式で調査開始。
考古学におけるトレンチ(Trench,試掘坑,en:trial[test] trench )とは、遺跡の有無や遺構の分布状況を迅速かつ安価に把握して、発掘調査や遺跡の性質を判断するために掘られる溝のことをいい、試掘調査(trial excavations)の方法のひとつである。具体的には表面の耕作土などを除去するために掘られる溝である。元々トレンチとは塹壕という意味での溝のことを指す。
また地質学において必要に応じて地震や活断層の履歴を知るために掘削する溝のこともトレンチという。 (インターネットから拝借)
出土遺物
埴輪は小片が多く、墳丘に伴うものか判然としませんが、きぬがさ形埴輪は、近畿地方の古墳に樹立された藍形埴輪系譜をひくものと推定されるそうです。
5世紀初頭~前半と思われるそうです。
日本でいえば、平安時代と思われるそうです。
桜神明社の古墳は、規模は裾が最大で約2m埋められてるそうです。
そのため、丘の直径は、約42m、高さは4.86m~5.86mと推定されています。
大きな古墳だそうです。
実際の、桜神明社古墳です。
今は、拝殿から奥にある、古墳には行くことはできません。
お正月のみ行けました。
去年に行った、古墳です。
古墳の上に、本殿が立っています。
トレンチも8本も彫られての調査でした。
桜神明社の古墳は、築造後、藍形埴輪が破損して埋没し、古代には葺石が崩落したそうです。
葺石の出土状況が、円弧を描くように一様であることから、地震により同時に崩落したのでなないか?と推測しました。
その候補となるのが、仁和3年(887年)の南海・東海地震だそうです。
マグネチュード8.0~8.5と推定されます。
その後も、削平を受け、葺石や墳丘表層土が持ち去られた可能性が高いそうです。
その原因が慶長6年(1601年)徳川家康の命により行われた、東海道整備が考えられます。
東海道からわずか、70mの位置にある、桜神明社の古墳から表層の土や手ごろな石や埴輪を採取して東海道整備に利用したと、考えられます。
東海道を掘ると、葺石や埴輪が出土するかもしれませんねー
曽池遺跡
曽池遺跡も紹介されていました。
曽池遺跡も、全くしりませんでしたねー
笠寺台地の西端近くに立地する。標高約4~10m。
遺跡範囲は半径約100m。
曽池貝塚と富部神社遺跡を合わせて曽池遺跡と改称。
野球場となり壊滅したそうです。
呼続公園(南区)は、長楽寺の寄付により、昭和29年、都市計画公園として開園しました。
隣接する富部神社、長楽寺と合わせ南区最大の森を一体的に形成し、市民の憩いの場となっています。
富部神社には、『国指定文化財』の本殿があります。
呼続公園のシンボルは付近の湧水や雨水を水源とする「曽池」。以前、曽池はかなり大きかったそうだが、埋め立てが進められ、現在の大きさになったそうです。
6月くらいになると、スイレンが咲きます。
周辺には縄文時代の竪穴式住居の遺構が残っていたり、土器類、木器などが出土するなど、縄文晩期から中世まで各時代の生活様式の変遷を伝えており、地元では曽池遺跡と呼ばれているそうです。
さて、「曽池」は長年にわたり池に流れ込んだ泥がつもったり、水草によって池の中に「島」が生まれるなど、以前とは大きく景観を変えています。また、ブラックバスなどの外来種も放流され、池の生態系も崩壊しつつあります。
地区にお住いの長老の方々によると、今から50年以上前には「曽池」では、たびたび「池干し」をおこない、たまった泥をかきだしていたとのことだが、最近では全く行われておらず、池の底には泥がずいぶん堆積しているのではないかとのことだった。
そこで、地域の方々から、ぜひ50年ぶりとなる「曽池」の池干しをおこない、子どもたちの環境教育を兼ねて、本来の「曽池」の姿を取り戻したいという意見が出されました。
南土木事務所や呼続小学校、呼続学区連絡協議会と打ち合わせた結果、曽池の池干しの実施日は10月25日(日)に決定。今後、関係者で池干しの方法や参加者等について調整を行い、名古屋市にも財政的な支援をお願いしながら、「曽池復活」を進める予定だそうです。
これも知りませんでした。
桜神明社古墳と曽池遺跡の立地
4世紀末~5世紀初めと推定される、『鳥栖八剣社古墳』は、笠寺台地の東側に造られています。天白川流域を望む位置にあります。
桜神明社古墳は、台地の西側に造られています。
古墳の周辺には、『呼続遺跡』・『桜本町1丁目遺跡』・『曽池遺跡』といった集落跡があります。
なかでも、『曽池遺跡』・『呼続遺跡』は、台地西側に立地しており、開折谷を利用して溙(船着場)があったと推測されています。
曽池遺跡は、1952年に呼続公園の運動場造成工事中に発見されたそうです。
1955年に調査し、縄文晩期・弥生時代後半・古墳時代の竪穴住居跡が見つかったそうです。
1974年に富部神社社殿西側で調査。
国指定重要文化財に指定されています。
古墳時代後期に竪穴住居跡、奈良時代の掘立柱建物跡が見つかりました。
全く知りませんでしたねー
名古屋市の調査は、1995年・1998年に富部神社の境内地で実施し、古墳時代中期の竪穴住居や中世の掘立柱建物跡が見つかったそうです。
呼続遺跡は、現在の『呼続小学校』・『新効中学』にたくさんの住居跡があったそうです。
ここが、呼続遺跡で、この界隈には大きな集落があったと思われるそうです。
一部ですが、曽池遺跡で発掘された土器などです。
富部神社拝殿の背後に谷があります。この谷の東約200mにの地点に桜神明社が立地しています。
この谷あたりに、湊(船の停泊地)があるとすると、遠方からやってきた人々が、上陸して東方に見えたのが、『桜神明社古墳』であったと思われます。
いや~奥が深い・・・・・
知らないことばかりでした。
今回は、30名定員でしたが、満席でしたよー
次回は、見晴台考古資料館をアップします。