2021年8月3日のFacebook記事です。
最近は、こんなに1つ1つ真面目に考えていなくて、
どちらかというと、下の写真のウリの感覚に近いかも↓ 爆
それがスゴくラクなんです♬
それを、「こんな過程を経たからなのかもね」と思うのは、
それもまた、ノンデュアリティの人に言わせると、「ストーリー」だって怒られるんでしょうが、
最近は、そんなことさえ気にしていません。笑笑
もし参考になるようでしたら、幸い。
【ホントは誰もいないんだということ】
「自分」がいないなら
私はあなたで
あなたは私
それは決して間違ってはいないんだけど
(確かにあなたが目の前にいるときはね)
私が感じているニュアンスとはちょっと違うなと思う時がある。
よくスピでは、みんな1つの源から魂が分かれて、身体という物質に入っているから、
分かれているように見えるだけで、本当は1つなのってよく言っていて、
(ワンネスって言うの)
それはそれで、とてもヒューマニスティックでロマンティックでスイートな解釈なんだけど
それともちょっと違うんだよね。
少なくとも、その視点から「全ては1つ」っていうのを理解するのは、
正直なところ、私にはものすご~く無理がありました
「自分」がないということが、大分ハラ落ちしてきた今感じているのは、
「自分」というものがいないなら、
当然「あなた」もいなくて、
そもそもそこには誰もいないんです。
だから「あなた」も「私」も
「元は1つだ」もへったくれもなくて、
1つでしかあり得ないんですよ。
下手すると、離れていたことさえなかったのかもしれない。
いや、離れているとか、1つだとか言うのさえ違和感を感じる時があってね
なぜなら頭の上に広がる大空もこの身体も
道ばたの石ころも名もない雑草も
全部同じで
上も下もなくて、
それにそこはかとない感動を覚えたりするから。
非二元論ってそういうこと。
そんな風にみんな同じだから
嫌な人と会うと、傷ついたりガッカリしちゃうのかなぁって思ってたこともあったのだけど、
最近ふと氣付いたのはね
自分もいないなら
嫌な人もいないんです。
存在しないのは自分だけじゃなくて
嫌なあの人も同じ
「自分」というものが記憶に基づく思考や印象の寄せ集めでしかないのなら
「嫌なあの人」もただの思考でしかないんです。
そもそもその人自身が思っている「自分」ていうのが思考の寄せ集めで、
それを見てまたこちらの頭の中で出来上がるその人の印象なんて、ジャンクのジャンクでしかないんですよ。(←お~ボロクソ)
自分のイヤな部分を思い出した時に重くなるのは、
「自分」とそのイヤな部分を紐付けて考えているからだって氣付いた時に、
(私って~みたいな思考ね。「私のこういう部分って、パタンだな」とか、「なかなか直らないな」みたいな。)
そうやって実在しない自分、
特にネガティヴな自分像を実在しているかのように扱うことで
エネルギーを与てしまうから返り討ちに遭うんだって分かったのね。
幽霊にエネルギーをあげちゃうようなものなんですよね。
だから、苦手な人も、現実は「嫌な思考」(もしくは相手の「嫌な思考」から出た言動)でしかないのに、
「嫌な人」にしちゃうことで、
余計な力を与えてしまっているのかもしれないんですよ。(うん、多分そうなんだと思う。)
最近、余計な思考が色々上がって来ても、
氣付いて見つめていると、それだけで消えて行くようになったんですね(うん、ただ見つめるだけね)。
そこで、嫌な人のことを思い出した時も、
「これも『あの人』じゃなくって、ただの思考なんだよね」って氣付いて
同じようにただ眺めていたら、
やっぱりス~ッと消えて行くんですよ。
ホント、幽霊みたい
この「見るだけ」っていうのは、ちょっとコツがいるから、
また改めて書きますね。
まぁ、そうやって、「嫌な人」を消しまくったからと言って
人が苦手っていう思いは変わらないかもしれないし
まぁ変わるなら変わっても良いし、
でも、わざわざ変えようとも思っていません
そもそも私の「人が苦手」は、人と真剣に向き合うあまり色んな面を見てしまった結果のものだから
それはそれで別にいいじゃんって納得した上のこと。
ただ、何らかの形で、それがラクになると良いなぁと思っているだけ。
ボクは おとしゃんの まえならえ キライでし
でも カツオブシ くれると
わすれて すぐに ハナちゅう しちゃい まし
#ノンデュアリティだった頃
#非二元論だった頃
#non dual な日常より
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