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2021年11月頃のFacebook記事です。
【先生と呼ばないで】
(今日はかなりブラック度高し)
英会話講師をしていた頃、
新任の教師がスタッフルームに戻って来るなり、私に向かって
「先生、~さんって、分からないと、すぐ質問するんですよ。酷いと思いませんか?」って言われて、度肝を抜かれたことがある。
その人は新任なのに何故かいつも理由のない自信があって、
まるで自分のteachingが最初から完璧であるかのような態度に、周囲が困惑することの多い人でした。
いやぁ、生徒さんの質問にどれだけ答えられるかが、教師の力量だと思うんだけどね。
生徒さんの奇問難問に答えるたび、自分の引き出しが1つずつ増えて行って
お金をもらいながら勉強出来るって、何と美味しい世界なんだと、つくづく思っていたものですが。
家に帰って、その新任さんびっくり話をJojoに話したら、
「それは、教えるのが好きなんじゃなくって、
教えている自分が素敵、
英語の先生をしている自分が好きって思ってるんじゃない?」って言われ、
なるほどと腑に落ちた。
Jojoはこういうところ、結構鋭くて
その一言で、私の中の色んな「」が一気に解けた気がしたんです✨️✨️✨️
一見すごく仕事熱心に見えるんだけど、
でも例えば、テキストの教えにくい部分をどう料理するかとか、
生徒さんが混乱しやすいところをどう分かりやすく説明するかとか、
「英語好きなら、教えることが好きなら、
こういうところを教えるのこそ醍醐味じゃない?」って思うところで、
急に引いたり、守りに入ったり
私のアイディアをシェアすると、ムッとする人までいて、
「え?」って思うことがよくあったんだけど、
彼らはそんなことより、マニュアルに忠実なレッスンをすることで
会社にとっての良い教師になりたかったり
「優秀な先生」としての自分のイメージを守りたかったりしたんだなって、
その時納得しました。
だから、いざと言う時、自分を脱いで、裸になって、生徒さんの抱える問題や質問に挑んで行かないのかなって。
むしろ、会社の方がそういうところをよく理解していたのか何なのか、私が辞める頃は、
生徒さんの質問に答えられないことにプライドが折れ、辞めて行く教師が急増していたので、
いかにして、生徒さんが質問するスキを与えないレッスンプランを捻出するかに、余念ありませんでしたね。
それを知った時、唖然としましたが、
会社の政策は、まさに今のご時世を反映していたのかもしれません
答えられない質問なんて、あって当たり前だし、
「自分のイメージ」なんて、イチイチ気にしてたら、教師なんて務まらないですよ。
でも、分からない時は、誠実に持ち帰って、徹底的に調べたことをシェアすれば、
生徒さんは軽蔑するどころか、感動さえしてくれました。
まだプロにも分からないことがあるんですねって。(アリアリですよ〜)
だってね、勉強に終わりなんて来ないですよ。
英語がしゃべれるようになったら、
今度は他の外国語、
もしくは古英語、もっと遡って、ラテン語、ギリシャ語だって待っている。
何かを少しでも深めようと思えば、その先は果てしなく広がって行くのは常識だし
語学1つとってみても、「自分」なんていう、ちっちゃなちっちゃなモノとは
比べ物にならないぐらい大きい世界だということなんて、
誰だって簡単に想像つくじゃないですか?
だから、正念場に行き当たった時、本当にそれがやりたければ、
「自分」なんて小さいカラは、さっさと脱ぎ捨てて
、大きな世界に飛び込んで行きたくなるものだし、
実際、それが出来るかどうかで、仕事の質は大きく変わると思うんです。
それは語学に限ったことじゃない。
音楽だって、
例えミュージシャンが、ノンデュアリティのノの字も知らなかろうと、
良い演奏をしたい人は、分かってるんです。
無意識に「自分」といういうものを軽く脱ぎ捨てて、透明になって行くんです。
まるで自分が、何か大いなるものに演奏されている楽器に過ぎないかのごとく。
少なくとも私は、そういう人としか、ライブをしたくない。
音楽だからなおのこと、「自分」を守ろうとする演奏なんて、すぐ分かってしまうんですよ。
でもね、残念ながら、人の命を助けるための医療現場や、
人の心に寄り添う筈のヒーラーやセラピストでさえ、
自分のイメージ、自分のやり方、自分の安心を守るのが先で、
目の前のクライアントさえきちんと見ようとしない人を
これまで嫌と言うほど見てしまった。
最近盛んに「自分」は大事というけれど、
もちろん大事じゃないとは言わないけれど
改めて考えるとね、「自分」って、そこまで大事なのと、ふと思うことがある。
本来好きなはずのものを目の前に、
そんなに大事に守らなくてはいけないほど「自分」って弱いものなのかな?
そう言う私は自尊心低すぎですか?
自己愛足りなさすぎですか?
「私は~さんではなく、
きちんと『先生』と呼ばれたい」というセラピストに会ったことがあったけど
私はそれを聞いたときむしろ、
自信は先生と呼ばれるかどうかではなく、
自分の腕を磨くことでしか得られれないと確信しましたよ。
だから私はキッズに「ヒロコ!」と呼ばれても平気だったし、臨むところだった。
「大人」とか「先生」なんてカラを脱ぎ捨てて、一人の人間としてぶつかっていった時、
むしろ子供達ほど、正直に応えてくれる人たちはいなかったから。
彼らほど、私を鍛えてくれた人たちは、いなかったから。
命とか生命活動って、
「自分」なんて小さな自意識はもとより、
天才とかカリスマとか、教師とかヒーラーとかセラピストとか、
そんなちっぽけなレッテルを貼って限定するのさえおかしく感じるぐらい
想像を遙かに超えた壮大なものだと私は思う。
一体、そんな大きなものの何を守る必要があるというのだろう?
いや、大きいという言葉でさえ、何かを限定してしまうから、使いたくないぐらい。
私は傲慢ですか?
図に乗ってますか?
私だけがそうだと言ってるんじゃない。
みんな一人残らず、そうだと私は信じて疑わない。
自分を捨ててしまえとか、そんな話じゃないんですよ。
自分なんて、あったってなくたっていい。
ただ、あまり「自分」なんてものを握りしめていると、
肝心なときに、自分という小さな枠を乗り越えられなくなるかもしれないと思うのです。
いや、乗り越えるとか言ったけど、
乗り越えるも何も、元からいないから。
いると思い込んでいるだけだから。
(その思い込みは私もまだ時々やってますけどね)
元からいないものを守ろうとしたり
飾ろうとしたりするから
苦しむんだってば。
ママは ボクのこと センセイって いいましが
センセイって おいちいでしか
そういうキミは、真の天才
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#ノンデュアリティをやっていた頃
#非二元論をやっていた頃