永塩因幡守氏継 (ながしお いなばのかみ うじつぐ) 香川県東かがわ市の黒羽城に居城、黒羽神社創建。1467年、細川方として応仁の乱に参戦、京都の相国寺にて討死す。


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◼️香川県東かがわ市黒羽(くれは)は香川県の東端にあり、徳島県との県境に位置する。

黒羽には黒羽神社が鎮座し、秋祭りには伝統の大獅子舞が奉納される。

歌手の笠置シヅ子さんは黒羽の三谷家の出身であり、黒羽の隣の南野からは戦後初の東大総長 南原繁さんが出ている。

また黒羽は瀬戸内寂聴さんの父親である三谷豊吉さんが生まれ育った土地でもある。

黒羽の三谷家は江戸時代から代々、製糖業を営んでいた。現在もこの地で三谷製糖が和三盆の製造を続けている。

近隣の馬宿からは坂出市の塩田開発の父と言われる久米通賢の生誕地が残る。


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🔹黒羽村



くれはむら

香川県:大川郡引田町黒羽村

馬宿うまやど川の中流域に位置する。南に矢野やの山・橘たちばな山・保田奥ほだおく山などの低い山地があり、北部に馬宿川東岸の沖積地が広がる。西は川を隔てて吉田よしだ村、北は馬宿村に接する。

「三代物語」に呉服(くれは)と記すところから渡来人の居住を考える説がある。

室町時代に黒羽城が築かれ、城主永塩氏継は応仁の乱で東軍に属して京都相国寺合戦で討死したと伝える(三代物語)。

寛永国絵図では引田郷に含まれる。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では村高二〇七石余。

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🔹東かがわ市黒羽(くれは)の位置

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🔹黒羽神社で奉納される大獅子





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この黒羽神社は室町時代に黒羽城に居城した永塩因幡守氏継(ながしお・いなばのかみ・うじつぐ)公により創建された。

🔹黒羽神社

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🔹黒羽城跡

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◼️永塩因幡守氏継 (ながしお・いなばのかみ・うじつぐ)

生誕: 生年月日は不明。生誕地は黒羽と推測。

死没 : 応仁元年(1467年)10月3日

生年月日不明 〜 応仁元年(1467年)10月3日

主君 : 細川勝元(讃岐国守護。東讃守護代は安富元綱。西讃守護代は香川氏)

氏族 : 永塩氏

官位に因幡守とあるが、永塩氏継と因幡国(鳥取県東部)との関係は不明。因幡国の国司、守護一覧には名前は出てこない。地元の地方豪族だったと推測。

🔹室町時代(1336年〜1467年) 後期の武将。

現在の香川県東かがわ市黒羽(くれは)に建てられた黒羽城 城主。 細川勝元の家臣。

細川勝元の重臣として東讃守護代を世襲していた安富氏一族惣領の安富元綱らと共に京都御所北側での相国寺の戦いにて応仁元年(1467年)10月3日に討ち死にした。

🔹応仁元年(1467)年8月4日、現在の香川県東かがわ市黒羽に天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を奉祀し、黒羽神社を創建。後に天御中主神は妙見大明神へと変わる。

讃岐の守護は細川勝元、東讃の守護代は安富元綱。安富元綱は家宰として京都で勝元に近侍していた。

応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こると、安富元綱は西讃守護代の香川氏と共に讃岐の軍勢を指揮し、京都を転戦。

永塩因幡守氏継は細川勝元の東軍に属していた。

戦局が西軍有利となる中、応仁元年10月3日、西軍は東軍の本陣であった相国寺を一気に攻撃した(相国寺の戦い)。

東軍の安富元綱は3000騎を率いて相国寺を守ったが、一部の僧侶が西軍に内応して相国寺内部から火を放ったことから東軍側は動揺し総崩れとなった。

元綱は敵の猛攻撃を押し返し奮戦したものの、激戦の末、弟の盛継と共に壮絶な戦死を遂げた。

永塩因幡守氏継も激しい相国寺の戦いの中で、安富元綱らと共に討ち死にした。

相国寺の戦いは応仁の乱でも激戦の一つであった。



🔹永塩一族のその後

相国寺の戦いで、永塩因幡守氏継と共に永塩氏一族の他の者も亡くなったと推測される。

このことがきっかけとなり、黒羽に残っていた永塩氏一族は、帰農し、永峰姓に改姓したとされる。その後、一族の復興が図られた。黒羽の土地には代々、庄屋を務めた永峰家の子孫が現在も住んでいる。

🔸日本姓氏語源辞典によると、永峰姓は、香川県東かがわ市黒羽で戦国時代に永塩氏が帰農して塩を「峰」として改姓したと伝わる。

🔸参考: 黒羽神社由緒、角川日本地名大辞典、応仁記、日本姓氏語源辞典、県報2003、三代物語、全讃史、香川県神社誌、引田町史



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