愛といっても、一言では語れないだろうか。
でも、人は愛を知り、愛に依存し、愛に守られている。

その愛が神さまを生み、神さまもそれを愛(め)で繋げるのだと管理人は信じています。

いきなり深い愛の話ですが・・・。
この愛には血液の様な循環的な要素があって。

幼い頃に、愛を受けてない方は、愛に対する循環の巡りが悪いようです。

ただそれは愛を知らないのではなく、愛を回すのが下手なだけ。

愛とは生まれてきた時に既に発生しており、体内に流れているまたは潜在してるもの。

そして人間はそれを育むものと、遺伝子にインプットされ、コントロールされている。

つまり、愛を知らない人間は居ないのです。


愛が伝わらない時は、己が足りないのだと自己を戒めるとこが大切。

(ちょっとフォロー入れますが、初心者が初めから重いバーベルを持ち上げたらリフティングなんか止めようと思うのと同じで持ちすぎる課題や大きすぎる壁は、本人の愛を小さくしてしまいます。その時は一度逃げるのもそれはそれで重要で成長として必要なのです。余り極端な障害は、ストイックにならない様に(笑))

何故なら、愛を知らない人間は居ないのですから、それはただ伝える側が下手なだけですね~。


簡単に言ってしまうと、

「己を愛するのではなく与える愛を知る」

これが、人間の生き方において重要だと管理人は

ひしひしと感じるのです。



自分が苦しい時に「神さま頼み」となっても当然助けてもらえる訳はなく。

それは「自己に対する愛」が重要視点なのだから当然ですよねぇ。


神さまの愛は、殆どが与えるものといっても過言ではありません。

人に与える愛を知りましょう。

人に与えれる様になってはじめて愛の原液が使えるのです。

使える様になりましょうね。

そうなった時に神さまは、各々の人生と繋がり、時には諭し、時には試練を与え。

そして、道に花を添えてくれます。

神:「おお~お前も良く頑張ったな~」

己:「ありがとうございます。これも神様のお陰です。」

神:「なんの何の、いつも見ていたのじゃが、それはお前の努力で成し得た事。今ワシとこうして話せるのもお前の生きてきた成果じゃ。」


という感じです。

愛は成長して心となり、心は成長して人となります。


逆に情というものがありますが、情と愛は近いところにあって異なるもの。

同じエキスをふんだんに含んではいますが、先は見えないのが情です。

混同しないでください。(情を悪く言ってるのではありません。情は人間として必要不可欠。)

愛を与えうる人は情を断つのも得意とします。

親の愛とはそういうものでしょうか・・。

愛あればこそ試練を与える。

神さまもその辺では全く変わりませんね~。

神さまは、愛はお与えになりますが、情は掛けてくれません。

今まで情に流されていた

(これからも流されるであろう)管理人は

とほほっですよ。

ほんとに。



最期に一言。
人に愛を伝えるという事は、人を独占する事ではないのですよ。間違えないで。