人生は選択の連続と言われる。
今困っている人も、そうでない人もすべては選択の連続の中で生きている。
今日何を食べるかも選択。
どこに行くかも選択。
何をするかも選択。
誰と会うかも選択。
その時、その時にどのような選択を行い、それをどう重ねて生きるかで人の人生は決まる。
今回の震災の場合もそうだ。
ホール、組合の対応の遅さ、ファンから反感を買うような営業方法、義援金箱の有無など、
今、こうなって指摘されているが、それは今始まったことではなく、
ずっと前からの「選択の基準」から来ているものだ。
急に変えられないのだ。当事者にとっては「当たり前のこと」をしているだけだ。
現在のパチンコバッシングは「過去の選択の結果」でしかない。
この問題はすべての業界人に責任がある。
「私はちゃんとやってきた」は通らない。
すべての業界人は、「業界の選択」に従ってきたのだ。
話が逸れた。ここではそんなことはどうでも良い。
人は何を基準に選択を決めるのか。
自分のため?他人のため?社会のため?
自分のためでも他人のためでも社会のためでも良いと思う。
問題はそれが「自分は何のために生まれてきたのか」に結びついているかどうかだ。
・・・
「自分のため」だと言う人にも2つの種類がある。
「自分の志を守るため」。
「自分を守るため」。
前者は自分が置かれた環境に依存せず、後者は自分が置かれた環境に依存する。
前者は長期的ビジョンであり、後者は短期的ビジョンだ。
前者は「他人のため、社会のため」になるが、後者は生きる屍だ。
・・・
間もなく通信が復旧するに従い、被災者の方々の声が多く聞かれるようになるだろう。
彼らが発する言葉の中心は「志」であるはずだ。
被災者でない私たちは彼らに多くを教えられるはずだ。
それまでに私たちは「その言葉を聞く資格」を得なければならない。
東北のあるホール社長と連絡が取れた。
「この地域は何も無くなってしまいました。全部流されました。
だから私にはやらなければならないことが山ほどあります。」
私たちは選択の基準を考え直す時期に来ているのではないか。
もう一度考えたい。
「何のために今生きていて、そのために今何をすべきか。」
未だ行方が分からない東北の友人とそんな話がしたい。