俺が高校3年のときの話だよ。その頃はまだ祖父が健在でね。よく縁側に出て

タバコを吸ってたもんだ。でね、たまたま俺が居間で勉強してたとき、
ジイちゃんの弟、大叔父っていうのか、が外から庭を通ってジイちゃんのとこに
遊びに来たんだ。それで、縁側にジイちゃんと並んで座って、あれこれ世間話を

始めた。でね、途中からこんな内容になったんだよ。「そいえば、

坊主町の件(くだん)の家な、とうとう取り壊して更地にするらしいぞ」
「へえ、あれは築百年近いだろう、もったいないような気もするが、
あんな破れ屋になっては売れんだろうからな」
「にしても、終戦後はいろいろと話題になったよな」
「ああ、件てか、牛女の話だろ。わしらの学校でも騒ぎになっちょった」

俺はそろそろ勉強に飽きがきてたところだったんで、

牛女、って言葉を聞きつけて興味を感じて会話に加わったんだよ。
「叔父さん、牛女って今言ったけど、それ何なん?」
俺の問いに、ジイちゃんと叔父さんは顔を見合わせてたが、
ジイちゃんが、「ま、ずっと昔、ジイちゃんが学生だった頃の話だけどな。
ある家に、牛女がいるって噂が広まってたんだよ」
「牛女って?」 「何というかな、まあマンガに出てくるような妖怪だよ。
件って知ってるか?」 「知らん」
「件てのは、体が牛、顔が人の化物で、母牛から産まれてくる。なんでも、
戦前にその件が産まれて、こんたびの戦争は負けるって予言をしたらしい」
「へええ、役に立つ妖怪か」 「まあそうだ」
「んで、牛女ってのは件とは違うんか?」 

「ああ。牛女は件とは逆で、頭が牛、体が人なんだ。
これは人間から産まれて、やっぱり予言するらしい」 「へえ、じゃ牛男ってのも

いるんか?」 「そこまでは知らんが、こういうのはまあ、
たいていが女なんだよ。男だと間抜けてるだろう」
「で、それがどしたん?」 「今、高級住宅地になってる坊主町にな、
その牛女が住んでた家が廃屋になって残ってたんだが、とうとう取り壊すらしい」
「坊主町のどのあたり?」 「あの○○山の分譲地を背にした崖下のあたりだ」
これはいいこと聞いたって思ったんだ。牛女・・・うーんなんかぞくぞくする

響きで、それで、仲間をさそって見にいってみようと思ったわけ。
それまでにも、廃屋に入って探検ごっこみたいのはしてたんだ。
で、次の日曜、部活が終わって飯食った後の4時ころだったな。

当時友だちだった同じバスケ部の安田ってやつを誘ってチャリで行ってみたわけ。
場所はジイちゃんから聞いたとおりですぐわかった。
それが瓦屋根の、平屋だけどすごいでかい家だったんだ。
ただし木造で古くてね、こりゃ人が住むのは無理だってすぐわかるほど
やれてたんだよ。取り壊しはもう業者が入ってるみたいで、
家のまわりに足場が組まれてたが工事の人の姿は見えなかった。
俺らはぐるっと一周して、したら安田が「入ってみよう」って言い出した。
うん、横手に窓枠ごと落ちてるとこがあって、そっからなら入れそうだったんだ。
ためらうことはなかったよ。当時は身軽だったから、
その窓枠に足かけて中に入ってみたんだ。そこは廊下になってて、
ぶ厚くホコリが積もって、さらに床板も腐ってぶわぶわしてたんだ。

窓がないから雨が入ったせいだと思うけど、踏むたびに水がしみ出してな。
「牛女が住んでたんだろ。じゃ、それ監禁してた部屋があるんじゃないか」
「ああ、何てったっけ、座敷牢? そういうやつか」
てことで、順順に部屋を見ていったんだ。部屋は10以上あったよ。
家財道具はほとんどが持ち出されてて、がらんとした印象だったけど、
障子は紙が真っ黄色になってあちこち破れてるし、ふすまは真ん中から横に

折れてるのもあって、薄気味悪い感じが強かったな。あと和室の一つに

大きな箪笥が残ってて、引き出しをあけてみたらカビ臭いのなんの。
中には着物がびっしり入ってたんだが、どれも変色して模様もわからなくなってた。
で、ほとんどの部屋を見終わったけど、座敷牢なんてなかったんだ。
「うーん、これじゃただの家だよな。残るのは便所と風呂場だけだったが、

汲み取り便所は床が腐り落ちれば大変なので、戸をあけて見るだけにした。
で、風呂場の手前にかなり広い脱衣所?があったんだけど、
そこはカビの臭いに混じって、ツーンと酸っぱい臭いもしたんだ。
床に、足の踏み場もないほど細長い布が落ちて渦巻いてた。
「こりゃ何だろ?」安田がその布の一切れをつまみあげて言った。
「おいやめろ、汚いぞ」 布は5cmほどの太さで、くすんだ黄色なんだが、
ところどころにこげ茶色のシミがついてた。
「別に平気だよ。カラカラに乾いてるし」安田が拾い上げた布を、
両手で端をつかんで伸ばすと、もろい感じでビッと切れて、
そっから粉ぼこりがもうもうと舞い、安田はもろに吸い込んでゲホゲホとむせた。
「それ、もしかして包帯じゃないか」

「うっぺぺぺ ・・・かもしれん。牛女に巻いてたやつか。顔を隠すための」
「もう出ようぜ。暗くなってきた」ってことで、
俺らの街まで戻ってから別れて家に帰った。その翌日の月曜。
朝に安田と会って、「昨日はツマンネかったな」って話しかけたら、
安田は顔をぼりぼり人差し指で掻きながら「ああ」って答えた。
その掻いてるとこが、ぼつっと1cmくらいのニキビになっててね。
「なんだ赤くなって腫れてるぞ」 「あ、昨日の夜から痒くてしかたないんだよ」
で、指の爪でぐちぐちニキビを押してると、その横と下にも小さい赤いポツが

出てきた。「お前それ医者に行ったほうがいいぞ、バイキンとか入ったのかも

しれん」 「ああ、とにかく痒いんだ。昨日はサロメチール塗ったんだが、

乾くとすぐ痒くなる」安田は授業中も顔をシャーペンの先でつっついてて、

帰るころには、顔の右半分が真っ赤になってたんだ。
で、ニキビのタネみたいな数ミリくらいのやつがいっぱい吹き出してた。
「監督には病院に行ったって俺が伝えとくから練習休めよ」 「ああそうする」
安田はそれで帰ってって、次の日学校を休んだ。
担任に聞くと、「皮膚科に行ったらすぐ入院になったらしい」って言われた。
で、その夜に家に電話がかかってきて、出たら安田で、
「ちょっと顔がひどいことになってる。今ずっと点滴してるんだ。
何かのアレルギーらしい。でな、クラスのやつらには見舞いに来ないでくれって
言ってくれないか。ちょっと人前に出られないから」こんな話をした。
「えー、長引くのかよ。お前がいないと大変だぜ。もうすぐ県大会なのに」
安田は身長が188あってチームのセンターだったんだよ。

「あと2週間だろ。それまでには治るさ。あんま心配すんな」これは、安田の

こともあるけど、当時、俺はバスケの推薦で大学進学をねらってたんで、
最後の県大会はせめてベスト4には入りたいと思ってたから。
俺は身長もそこそこだったし、なんとか実績つくんないとな。
で、安田は1週間たっても学校に出てこなかったんだ。
担任と部の監督は見舞いに行ってて、監督は、「顔中包帯でぐるぐる巻きで、
あれはちょっと大会は無理かもしれん。今日から、安田がいないことを想定しての
フォーメーションを組むから」って話をした。
で、それから2日して、大会のある週になったとき、
夜に安田からまた電話がかかってきたんだよ。
けど、電話口でモゴモゴしてて、最初は何かのイタズラだと思ったくらいだった。

安田はボーという汽笛みたいな変な声で、「大会の組み合わせ新聞で見た。
浦田工業とだろ。俺がいなくても大丈夫、お前ら2点差で勝つよ」みたいなことを

言った。いや、聞き取るのがたいへんだったけどな。俺は「ああ、頑張る。

監督もお前をメンバーに入れてるから、治ったら大会の途中からでも出てこいよ」
こう励ましたが、ズモモモモみたいな音がして電話は切れた。
浦田工業は格下の相手だったんだが、安田がいないせいで苦戦し、
ロースコアゲームになって18-16でなんとか勝った。安田が言ったとおりの
2点差だった。その夜にまた電話がかかってき、これは安田の母親からで、
安田はちょっと付き添いの目を話したスキに、病院の近くのマンションの
8階から飛び降りたってことだった。安田は即死で、俺らは翌日、大会の2回戦が

あって大差で負けた。安田の葬式には出たが顔を見ることはできなかった。