今回は日本史の話題です。これ、書いていくと本一冊分にも
なりそうな内容なんですが、できるだけかいつまんで話します。
斉明天皇は7世紀の女帝で、まず皇極天皇(第35代)として即位し、
間に孝徳天皇をはさんで重祚(ちょうそ)し、斉明天皇(第37代)

となっています。重祚とは、同一人物が生涯に2度以上、

天皇に即位することです。

斉明天皇


舒明天皇(第34代)の皇后として、中大兄皇子(後の天智天皇)
大海人皇子(後の天武天皇)を産み、夫の死に際して、
後継の天皇が決まらなかったため、自ら即位して、49歳で皇極天皇

となります。在位中は、蘇我蝦夷が大臣として重んじられ、
その子の入鹿が国政を執っていましたが、専横が目立つようになります。

蘇我入鹿


そして起こったのが、治世中の国内最大の事件である「乙巳の変」ですね。
(対外的な最大の事件は「白村江の戦い」ですが、これについて書くと長くなるので
今回は割愛します。)昔は、中高の教科書には「大化の改新」として出てきて
ましたが、改新の実態がはっきりしないため、最近はあまり使われないようです。

『日本書紀』によれば、蹴鞠の会で親しくなった中大兄皇子と中臣(藤原)鎌足が、
蘇我入鹿の殺害を計画し、645年、三韓から朝貢の使者が来日した際、
大臣である入鹿は、儀式に必ず出席しなくてはならないので、
その席において暗殺を決行することとしました。

中大兄皇子と中臣鎌足


中大兄皇子は、官人に命じて入鹿の剣を外させ、宮門を閉じます。
儀式では、石川麻呂が上表文を読みましたが、計画を知っていたので、
声が乱れ、手が震えました。これを不審に思った入鹿が「なぜ震えるのか」

と問うと、石川麻呂は「天皇のお近くが畏れ多く、

汗が出るのです」と答えます。

そのとき、中大兄皇子と仲間が飛び出し、いきなり入鹿の頭と肩を斬りつけます。
入鹿はさらに片脚を斬られ。倒れながら皇極天皇の御座へはい寄り、
「私に何の罪があるのでしょうか。天皇がお裁き下さい」と言います。
中大兄皇子が「入鹿は皇族を滅ぼして、皇位を奪おうとしています」と奏上すると、
それを聞いた皇極天皇は、入鹿の問いには答えず、宮中深くに退きます。

宙を舞う入鹿の首


これが、乙巳の変のあらましですが、この後、入鹿は首を刎ねられ、
ズタズタに斬られて雨で濡れた庭に放り出され、この知らせを聞いた父親の
蘇我蝦夷は兵を集めるも、勝ち目がないことを悟り、舘に火を放ち、
『天皇記』『国記』その他の珍宝を焼いて、自害し果てます。

この事件の後、皇極天皇は息子の中大兄皇子に天皇位を譲ろうとしますが、
中大兄皇子は固辞し、皇極天皇の弟の軽皇子が、
孝徳天皇として即位することになります。皇極天皇は大変な事件に遭遇する
ことになったんですが、ここまでのところで不可解な内容は出てきません。

さて、孝徳天皇は短い在位期間で亡くなり、次の天皇は、
また中大兄皇子が断ったため、655年、皇極天皇は斉明天皇として、
史上はじめての重祚をすることになります。で、この即位式について、
「空中有乘龍者、貌似唐人着靑油笠而自葛城嶺馳隱膽駒山、
及至午時、從於住吉松嶺之上向西馳去。」という奇妙な記述があるんです。

 

天智天皇



(空に竜に乗る者があり、その風貌は唐の人に似て、青い油の笠をかぶり、
葛城嶺から飛んで生駒山に隠れた。午の時になって、住吉の松嶺の上から、
西に向かって飛び去っていった。)これ、いったい何なんでしょうね。
・・・葛城嶺というところにヒントがありそうです。

で、ここから斉明天皇としての治世が始まるわけですが、
『日本書紀』の内容は天皇に批判的です。斉明天皇は大規模な土木工事を
好み、長い水路を掘って舟数百艘を浮かべ、
石上山の石を宮地の東の山に運んで、積み重ねて垣としました。

「狂心渠」とみられる遺構


この無謀とも思える工事に対して、当時の人々はこの水路のことを、
「狂心渠 (たぶれこころのみぞ)」と呼んで非難しました。
また、「石で山丘を作っても、おのずから崩れてしまうだろう」
と言う者もいました。ちなみに、奈良の明日香村にある酒船石遺跡は、
斉明天皇の時代のものと推定されています。

2000年の大規模な発掘によって、周囲には石敷がほどこされ、
さらに石垣で取り囲まれていることがわかりました。
はっきりしたことは不明ですが、斉明天皇自らが、何か水を流すような
道教的な儀式を行っていたのではないかとする説があります。

酒船石遺跡の亀型石造物


さて、661年、斉明天皇は崩御しますが、このときの記述がまた異様です。
「是夕於朝倉山上有鬼、着大笠臨視喪儀、衆皆嗟怪」 (夕刻、朝倉山の
上に大笠をかぶった鬼がいて、天皇の葬儀をのぞき見ていた。
人々はみなそれを怪しんだ。)笠をかぶっているところから、おそらく即位式の
ときの鬼と同じものでしょう。では、この鬼、いったい何者なんでしょうか?

これを、蘇我入鹿の亡霊、あるいは蘇我蝦夷の怨霊と考える人が多いんですね。
上で、葛城嶺のことに触れましたが、葛城は蘇我氏の祖廟の地とされます。
血だらけで助けを求めたにもかかわらず、皇極天皇に見捨てられた蘇我入鹿が、
鬼となって、ずっと斉明天皇を恨み祟っていた。

さてさて、では、斉明天皇は本当に蘇我氏の怨念を受けてたんでしょうか。
これ、自分はけっこう疑問です。蘇我氏を実質的に滅ぼしたのは、
中大兄皇子(天智天皇)と藤原氏ですよね。ところが、『日本書紀』では、
鎌足の息子である藤原不比等の関係で、そう書くことができない事情があるため、
斉明天皇が蘇我氏滅亡のすべての責任を負ったように記述された・・・
そういう側面があるんじゃないかと疑ってるんです。