じゃあ話していきます。あ、僕は佐々木といって、中小の建築会社に
勤めてます。で、僕、今年の4月にアパートからアパートに
引っ越したんです。理由は、そこのほうが会社に近いのと、家賃が
前のとこよりいくらか安かったことです。といっても前のとこが
7万2千円、後のとこが6万5千円だから、そんな違うってほどじゃ
なかったんですけどね。ただ、後のとこのほうがは最初からエアコンが
部屋に備え付けで、それも家賃に含まれてるってことでした。あと、
やっぱり会社に近いだけに交通費が安くなるじゃないですか。僕は
電車通勤なんですが、月にすればけっこうバカにならない金額でしょう。
でね、そこ新築じゃなくて中古だったんです。それで、入居前、
物件を決めるときに告知をされたんです。

不動産屋は「ここ、3ヶ月前に入居者が亡くなってるんです。といっても
自殺や事故死ではなく、急な病死で、それも死後2日で発見されたから
特殊清掃の必要もなし。本来は義務はないんですが、そのために
家賃が5000円ほど安くなってますし、いちおう告知させてもらって
るんですよ」こんな話をされたんです。僕はもともとそんなのまったく
気にしてないし、安くなるのは大歓迎ですからね。そこに決めたんです。
でね、さっそく引っ越しをして住んだんですが、最初の1ケ月くらいは
何もなかったんです。まあもともと、会社は忙しくて寝るだけのような
部屋だったんで、何かあっても気がつかなかったのかもしれないですけど。
でね、最初の1ケ月が過ぎた頃に異変が始まったんです。
異変っても、心霊現象だとはまったく思わなかったですけど。

夜に寝て、そうですね。睡眠時間は6時間半くらいかな。朝は毎日
目覚ましをセットしてて6時50分に起きます。ギリギリまで寝てたいんで
これが限界の時間なんです。それで朝起きると腰が痛いんですよ。そんな
にひどくはないんですけど、ズーンと重い感じが続く。といっても5分くらい
ですけどね。まあ10分もすれば気にならなくなりましたから、たいしたこと
ではなかったんですけどね。それから3日後、妙なことに気がついたんです。
その部屋、ユニットバスっていうんですか、トイレと風呂がいっしょのとこに
あるんですけど、そこの洋式便器の後ろに手洗いの場所がついてるんです。
ほら、水洗の水を無駄にしないための。僕、手は洗面所で洗ってたんで、
それ使ったことがなかったんですけど、白い陶器のそれの真ん中辺に
バツじるしがついてたんです。あれ、と思いましたよ。こんなのたしか

なかったのに。そう思ってタオルでこすったらなかなか消えなかったんです。
たぶんサインペンとかで書いたんだと思います。でも、しばらくこすったら
とれたので、そのときはそんなに気にしなかったんです。
でもね、翌朝目覚めてすぐまた同んなじとこにバツがついてたんです。
このときはさすがに変だなと思いました。このときはなかなか消えなかったし、
字が太かったので、たぶん油性マジックだったんだと思います。
次の朝も同じでした。それで、さすがに変だと思って、会社で
そういうのが好きな同僚にこの話をしたんです。そいつ、青木というんですが、
「へええ、毎朝トイレの手洗いにバツがついてるってか。うーん、そこ
お前しか住んでないんだろ。それと日中は鍵かけてるんだろ。
不思議だな」続けて、「不動産屋から話がなかったのか?」って聞いてきた
 
んです。「ああ、告知はあった。前の住人が亡くなってるけど、変死じゃ
なくて病死だし、すぐ発見されたってことだ。俺としては幽霊とか
信じないし、家賃が少しでも安くなってよかったと思ってるよ」
すると青木は「お前、昼休みに不動産屋に電話かけて、前の住人のことを
詳しく聞けよ。あと、会社のビデオカメラのあいてるやつを持ち出しても
いいから、今夜三脚立てるとかして便器前にカメラセットしてタイマーで
撮ってみろよ」こう言われたんです。で、難しいことでもないんで、
どっちもやりましたよ。まず、前の住人は不動産屋はちょっと渋ってたんですが、
こっちが粘ると「まあ、秘密でもないんです。67歳の年金生活者の男性で、
急な脳出血で亡くなったが、前にも話したようにすぐに見つかったんです。
お金には困っていたようで、かなり切り詰めた生活をしていて家賃の滞納も

ありました」こんな話だったんです。まあ、化けて出るような感じでも
ないじゃないですか。あとはビデオカメラをセットしましたが、便器の前には
スペースがあまりなくて、これは大変でした。でね、その日の夜のことです。
夜布団に入って、カメラをセットしたことも忘れて熟睡してたはずが、
ガチャーンという音で目が覚めた・・・というか、そのまま便座の蓋の上に
背中を打ちつけてしまったんです。床に倒れ込みそうになりました。でね、僕
そのとき、手に黒マジックを持ってたんです。何だこれは。と思いました。
音は倒れたとき、自分で足をビデオカメラを引っ掛けて三脚が倒れた音だったん
ですよ。ビデオカメラを回収し、部屋に戻って息を整え、それからビデオを
見たんですが、僕が目覚める直前、ビデオに服が接写されてて、それ僕の
パジャマの膝だったんです。なんでこんなものが写ってるんだろう。

それと自分が手にマジックを持ってたこと・・・考えていちおう結論が
出ました。僕は寝たまま夢遊病のようにトイレに行った。机の上の
ペン立てにあったマジックを手にして。そしてトイレの蓋をしたまま、
カメラのほうを向いてせまい空間に立ち、後ろにマトリックスの映画のように
のけぞってトイレの手洗いに自分でバツをつけようとした・・・
そうとしか考えられなかったんです。だからバツじるしは自分でつけてたって
ことになるし、朝に腰が痛いのも説明がつきます。これまで、こんなことは
一度もなかったのに、なんでこんなことが起きたんだろう?
その日は水曜だったので、出勤しないわけにいかず、ビデオを持って
会社に出ました。そのまま午前中仕事をし、昼休みに青木のいる部署に行って
昨夜起きたことを話し、ビデオも見せたんです。

青木はしばらくうなってましたが、「そうか、バツはやっぱり自分でつけてたか。
思ったとおりだ。あの部屋にはお前しかいないんだから、やったのはお前だと
思ってた。そのトイレの手洗いが怪しいな。何かがあるんだろう。会社が終わったら
お前の部屋に行って確かめてみよう」こう言ったんです。それで、会社が終わった
7時過ぎ、青木といっしょに部屋に戻りました。「確か前、引っ越しのときに
来たよな」青木はそう言いながらバシャバシャデジカメで部屋の中の写真を撮り、
「ああ、やっぱり」と言ってモニターを僕に見せたんです。小さくてわかりにく
かったんですが、その写真、部屋いっぱいにオーブみたいなものが写ってたんです。
それからトイレに行って、手洗いの上部を外して中をさぐったら、水のかからない
部分に封筒が一枚、防水テープで貼りつけてあったんです。「これだな。前の
住人が知らせたかったのは。よほど大事なものが入ってるんだろう」

その封筒を手にして部屋に戻り、中を開けると、入ってたのは一通の貯金通帳。
よほど大金が入ってるだろうと思いますよね。で、開いてみて衝撃を受けたんです。
残高が7万4千円だったんですよ・・・たったこれだけの額のために、僕を
動かして見つけさせようとしたのか。年金生活で働いてなかったということ
だけど、生活が苦しかったんだろうな。そう思いました。
もちろんそのお金は公にして、子どもはいなかったようなので、葬儀に関わった
親戚に渡しましたよ。これで気がすんのか、トイレの手洗いにバツがつくことは
なくなり、腰も痛むことはなくなったんです。ええ、その部屋には今も
住んでいますよ。何も起きませんし、写真を撮ってオーブが写ることも
なくなりました。こういう話だったんです。この後 青木と話したんですが、
「今、年金だけで暮らすのは大変だよなあ。無理に近いと思う。

ほら、老後資金が2000万必要だなんて話も出てるだろう。これから
少子化でますます年金は削られるだろうし、もしかしたら破綻するかもしれない」
「そうだよなあ。今すでに数人の若者で一人の年寄りを支えてるって
いうだろ。このまま続けるのは無理なのかもしれん。しかも平均寿命はどんどん
伸びてるし、人生100年時代っていうからな。それにますます少子化だし、
私的な年金に入っていたほうがいいのかもしれんな」こんな話題になったんです。
それにしても、怖い話のはずが、なんともわびしい話になってしまいました。
「結局、なんでも世相を反映してるんだよな。幽霊も例外じゃないらしい。
株価は上がってるようだが、これから日本はどうなるんだろうな」
こんなことを言い合ってため息をついたんですよ。

・・・これで終わります。何か質問がありますでしょうか。