☆☆ あなたのシニアライフは豊かになりますか? ☆☆


■2015.06.21 ラン

昨日に続いてのランだ

今日は西方面を制覇しよう!

腰越の万福寺を目指して いざ 出発だ

ここは、日ごろ素通りしている英勝寺前の石碑

太田道灌邸旧蹟 (おおたどうかんていきゅうせき)
01太田
太田道灌邸旧蹟
(石碑説明)
この場所は太田道灌が江戸城を築く前に住んでいた屋敷の跡。
道灌は軍略と文才を兼ね備えた人で
「武蔵野は、萱原(かやはら)の野と聞きしかど、かかる言葉の花もあるかな」
と、天皇にも誉められる程の人でした。
英勝寺は寛永十一年(1634)に水戸藩を開いた徳川頼房(よりふさ)の乳母でもあった
英勝院によって建てられた。その英勝院は道灌の子孫である太田康資(やすすけ)の娘で
晩年、徳川家光から特にこの地を授りて受けてたもの。
太田道灌が一人で馬に乗り雨の中を駈け萱葺(かやぶき)の人家の前で雨具を乞うと
少女が山吹の花一枝を差し出した、という故事はこの地に住んでいた頃の逸話。

位置:扇ヶ谷1-16-3英勝寺の山門前右側に建つ。

石碑脇のアジサイは日当たりがよくて立派


ここから海岸方面へ向かいます

御成小の手前 こんな案内があった
02今小路
今小路通り

なるほど・・・

少し進むと佐助川を通過・・・
03佐助川
佐助川

おっと、ここが裁許橋

鎌倉十橋のひとつだね。

名前の由来は訴訟を裁許(判決)する問注所が近かったことでこの名前とか。
また別名を西行橋とも、「橋の上で西行法師が頼朝に名を尋ねられた」とか

「この橋を渡った」からなど、諸説あるようだ
04裁許橋
裁許橋(さいきょばし)

ちょうど真ん中に琉球アジサイが咲いていた

最盛期にはたくさん咲いて 毎年楽しませてくれる
05琉球朝顔
琉球アジサイ

あまり鮮やかできれいなので

橋の間からも一枚 パシャ!
06琉球朝顔2
青々 琉球アジサイ


さあ、先は遠いぞ

今度は六地蔵へ

到着

どこだろうか?

後ろかぁ

飢渇畠 (けかちばたけ)
07けがちばたけ
飢渇畠
(石碑説明)
ここは昔、処刑が行われていた場所で
のちに土地の人が六地蔵を置いて死者の霊を祀りました。
現在は供養塔や松尾芭蕉の句碑などがあり、石の柵でかこい整理されています。
位置:由比ガ浜1-3-9付近で,六地蔵交差点の六地蔵の中に建つ 

処刑場かぁ (合掌)

お地蔵さん周りはこんな感じだ

じっくりお参りするは初めてだ!
08六地蔵
六地蔵



ここから西の 

長谷方面に向かいます

途中 銀座通り

可愛らしいお店だ
09可愛いショップ
可愛いショップ


さらに進むと

行きつけのラーメン屋さん

つけそばがおすすめ

魚ベースのスープだ

はなびラーメン
10ラーメンはなび
はなび


ラーメン屋さんからすぐ近くに

次の石碑だ

これはわかりやすいところにあるね(^_^)

主馬盛久の頚座 (しゅめもりひさのくびざ)
11主馬
主馬盛久の頚座
(石碑説明)
主馬とは、馬や馬具の管理をする役職を言います。
盛久は、平家に代々仕えた主馬盛国(もりくに)の子であります。
平家が亡んだ後、盛久は京都に隠れ、清水寺で願を掛けていたのを
北条時政(ときまさ)に捕えられ鎌倉に送られました。 
そして1186年6月にこの場所で処刑しようとした時
刀が折れ散るということなどが起きたため許されました。 
それどころか、頼朝から領地を与えられたと言うことです。

位置:長谷1-7-2付近で長谷東町バス停の西50へメートルの北側に建つ

主馬盛久の頚座回り
12主馬2
周辺

右わきのも石碑と案内がある

ほぼ、同じ解説だ
13盛
別案内


こんどは

文学館前を由比ヶ浜方面へ一旦もどると

見つかりました

染屋太郎大夫時忠邸址 (そめやたろうだゆう・ときただていあと)
14染屋
染屋太郎大夫時忠邸址
(石碑説明)
染屋時忠は、藤原鎌足(かまたり)の4代目の子孫に当たり
父親は奈良東大寺の僧の良弁(りょうべん)であります。
文武天皇の時代(697-707)より聖武天皇の時代(724-728)の間、鎌倉に住み
関東諸国の総司令官であり、また東北地方も安定させました。
また由比長者といわれたそうですが、詳しいことは分かりません。
ここの南方に長者久保と言う地名があるのは、屋敷の跡であるといわれている。
また甘縄神明宮の甘縄院は時忠が建てたものと伝えられています。

位置:長谷2-4-1付近の邸宅の道路に面する一角に在り
   文学館交差点から東南に10メートル入った右側に建つ。

石碑のある場所はいろいろだけど ここは普段生活の場にあるんだね。
15染屋2
染屋太郎大夫時忠邸址周辺


続いて 通りの向いにある

文学館の先

長楽寺跡 (ちょうらくじ・あと) 
16長楽寺
長楽寺跡
(石碑説明)
長楽寺は、嘉禄元年(1225)三月に頼朝の妻の政子が、頼朝の供養のため建てた。
場所は笹目が谷辺りで、800メートル四方の土地を選び、七堂伽藍を建てました。
その後元弘三年(1333)五月に鎌倉幕府が亡んだ時、戦火で焼けてしまいました。
この場所がその跡で現在でも長楽寺という地名が残っています。

位置:長谷1-5-3付近 鎌倉文学館の入り口の手前右方に建つ。

目の前におおきな土嚢がつみあげられてた

この辺り、そんなに大きな山も無いのに 

文学館の山手から水が出るんだろうか

長楽寺跡 文学館すぐ横
17長楽寺2
長楽寺跡 土嚢


文学館の門前

鎌倉にゆかりのある文学者は超有名どころでは
川端康成・夏目漱石・芥川龍之介・与謝野晶子などなど数多く
ここでは作者の直筆原稿や手紙・愛用品などを保存展示しています

月曜日が休みで9:00~

また春と秋にはバラ園も楽しめるお庭もいいです

門構が歴史を感じますね
18文学館
文学館の前

入口までの路 趣あります
19文学館2
文学館の前路


ここから長谷に向かう通りまで出て

次は甘縄神明宮神社前の石碑探し

見つけた

足達盛長邸址 (あだちもりながていあと)
20足達
足達盛長邸址
(石碑説明)
足立盛長は、源頼朝が伊豆の蛭が島にいる時、頼朝の計画が成功するように積極的に協力しました。
石橋山の戦で敗れ、源氏の前途が真っ暗になったときも、盛長は頼朝と共に小船で南房総に逃げて
そこで軍を建直し計画を練りました。白旗が鎌倉にはためく時がくると、その功績により、重要な
地位に就きました。盛長の子の盛景(もりかげ)、孫の義景(よしかげ)が家を継ぎました。
また頼朝やその後の将軍がしばしば訪れました。この場所がその屋敷のあった場所です。

位置:長谷1-12-1甘縄神明社の参道入り口右側に建つ

ここは甘縄神明宮は710年行基が草創し、豪族の染屋時忠が建立したとのこと
鎌倉で一番古い神社といわれており、長谷の鎮守です。
前に海、後ろは山という長谷あたりが、鎌倉では早くから開けたところだと言われています。
ちなみに甘縄の「甘」は海女のことだそうです(驚き)

今日は寄らないけど

この参道のずっと上に神社あります

こんど来ます(⌒_⌒;
21足達2
甘縄神社 参道



続いては長谷観音のお隣のお寺

光則寺前の石碑

宿谷光則屋敷跡 (やどやみつのり・やしきあと)
23こうそくじ2
宿谷光則屋敷跡
(石碑説明)
宿谷光則は、北条時頼(ときより:1227-1263)に仕えた役人でした。
文応元年(1260)七月十六日、日蓮聖人は立正安国論という論文を
時頼に渡してもらおうと長谷にあった光則の家を訪ねました。
そしてその理由を詳しく説明してからその論文を光則に手渡しました。
日蓮聖人が竜口(たつのくち)で処刑されようとした同じ時期、
最愛の弟子である日朗(にちろう)も捕らえられ、
この家の後の山腹にある土牢に入れられました。
光則は深く日連聖人を信じ、自分邸宅を提供して寺を建てました。
それがこの光則寺であります。これらのことを襟を正して当時を追懐。

位置:長谷3-9-7光則寺の山門入った正面に建つ 宿谷光則屋敷跡



光則寺の山門前

22こうそくじ
宿谷光則屋敷跡 周り

ここ光則寺から山門下を望む

結構奥が深いです

なのでこの参道では毎月 地元の人で朝市が開かれています(にこ)
24こうそくじ3
光則寺 参道


さてとここからは極楽寺方面へ向かいます

途中 長谷観音案内版

かわいいですね
25長谷寺看板
長谷看板

さあ、極楽寺坂

トウチャコ

西に登る

極楽寺坂 (ごくらくじざか)
26ごくらくじさか

西に向かい右手

極楽寺坂石碑
27ごくらくじ2
極楽寺坂
(石碑説明)
ここは昔は山々が重なっていた所でしたが
極楽寺を開いた僧の忍性(にんじょう)が一本の路を切り開いたと伝えられています。
その極楽寺切通(きりどうし)と言うのはこの道のこと。 
元弘三年(1333)に新田軍が鎌倉へ攻め入った時
その軍の大将大館宗氏(おおだてむねうじ)と江田行義(えだゆきよし)が
この道を進行して行きました。それを鎌倉軍の大将大仏貞直(おさらぎさだなお)は
この坂に陣をしいて相戦った場所です。

位置:坂ノ下18-28付近で 成就院の参道石段の始まる付近の右側辺りに建つ


下り坂 駅へ
28極楽寺坂
極楽寺坂  下り


桜橋から極楽寺駅を望む

ここの反対側には極楽洞があり

この桜橋から江ノ電を望むシーンは 有名なスポット

極楽寺駅
29ごくらくじ電車
江ノ電 極楽寺駅


駅から崖を見上げると

りっぱなアジサイ
30ごくらくじあじさい
極楽寺駅前あじさい


駅前の案内です

じっくり見たことないので・・・

あとで読んでみました(^―^) 
31ごくらくじあんない
極楽寺案内

駅前の写真

無人だ 観光シーズンなんでこれから人で溢れ出すだろう
32えきまえ
駅前


停車中の江ノ電くん

これは20系

レトロを継承している車両
33江ノ電とまり
江ノ電 車庫


ここは昔の一両編成 108系 タンコロ保管場所だ

34たんことしゃこ
江ノ電タンコロ保管場所



1000系

最新型

2台に1台は こんな広告的 カラフル車両です。(^―^) 
35うごいてる電車
動いてる江ノ電



稲村ケ崎駅手前の踏切脇のお店

はしって通り過ぎたんで・・・・

何のお店?

森中? お祝いのお花が綺麗だ
36開店祝い
開店祝い


ここからすぐさきはもう海

稲村ケ崎を望む
37稲村ケ崎海
稲村海

海岸まで下りてみた

稲村から江の島を望む

鈍より曇り空 
38稲村うみうみ
江の島望む

さあ、ゴールの万福寺までままだあるぞ

まずは 聖福寺址を攻略だ

気を引き締めて 頑張ろう

ここからずっと坂を登る

緩やかなさかだけど  しんどいぞ

堪えるな・・・・


どこだどこだ 良くわからない


かなりロスしたけど

ようやく 発見

公園の脇にあった!
41せいふくじこうえん
聖福寺公園


聖福寺址 (しょうふくじ・あと)
40せいふくじ
聖福寺址
(石碑説明)
聖福寺は建長六年(1254)四月に、北条時頼(ときより)により建てられた寺です。
建立は鎌倉幕府が長く続くことと、時頼の2人の息子、
時輔(ときすけ、幼児の名前:聖寿丸[しょうじゅまる])と
時宗(ときむね、幼児の名前:福寿丸[ふくじゅまる])が
病気をせず長生きできることとを願うためでした。
寺の名前は、2人の息子の名前を採ったものと伝えられていますが
この寺が廃止された時期よく分かっていません。
この谷を聖福寺谷(しょうふくじがやつ)と呼んでいます。

位置:稲村ガ崎5-39-6付近で,正福寺公園の東北端に建つ。



公園の脇に咲いてた
39きいろゆり
黄色ユリ

ここはほんとうに探すのに苦労したね・・・・




ここから七里ヶ浜へでよう


しんどくなったかな

カレー屋さん
42七里サンゴ礁
サンゴ礁



鎌倉プリンス前

打ちっぱなし もう 何年も来てないなぁ
43ぷりんす
ゴルフ場


ここからの ながめも

人気スポット
44プリンス海望む


134号沿い こんなところに!
44プリンス海望む
ゆり2色

あと少しだ

空を見上げた
46そら飛行機
飛行機


もう そこだ

腰越が見えてきた
47鎌倉高校前
鎌倉高校前


やっと 着いたぞ
48万福寺まえ
万福寺石案内


踏み切りを渡って

階段を上る
51万福寺3
踏切前


義経と弁慶の物語・・・

足止め
52万福寺案内
万福寺案内


お寺の門前
53万福寺山号
万福寺 山号



義経宿陣之址
50万福寺2
義経宿陣之址 (よしつね しゅくじんのあと)
(石碑説明)
文治元年(1185)5月、源義経は平家と戦って平宗盛(たいらのむねもり)を捕虜にし
鎌倉の入り口である腰越まで帰ってきましたが、頼朝は義経の事を信用していないため
鎌倉に入ることを許しませんでした。そのため腰越に留まったままでした。
この時、無念の気持ちを一通の嘆願書にして、大江広元に渡したことが
吾妻鏡(あづまかがみ)に書いてあります。
これが世に言う「腰越状」で、その下書きといわれるものがここの満福寺に残っています。

位置:腰越2-4-8にある満福寺の山門入ってすぐ右側に建つ

義経宿陣之址 周辺
49万福寺石碑
万福寺境内



さあ、ここから 帰り道

七里
54しちり
七里ヶ浜の江の島




稲村ケ崎 アジサイ
55稲村公園あじさい
稲村 あじさい


稲村ジェーン もどり
56江の島望む
稲村から江の島望む



坂之下公園

アメリカデイゴが元気!
57坂之下アメリカデイゴ
坂之下公園

立派なデイゴ
58坂之下アメリカデイゴ2
アメリカデイゴ

あとは2つ

ここから町中へ
59由比ヶ浜だ
由比ヶ浜戻る


途中のお宅

やまぼうし

ハナミズキに似ていて

綺麗だね
60はなみずき
やまぼうし

拡大
61はなみずき2
拡大やまぼうし


いよいよ


あと 二つ

まずは 佐助

松谷寺及佐介文庫址
62過ぎ
松谷寺及佐介文庫址 (しょうこくじ および さすけぶんこあと)
(石碑説明)
佐介文庫の名は、昭和五年に金沢文庫に伝わる仏教書物の由緒書きより発見され
初めて世に知られるようになりました。またこの佐介文庫は、松谷(まつがやつ)文庫
または佐介松谷文庫とも言われ、金沢文庫と同じ時代にできたと想像されますが
その作った人、あった場所、規模、存続した期間など詳しいことは分かっていません。
しかし、北条氏の一族である佐介氏がその家の中に寺と文庫とを建て、その地名を寺の
名と文庫の名とに当てたものと思われます。この場所の地名が現在松が枝または松が谷
と伝わっているため、松谷寺および佐介文庫は共にこの付近に在ったものと推定されます。

位置:佐助1-16-17の住宅の西南角で法務局交差点から
   西へ100メートルへ進んだ交差点の東北端に建つ。


松谷寺及佐介文庫址 周辺
63杉2
周辺・・・


今日のラスト  法務局 横

蓮華寺址
64れんげじ
蓮華寺址 (れんげじ・あと)
(石碑説明)
蓮華寺は、仁治元年(1240)に、僧侶の良忠(りょうちゅう)を開山として、北条常時(つねとき)が、
建てました。 寛元元年(1243)にこの寺を材木座に移し、寺の名前を光明寺と改めたと伝えています。
また一説によると、蓮華寺は経時(つねとき)の菩提のため、建長三年(1251)に北条時頼(ときより)が建て
その後、後弘安二年(1279)の頃に、武蔵へ移したともいわれています。
この谷を佐介ヶ谷(さすけがやつ)と言います。
昭和九年(1934)三月 鎌倉町青年団建 「この石碑は、 昭和九年に鎌倉町青年団により蓮
華寺跡と思われる松が谷内(登記所西側谷戸)に建てられたものですが、藤沢-鎌倉線の開通に伴い、
この場所に移されたものです。」従って現在地は遺跡ではありません。

位置:佐助1-13-6 横浜地方法務局鎌倉出張所の道路側に建つ。



法務局 周辺
65蓮華寺2
蓮華寺址 



突然、内ももの筋肉がつってしまい・・・・・

歩くこともできなくなった。

しばらく、しゃがみこんで

一休みしてから

歩き出したが・・・・

ついに、力尽きたか

今日のタイム
70あるきだしたきろく


なんとか、帰宅することができたぁ(汗)

あと少しで20Kmなのに そこまで走れなかった(´_`。)

やはり、二日続けるのは 少々 堪えたかな・・・

でも、また来週も土日雨降りしなければ、チャレンジだ!

めざせ、フルマラソン


(石碑出典:鎌倉史跡碑


☆☆ あなたのシニアライフは豊かになりますか? ☆☆