御依頼の再現時期は1985年の姿

先ず、西宮北口駅の当時の姿は私の記憶では周辺が絶えず工事中だった記憶が・・・

ダイヤモンドクロスを立体交差にする工事だったような気がする

工事前と工事後の駅の姿を見つけて比較検討(再現可能なのか)が必要

 

 

西宮北口駅wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%AE%AE%E5%8C%97%E5%8F%A3%E9%A7%85

西宮北口駅 - Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%AE%AE%E5%8C%97%E5%8F%A3%E9%A7%85

 

西宮北口駅(にしのみやきたぐちえき)は、兵庫県西宮市高松町[注 1]にある、阪急電鉄[2]。副駅名は阪急西宮ガーデンズ。駅番号はHK-08

概要[編集]

西宮市の中心駅の一つで、市内では最大の乗降客数を誇る。

神戸本線今津線が接続する乗換駅[2]でもあり、今津線は当駅を境に宝塚駅方面は「今津北線」、今津駅方面は「今津南線」と呼ばれることがある。神戸本線の列車は、今津線と直通する列車を除いて車掌及び運転士は当駅で交代する。

神戸本線と今津北線の間を直通運転する準急直通特急臨時急行を除く(後記「のりば」参照)全営業列車が停車する。神戸本線の急行は当駅以西(通勤急行塚口駅以西)で各駅に停車する。

かつては国鉄東海道本線西ノ宮駅(現在のJR西日本西宮駅)や阪神本線西宮駅と区別するため、当駅周辺の住民を中心に「キタグチ(北口)」と称されることが多かったが、現在は若年層を中心に「ニシキタ(西北)」と称されることが多く[3]、西宮北口界隈を紹介するメディアや当駅周辺の分譲マンション広告などでも『ニシキタ』の呼称が一般的である[4]

大阪(大阪梅田駅)と神戸(神戸三宮駅)のほぼ中間に位置している。

歴史[編集]

西宮北口駅の構内(1957年)

阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道が、灘循環電気軌道を買収して十三線の名称で阪神間の新線を計画した際は、この地域は今より北の門戸厄神付近を経由する、現在の山陽新幹線および国道171号のルートに相当するルートで申請されていた。これは十三線の敷設が主に伊丹一帯の開発を名目としていたためであり、また十三線の申請以前に宝塚 - 西宮香櫨園(現在の阪神本線香櫨園駅付近)間の免許を箕面有馬電気軌道が所有していたため、それと接続する形を取ったからでもあった。

しかし阪神間を高速で結ぶ目的を達するため、同社は伊丹へは支線の伊丹線を開業させることで代替とし、南の塚口を経由する短絡ルートへ変更した。それに伴い宝塚から南下する計画線との接続点も変更され、結果両線の接続および車庫の設置を目的とし、当地に駅が開設されることになった。

阪神急行電鉄」も参照

開業時、駅は西宮町(1925年に市制施行で西宮市となる)の市街地から大きく離れ、武庫郡瓦木村1942年に同市へ編入)に属する農村地帯に存在したが、当初より「瓦木」ではなく「西宮北口」を名乗った[注 2]。これは、宝塚からの支線(西宝線として1922年に開業)をさらに南下させ、西宮の市街地まで延伸させる計画があり、それとの接続点ともなる予定であったからだと言われている。しかし、この西宮市街地への延伸計画は実現せず未成線となり、代わりに阪神本線への接続を図る計画が立てられ、それを1926年に実施して現在の今津線となった。後述するダイヤモンドクロスはこのとき生じている。現在西宮市内にある阪急の駅の中では、最も後に西宮市に編入された駅でもある。

阪急今津線」も参照

1946年(昭和21年)10月14日には、当駅のホームにおいて漫才師ミスワカナ(初代)が心臓発作のため急逝(享年36)するという出来事もあった。

年表[編集]

駅構造[編集]

神戸線ホームと今津(北)線ホームは橋上駅であるが、今津(南)線ホームにあたる5号線のみ高架駅となっている[2]改札口は、7号線ホーム横の北西口が廃止されて以降、長らく2階コンコースに南側1か所・北側1か所の計2か所であったが、5号線ホーム高架化完成に合わせて南側2か所・北側1か所、5号線ホーム南端1か所の計4か所に増設された[5]。阪急電鉄の駅で、改札が4ヶ所ある駅は珍しいケースである[5]

橋上駅舎の外周には、環状のペデストリアンデッキが設けられており、神戸線と今津線の2線によって分かれる4つの駅周辺地域を自由に行き来できるようになっている[5]。東半分は橋上駅舎化された際に開通していた[5]ものの、西半分は資材置き場などに使用されたまま20年以上放置されていたが、2005年11月下旬になってようやく開通した[5]

2010年12月に5号線が高架化されてからは、5号線ホームがペデストリアンデッキと同一階となり、南側のペデストリアンデッキが駅構内により分断されている[5]。このため、当駅の南東側と南西側の間を通行する場合には地平部に降りる必要がある[注 3]が、動線の機能補償として、地上階に自由通路と踏切(西宮北口南踏切)、コンコース階とつなぐ2基のエレベーター(各13人乗り)が設置されている[5]。南東側と南西側を行き来する場合でも、ペデストリアンデッキからエレベーターで地上に降り、自由通路と踏切を通過して行き来することができる[5]

以前は、南北に分断された今津線を高架化によって再度繋げる計画があり、その計画では今津線ホームが3階部分を通ることを想定していたために、橋上駅舎を支持する一部の柱はその計画に対応して太くなっている。しかし今津南線の5号線ホームは2階部に建設されたため、南北の線路が再び繋がる可能性は事実上無くなっている[18]

高架化される前の5号線ホーム北側(1号線降車ホーム南側)の連絡通路部には臨時改札口があった。この臨時改札口は、阪急西宮スタジアムでのイベント開催時(主にプロ野球阪急ブレーブス⇒オリックス・ブレーブス公式戦、西宮競輪やコンサートなど)に使用されたが、阪急西宮スタジアム閉鎖により使用される見込みがなくなったことから、後にシャッターの2/3は撤去され出入口の付いた壁となっていたが、5号線ホームの高架化に合わせて取り壊された。また、橋上駅舎化されてからも暫くは7号線降車ホーム横(現在の北西口出入口付近)に旧来の西改札口が残存していたため、その名残で7号線降車ホームとコンコースを連絡するエスカレーターは2基設置されている。

 

橋上駅舎化以前[編集]

1987年に橋上駅舎化される以前は、各ホームが離れた状態で設置されていた。駅開業当初は構内踏切で各ホームを連絡していたが、この構内踏切には遮断機はなく、係員が手動で柵をスライドさせていた[6]。ただ、危険が伴うので1960年12月に地下道が設けられ[6]、各ホームの連絡はこちらを使用するようになった。ただし、構内踏切も今津線分断化まではラッシュ時や阪急西宮球場(のちの阪急西宮スタジアム)での野球・競輪やイベント開催時には使用されていた。改札口は、神戸本線北側に地下の東改札口と地上の西改札口、元臨時改札口付近に設置された地上の南改札口の、計3か所あった。また、地下道上の明かり取り窓の上には花壇が設けられていた[6]。これらの地下道は、1984年の平面交差解消後も1年間使用され、1985年の橋上駅舎落成により閉鎖された。さらに、神戸本線と今津線の列車同士が衝突するのを避けるため、それぞれの平面交差手前に脱線転轍器(脱線ポイント)が設けられていた[6]

神戸本線:1 - 4号線
南北に結ぶ今津線を挟んで、東側に神戸方面行きホーム(1・2号線)、西側に大阪方面行きホーム(3・4号線)が存在していた。1号線と4号線は現在と同様に両側をホームで挟む構成で、外側のホームが降車専用となっていた。ただし、当時は神戸側に折り返し線はなく、折り返しの車両はいったん神戸側に引き上げ、本線上で直接折り返しを行っていた。
既に宝塚本線京都本線で実施されていた10両編成運転を神戸本線でも実施するため、1984年に平面交差を解消。1985年に橋上駅舎化された際に、1・2号線ホームは現在の位置である3・4号線の南側に移動した。さらに地下道入口閉鎖工事とともにホームを延長して10両編成対応とした。また3・4号線も、大阪側にホームが延伸された。
今津線:5 - 7号線、旧8号線
上下線とも東西に結ぶ神戸本線を挟んで北側にあり、西側から7号線降車ホーム、7号線・6号線(宝塚方面)ホーム、5号線(今津方面)ホームとなっていた。7号線はかつて神戸方面と線路が繋がっていたが、1959年冬に分断され[6]、以降は当駅止まりの列車の発着に使用された。なお、宝塚方面からで当駅止まりの運行列車は基本的に7号線に入線していたが、すぐ隣の西宮車庫に入庫する列車は5号線で折り返していた。また、1977年に今津線6両編成化による駅改良工事を実施するまでは7号線の西側に旧8号線が存在しており(これも神戸方面と線路が繋がっていた。跡地には駅ビルが建っている)、ラッシュ時の折り返し用、および西宮車庫から、今津線に電車を入れる際に、使用されていた。
1984年の平面交差解消後に6号線の線路部分は埋められ、現在の6・7号線乗車用ホームとなった。また同様に旧5号線ホームは6号線降車ホームとなっている。なお、線路の位置自体は、6号線降車ホームを拡幅するため、後の工事で元の5号線よりも若干西側に移動している。
旧8号線は、かつては神戸本線上り線と線路が繋がっており、これらの線を使用して、週末には宝塚 - 神戸間直通普通列車が運行されていた。京都 - 宝塚間を神戸本線・今津線経由で直通する「歌劇特急」も、宝塚から京都へ向かう場合はこれらの線を経由していったん神戸本線に入線し、当駅での客扱いを行っていた。また、9号線と合わせてデルタ線(三角線)を形成していたことから、これを用いて京都線用の100形(P-6形)を方向転換したこともある。これらの神戸側の連絡線機能は、1968年の神戸高速鉄道乗り入れ開始に伴うダイヤ改正で、歌劇特急や宝塚 - 神戸間直通普通列車の運転中止に伴い廃止され、折り返し専用となった。

ダイヤモンドクロス[編集]

ダイヤモンドクロス 今津線宝塚行の列車が神戸線を横切る
「高松ひなた緑地」に保存されているダイヤモンドクロス

詳細は「阪急今津線#西宮北口駅における平面交差問題」を参照

当駅のダイヤモンドクロスとは、かつて1・2号線ホームの西側、3・4号線ホームの東側、5 - 7号線ホームの南側に存在していた、神戸本線と今津線が直角に交わる平面交差を指す。

1926年の今津線延伸当時は立体交差が技術的に難しかったこともあり、平面交差を採用した。路面電車同士や路面電車と鉄道線の平面交差は珍しくはなかったが、高速走行を前提とする路線同士が平面交差するものとしては日本唯一のものであった[5]。なお、このダイヤモンドクロスを列車が横断する平均時間は72秒であった[6]

長らく神戸本線と今津線の運行ダイヤ作成上のネックであったが、神戸本線のラッシュ時の特急などの優等列車10両編成化に伴い、1984年にダイヤモンドクロスの阪神国道駅側に今津線の地平ホームを追加してダイヤモンドクロスを解消した[5]。以来今津線は当駅で2系統に分断され、今津北線と今津南線という通称にもなっている。

当時のレールの一部は、神戸市営地下鉄(開設時は北神急行電鉄谷上車庫に保存されており、実際に基地内で使用する機械の移動等に使用されており、基地見学会などの際には公開エリア次第では見学できることもある。その他、阪急西宮ガーデンズ内の「阪急西宮ギャラリー」には1982年 - 1984年ごろの当駅周辺を再現した150分の1のジオラマが置かれ、駅南東、阪急西宮ガーデンズ北側にある「高松ひなた緑地」にもレールの実物が埋められ展示されている。

当駅の南東に所在した西宮競輪場の開設記念競走「阪急ダイヤモンド賞」の名称はダイヤモンドクロスにちなんでおり、優勝選手には阪急電鉄より1カラットのダイヤモンドが副賞として贈られた。

西宮北口駅配線図(平面交差時代)
  ↑ 今津  

梅田
西宮北口駅配線図(平面交差時代)
三宮
  ↓ 宝塚  
凡例
出典:川島 P.57による。
平面交差時代(1984年以前)の配線図。点線の線路のうち、神戸本線と今津線との連絡線は1968年に、8号線となった残りの線路は1977年に廃止され、水色のホームは降車専用ホームとなった。

 

ダイヤ[編集]

神戸線(神戸三宮方面、大阪梅田方面)[編集]

日中は上下とも特急・普通がそれぞれ毎時6本ずつ発車し、緩急接続を行う。平日夕方ラッシュの神戸方面では特急との緩急接続が通勤急行に変わる他、上下ともに当駅から大阪梅田駅までの区間運転の普通が運行される。

今津線(仁川・宝塚方面、今津方面)[編集]

日中は上下とも毎時6本が発車する。