『無門関』を読みました。
中国宋代の禅僧・無門慧開(むもん えかい)によって編まれた公案集。
四十八則の公案が収められています。
近ごろ、個人的に、「悟りとは、脳の見せる〝私がいる・心がある〟という錯覚が解除された状態である」という仮説を立てました。
それを念頭に置いて禅の公案を読んだら、案外、簡単に解けるかもしれない、と思い、試みに読んでみたのですが――。
わかりませんでした(爆)
まいった、まいった。凡夫の浅知恵じゃったわい。フォッフォッフォ(←バルタン?)。
でも、まあ、何となーくわかったことはあります。
「不立文字」という語があるように、悟りとは、コトバでは言い表せない世界なのです。
悟った人とは、その世界へ到達した人のことです。
悟りの世界は、コトバでは表現できない。
コトバで表現すれば、それは悟りとは別物になってしまう。
しかし、コトバを用いなければ、他の人に伝えることができない。
コトバで表現不能だからといって沈黙すれば、伝える智慧を持たないことになり、それもまた「悟った」とは言い難くなってしまう――。
一見、〝詰み〟のようですが、悟った人は、ちゃんとコトバで伝えてくれます。
コトバの使い方を変えることによって。
第一則として、最初に載っているのは、「趙州狗子」という公案です。
ある僧が趙州和尚に「犬にも仏性がありますか?」と尋ねたら、「無い」と答えた、そういうお話です。
無門和尚は、これに註釈をつけ、この「無い」という答えの「無」は、「あるかないか」「有無」の無ではないぞ、と言います。
ヒントをくれているわけです。
ここから、同じ「無」という語を使っていても、「無」という表象に紐づけられている意味が、凡夫と覚者とでは異なっていることが窺えます。
悟りの世界に達した者は、それ以後、コトバの使い方が凡夫とは異なる――。
公案を読む際は、少なくとも、このことを前提に置いておかなければならないと思われます。
そうでないと、公案に登場する大悟した者の言葉は、意味不明の妄言としか感じられなくなってしまいます。
また、大悟した者が、凡夫から見たら奇行としか思えない言動をとるのも、コトバのみならず行動で「悟りの世界」を表現しようとするからなのでしょう。
和尚さんが猫を斬った、という話を聞いた高弟(悟っている)が、草履を頭の上にのせて退室した、なんてエピソードも、凡夫にしてみれば支離滅裂でしかありませんが、それは何かの表現のはずなのです。
それが何かわかれば苦労はないのですけどもネ。
わかったようなわからんような、やっぱりわからない『無門関』の感想でした。
いつかわかる日がくるといいのですが。

