認識とありのまま ② | 物語の面白さを考えるブログ

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「認識とありのまま」について、自己の体験と見解とを開陳します。

何かの参考になれば幸いです。

 

〈ワンネス〉の感覚が去ってから、数か月後のある日――。

道を歩いていると、お菓子の袋が落ちているのが目にとまりました。

その途端、視線は袋に吸い寄せられるように釘づけになり、一歩も動けない状態になったのでした。

ギュワワ~ン、ビタァッ! って感じ(←炭治郎タイプ)。

そのとき、ふいに〈ワンネス〉の感覚が戻ってきて、私は〝ありのまま〟を目撃したのでした。

お菓子の袋――それは、裏側中央および上部・下部の接着面が開かれ、一枚のシート状になった、ポテトチップスの包装紙でした。

しかし、そのとき、「お菓子の袋」「ポテトチップスの包装紙」といった認識は、すうっと霧が晴れるように薄れ、「そのような形状と色彩を有した〝それそのもの〟」として、目に映ったのです。

体感時間で一分にも満たなかったでしょう。

潮が退くがごとく〈ワンネス〉の感覚が薄れるのを埋めるように、再び「お菓子の袋」「ポテトチップス」といった認識が甦り、意識状態は通常に復しました。

(ありのままに見るとは、こういうことなのか)

そのような感慨を抱きながら、散歩を再開したのでした。

 

――このような体験です。

このときの出来事を、『心は存在しない』から得た知見と照合し、私の考える認識の仕組みを模式図にしました。

 

 

左端の赤枠が、見る対象である「事物・現物」です。

その上に、認識のフィルター①「社会的・文化的データベース」があります。

さらにその上に、認識のフィルター②「個人的な価値観・推論能力」が被さっています。

さらにその上の認識のフィルター③は、「観念・妄想」の類です。

私たちは、幾層にも重なった認識のフィルターを通して物事を見ています。

認識のフィルターは、この世に誕生してから今日まで、脳が情報を分類し続けることで築き上げた、極めてパーソナルな仕様です。

他人とコミュニケーションがとれるのは、①「社会的・文化的データベース」に登録された内容に共通点が多いからですが、それでも①が極めてパーソナルな仕様であることを忘れてはいけません。言語を例にあげれば、同じ日本語で話していても、知っている語彙の数や、語義の精度には個人差があります。その差に大きな隔たりがある場合、「どうも話が通じないな」という事態も起こり得るのです。

フィルター③「観念・妄想」は、②が高じて派生した、自分の頭の中だけで展開している「想像の世界」です。

 

注意を払っていただきたいのは、物事を認識するとき、「どのフィルターが最も強く作用しているか」という点です。

私が道の上にあったものを「お菓子の袋」「ポテトチップスを包んでいた紙」と認識したのは、①に依拠した結果です。

もし、②の作用が強ければ、「ゴミが落ちている」と認識したかもしれません。使用済みの包装袋を無用の物――〝ゴミ〟と断じる際には、相応の「価値判断」が働くことになります。

さらに③の作用が強ければ、「ゴミで街路が汚れている」「街の景観が損なわれている」と思い、さらにもっと観念の世界に入りこんだら、「ポイ捨てするヤツはけしからん」となり、ゴミを捨てた人に対する怒りを感じたかもしれません。

使用する「認識フィルター」の重なりが増えるほど、認識結果は「ありのまま」から遠ざかります。

 

「ジャッジをするな」「ありのままを見よ」というメッセージは、③「観念・妄想」の世界にどっぷり浸かっている人を救済するためのものであると、私は思っています。

このメッセージを「すべての判断を放棄し、すべての事物を〝それそのもの〟として認識せよ」と解釈するのは、さすがに極端すぎます。フィルター①と②とを完全に停止させなさいと言っているのでしょうか? そんなことをしたら生きていけなくなりますけど、それでもいいのでしょうか?

このメッセージは、「フィルター①をベースに、フィルター②を適宜使用しなさい」といった意味に解釈するのが健全だと思われます。

〝苦しみ〟は、フィルターの使用方法に不備が生じていることを知らせるサインだと受け取るのがいいでしょう。

〝苦しみ〟があまりに強かったり、頻繁に感じるようであれば、フィルター③に依存していないか、あるいはフィルター②に歪みが生じていないか、を点検する必要があるでしょう。時々はフィルター①の手入れもして、登録内容の精度と鮮度を見直すのもいいかもしれません。

 

「ありのまま」という言葉は、かなりのクセモノで、取扱いには注意が必要です。

これから大事なことを言います。

私がポテチの袋を〝ありのまま〟として見ていたとき、フィルター①と②とは、消滅してはおらず、機能を停止してもいませんでした。

単に、意識が、①と②とにフォーカスしていないだけであって、意識のバックグラウンドでは依然として機能し続けていました

わかりやすく言い直すと、ポテチの袋を「そのような形状と色彩を有したもの」と見ていると同時に、それが「お菓子の袋」であることも、商品名が「ポテトチップス」であることも理解していましたし、「ゴミが落ちている」という解釈もしていました。

もう少し描写の範囲を広げれば、そこが「歩道」であることもわかっていましたし、すぐそばを「車道」が通っていることも承知していましたし、自分のいる場所が何という街の何という町名なのかも頭の中にはありました。

すべてのフィルターは相変わらず存在していて、機能もしていて、ふだんと違うのは、意識がどこにフォーカスしているのか、だけだったのです。

この状態を指して、「ありのままに見ている」と言うのは、果たして妥当でしょうか?

真の意味で「ありのままに見る」とは、どういうことを言うのでしょう?

もし、すべての認識フィルターが消滅ないし機能停止したとしたら、例の失明から回復した男性のように、「光の洪水が襲ってきて何も見えない」という状態になったのではないでしょうか。

でも、スピ界隈の一部の指導者は、ありのままに見なさい、と言います。

ここに潜む危険性を指摘しておきたい。

「ありのままに見なさい」というメッセージを素直に受け取った人が、それができるように努力したらどうなるか?

「ありのままに見たら、きっとこういうふうに見えるだろう」と想像し、新しい「観念・妄想」のフィルターを創出して、従来の認識フィルターの上に重ねることになりはしないだろうか。

本人はありのままを見ているつもりで、「自分はありのままを見ている」という妄想の世界にフォーカスすることになるのではあるまいか。

その追加された「観念・妄想フィルター」は、「ありのまま」から最も遠い位置にあるのです。

 

もうひとつ、「赤ちゃんのような心で」も、「ありのままに見よ」の変奏ではないかと、私は警戒しています。

大人はジャッジをする、でも赤ちゃんはジャッジをしない、だから赤ちゃんのようなフラットな心で物事を見ましょう、的なメッセージのことです。

赤ちゃんだった時分の記憶を保持している人が、「自分は当時、このように世界を認識していた」と語る場合は別ですが――。

そうでないのなら、「赤ちゃんはジャッジしない」も、観念・妄想の産物ということになります。

知り得ない事柄を想像で語っているのですから。

赤ちゃんが、本当に何も認識も判断もしないなら、胎教は無意味ということになります。

赤ちゃんを例にして自説を説く人で、赤ちゃんの認識している世界を詳細に解説する人を、私は知りません。

 

「ありのまま」について考えすぎると、どんどん観念的になり、「ありのまま」から遠ざかります。

気をつけましょう。

 

 

【認識】

 

「認識」のプロンプトで生成したAI画。

これは……「人間なんて所詮、分子機械にすぎない」というAIの認識……なのか……?

怖っ。