日本三大怨霊といえば、菅原道真・平将門・崇徳天皇(崇徳院)の三名ですが、私には将門公が怨霊だとは思えない、という話をこれからします。
故人が怨霊と見做されるには、相応に説得力のあるストーリーが必要です。
関係者や民衆が「故人はあの世で恨んでいるにちがいない」と思うような、何らかの事情が存在しなくてはなりません。それが事実であるか、憶測であるかは別として。
菅原道真公は、権力闘争の末、讒訴によって大宰府に左遷され、亡くなりました。
その後、関係者の頓死や清涼殿への落雷があり、怨霊化した道真公の仕業と考えられました。
道真公と同時代の人が、すでに彼を怨霊と見做していたわけです。
崇徳天皇もまた、権力闘争の末に配流され亡くなりました。
本人は恨んでいなかったようですが、後世の作話により怨霊と見做されたことは、前回の記事に書いたとおりです。
道真公と崇徳天皇には、皇権のまわりにたむろする皇族・貴族の権力闘争に敗れた、という共通の事情があります。高位権力者同士の争いでは、政敵に濡れ衣を着せて追い落とすなんてことは常套手段ですから、負けた側が恨みを抱く心理は理解できます。
ところが、三大怨霊の中で、将門公だけ、事情が異なります。
彼は、国家に反逆した結果、謀反人として討伐されました。
国家権力に公然と戦いを挑み、返り討ちにされたといえるわけで、無実の罪を着せられ処刑されたわけでも、卑劣な罠に嵌められたわけでもありません。
敗北だけを理由に将門公が怨霊となったとするなら、逆恨みのきらいが払拭できず、そこに「相応に説得力のあるストーリー」を見出すことは難しい感じがします。
三大怨霊などと言われるようになったのは、江戸時代、読本や歌舞伎の影響によるところが大きいと、『怨霊とは何か』の著者・山田雄司氏は指摘しています。
山東京伝による読本『善知安方忠義伝』は、平将門の遺児・滝夜叉姫が、父の遺恨を晴らすべく、妖術使いとなって朝廷転覆を企てるストーリーでした。
このようなフィクションのイメージが、将門=怨霊という見方を後押ししたものと思われます。
近年では荒俣宏氏の小説『帝都物語』によって、怨霊としての将門公がクローズアップされました。
将門公の怨霊化は、崇徳天皇の場合と同様、どうも後世の作話に原因があるようで、史実の中に怨霊となる要素はきわめて薄いと感じざるを得ません。
【相馬の古内裏(歌川国芳:画)】
巨大髑髏を召喚する滝夜叉姫
将門公の怨霊エピソードで無視できないのが、首塚をめぐる怪異です。
東京都千代田区大手町に鎮座する将門の首塚――将門塚は、取り壊そうとすると、関係者に不審な死や事故がおきることで有名です。将門公の祟りであると考えられており、そのおかげで、塚は現在も同地に健在です(2021年にリニューアル工事が完了しました)。
将門塚の怪異が心霊現象としての祟りであるのか、私には真偽の判定ができませんので、その点に関しては追究しません。
将門塚の由来を見てみます。
京都でさらし首にされた将門公の頭部が、空を飛んで故郷に帰るさい、力尽きて落下した地点が、現在の将門塚であるとされています。
この「首の伝説」を詳細に調べると、将門公と同時代の発ではない、後世のフィクションであることがわかります。
1370年代には成立していたであろうとされる『太平記』には、将門の首のエピソードが載っています。
さらし首にされた将門の首が、何ヵ月たっても腐らず、夜な夜な叫んでいたが、通りかかった歌人が歌を詠むと、カラカラと笑って朽ち果てた、という話です。
14世紀の『太平記』の時点で、首はまだ空を飛んでいません。ちなみに、将門公が討たれたのは、940年――10世紀のことです。
首の怪異譚は次第にエスカレートし、京から坂東を目指して飛行するようになったばかりか、坂東の決戦で討たれた直後、もう一戦やらかそうと京を目指して飛行する話になります。
将門伝説研究の第一人者である村上春樹氏(小説家とは同名異人)は、フィールドワークの際、近畿と関東の中間地帯の地元民から、首の飛ぶ方向は「西→東」と「東→西」と、ふたとおり伝わっているが、どちらが正しいのかと質問されて困ったそうです。
「飛行する首の伝説」が、将門公の死から400年以上の後に形成された荒唐無稽なストーリーであることを考慮すると、首の落下地点に築かれたという将門塚の出自も、すこぶる怪しくなってくるのです。
以下の言説は推測の比率が大きくなりますが――。
将門塚のある地は、かつての武蔵国豊嶋郡芝崎村で、住民は長らく将門の怨霊に苦しめられていたといいます。
1307年、時宗の他阿(たあ)上人が怨霊を供養し、かたわらにあった天台宗の寺院・日輪寺を、時宗の芝崎道場に改めました。
一方、将門公を祭神とする神田明神の縁起をひもとけば、14世紀の初頭にこの地で疫病が流行し、将門の祟りであるとされたため、これを供養し、1309年に祭神としたとあります。
怨霊の仕業であるとされたのは、個人の不審死ばかりではありませんでした。疫病などの社会的危難もまた、怨霊の仕業とされたのです。
裏を返せば、怨霊が祟ったから疫病が流行するのではなく、疫病が流行したことにより、その原因となるべき怨霊が過去から〝発掘〟されるのだと言えそうです。そして、その怨霊を鎮めるのが、宗教に期待される役割であったのではないでしょうか。
では、なぜ、芝崎村の怨霊は、平将門であったのか?
豊嶋郡芝崎村は江戸氏の領地であり、江戸氏のルーツは、秩父平氏です。
秩父平氏は、将門の叔父である平良文の子孫です。
将門の乱後、良文は将門の養子となっています。叔父が甥の養子になるのもおかしな話ですが、将門の遺領の相続・管理の都合があったのだろうということにして、とりあえず納得しておきます。
ここに将門→良文→秩父平氏→江戸氏という系譜が出来上がるわけで、江戸氏は将門の子孫として、将門に関する伝承を保有していました。
芝崎村という地で、将門の伝承と、疫病を鎮めることを期待される宗教とが混交し、「疫病を流行らせ祟る将門」という伝説が醸成されたのではないかと、私は推測します。
疫病が自然発生したとするより、怨霊のせいにする方が、布教のためには都合がよかった。
難しい教義を説くより、怨霊を退治して霊験を示す方が、民衆への宣伝効果が高いでしょうから。
怨霊が強力であるほどに、それを鎮魂した宗教のありがたみは増します。
怨霊の正体が、かつて坂東に新皇として覇を唱えた偉大な武人であったとしたら?
そんな大物を鎮めたのなら、その宗教は民衆の心をつかむことでしょう。
日輪寺が天台宗から時宗に改宗したことは、民衆の支持の移ろいを示唆している気がしてなりません。
疫病の流行が14世紀初頭で、将門の首が空を飛び始めるのが14世紀後半以降という時期の近さは、無関係ではないと感じます。
京でさらし首になった将門公の頭部が、遠く離れた坂東の芝崎村で祟るのは不自然ですから、二地点をつなげるストーリーが作られたのは、必然の成り行きであったように思われるのです。
将門伝説は江戸氏の管理を離れ、民衆の間に浸透し、それを下地として、江戸時代には将門を怨霊視するフィクションが作られました。
そのような将門像は荒唐無稽であり、もっと史実を重視すべきだと、戯作者・滝沢馬琴が批判しているのが面白い(『椿説弓張月』には怨霊・崇徳院が登場する)。
史実の中に将門公の実像を探るとき、誰かを恨み冥界で両の眼に鬼火をともす公の姿は、どうにもイメージできないのであります。
