久々の「鬼滅」記事。
最終回の初読時の感想は――正直に告白すれば――思ってたのとちがった、でした。
漠然と、最終決戦後の炭治郎の人生を描き切って終わりかな、と思っていました。
痣の発現によって寿命の残り時間が確定した炭治郎が、どのように生き、そして、どのようにこの世に別れを告げたのか?
ラストシーンは、お婆ちゃんになった禰豆子が、炭治郎の墓参りをしていて、そのまわりには、善逸や伊之助、彼らの子供たちや孫たちがいる――なんて、想像したり。
まさか現代に時間が跳ぶとは、思ってもいませんでしたよ!
賛否両論のある最終回でしたが、吾峠先生は、何故に、物語の締め括りを、現代から過去を振り返る形にしたのでしょうか。
現在、我々が享受している平和は、当たり前のように天からあたえられたものではないことを、あらためて考えてみてほしかったからではないでしょうか。
今の平和があるのは、それを築き守るために、命懸けで戦った先人のおかげであることを思い出してほしかったからではないでしょうか。
彼らを「英霊」として祀り、讃えるのは、難しいことではないでしょう。
しかし、「英霊」というカテゴリで一括りにしてしまうと、自分たちとはかけ離れた神のような存在であるかのように感じてしまい、一人一人の顔が思い出せなくなってしまいます。
そうすることが、本当に手向けと言えるのでしょうか。
彼らは、神でも超人でもなく、私たちと同じ、一人の人間です。
彼ら一人一人に、それぞれの青春の物語がありました。
その物語は、時代の制約こそあれ、心情としては、現代の我々と何ら変わりのないものであったはずです。
そのように、自分に引き寄せて想像の翼を広げるとき、彼らを無闇に神格化したり、また逆に、彼らが何か野蛮な犯罪に手を染めたかのように貶めることはできなくなるはずです。
彼らを、もっと身近な存在として感じてほしい――それが、吾峠先生が最終回にこめたメッセージだったのかもしれません。
かつて、人生に一度しかない青春時代を、戦いに捧げざるを得なかった人たちがいた。
戦いはきれいごとばかりではない。
敵にとってはもちろん、味方にとっても、残酷で、悲惨で、哀しいものです。
誰が好き好んで、そんな戦いを起こすものですか。
でも、そうせざるを得ませんでした。
そうせざるを得なかった心の底には、平和を願う心があったと信じたい。
たとえ、戦いという手段が、願うものと矛盾するとしても。
もしも、現代の私たちが、戦いに身を投じざるを得ない状況になったら、どのような心を抱いて、戦いの場に赴くのでしょうか。
平和を願う心でしょうか。
憎しみの心でしょうか。
私たちは、先人から、どのような心を受け継いだのでしょうか。
再び〝人喰い鬼〟が出現したとき、私たちの心に、鬼を滅する刃はあるのか。
それとも、鬼に喰われ、自らも鬼となってしまうのか。
最終回の意味を考えていたら、そういうことを思わずにはいられなくなりました。