森田療法(我流アレンジver.)④ | 物語の面白さを考えるブログ

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そもそも、なぜ鬱になるくらい仕事が忙しくなったのでしょうか。

欠員が出たことは前に述べましたが、そのせいで増えた分の仕事をみんなで分担すれば、一人当たりの負担は劇的に増大しなかったはずです。

ところが、現実は、そうはなりませんでした。

大部分の人が負担増を嫌がり、仕事を押しつけ合った結果、立場の弱かった私に集中したのでした。

このように書くと、私だけが被害者のような印象が生じますが、心理面を深掘りすると、そうとばかりも言えなくなります。

仕事を引き受けたとき、私はこんなふうに考えました。

 

(仕事なのだから、結局は誰かがやらなければならない)

(やらないと、最終的にお客様に迷惑がかかってしまう)

(お客様には、こちらの内部事情など関係ない。迷惑をかけることは絶対に避けなければならない)

 

間違った考え方ではないと思います。

ただ、この考え方の裏側に、「自分がいい人だと思われたい」という気持ちがなかったか、という観点で内観すると、なかったとは言い切れません。

この気持ちが、結果的に、自分を鬱に追い詰めてしまいました。

また、欠員が生じたとき、仕事の割り振りをするのは、管理者たる上司の責任です。

もし、割り振りに不備があり、仕事に穴があいたのなら、それは上司の責任です。

私が負うべき責任ではありません。

それを先回りして私が引き受けるのは、バウンダリーの侵害に該当します。

バウンダリーの種類のひとつに「責任」があります。

他人の責任を肩代わりするのは、バウンダリーの侵害です。

すると、私は「いい人」でいたいがために、「責任」の領域において上司のバウンダリーを侵害し、処理能力以上の仕事を抱え込んで、鬱になったことになります。

実際のところ、鬱になりやすい人は、鬱になりやすい「考え方」を保持している場合が多いです。

そこに、鬱を誘発しやすい環境からのストレスが加わると、発症の危険性は高まります。

森田療法では、こういった「考え方」も点検していきます。

我流でやらずに、専門家の指導を仰いだ方がいいと私が言うのは、自分が無自覚に堅持している「考え方」をチェックするのは、独力では難しい面があるからでもあります。

 

一週間ぶりに仕事復帰した私を待っていたのは、次のような噂でした。

 

「あいつは、仕事が忙しくなったので、鬱だと嘘をついて職場放棄した」

 

噂を吹聴したのは、率先して私に仕事を押しつけた人物でした。

腹が立ちました。

さて、このような状況に直面したとき、どのような「考え方」をすれば、感じるストレスが少なくて済むでしょうか。

 

(一週間も休んだのだから、少しは私のありがたさがわかっただろう)

 

もし、このような期待を持って出社していたら、多大なショックを受けたことでしょう。

 

(他人に平気で仕事を押しつける人は、どこまでいっても自分本位なんだ)

 

事実を冷徹に俯瞰し、受け止められたなら、余計な期待(幻想)を持たない分、ショックは少なくて済んだでしょう。

また、仮に、自分のありがたみを周囲に知らしめる意図が私にあって、職場を離脱したとしたならば、それはハラッサーと五十歩百歩の振る舞いであると言えます。

ハラッサーの目的は周囲の人に影響をおよぼすこと(コントロールすること)であり、その意図をもっともらしい理由でカモフラージュして、彼は行動におよびます。その行動は、常に、他人と関連付けられています。

他人が変化することを期待して自分の行動を調整するなら、それはハラッサーないし〝かまってちゃん〟に準ずることになり、他人が思いどおりに変化しなかった場合、大きなストレスを自らが被る羽目になります。

このような意図(考え方)は、自他共にストレスをあたえるので、捨てた方が賢明でしょう。

 

現在からふり返ってみるに、この職場はかなり民度の低い場所だったように思います。

このような場所では、状況を改善したり、他者をよい方向へ感化することは、ほぼ不可能だと感じます。

また、それをしなければならない責任は、私にはありません。

私にできることは、実際のところ、自分の心のバッテリーを涸らさないように気を付けることだけだったのです。

それに失敗したから鬱になりました。

失敗の原因は、「いい人だと思われたい」という依存心から、「責任」領域におけるバウンダリーを保守できなかったことにあります。

仕事を押しつけられそうになっても、頑なに断ればよかったのです。嫌なやつと思われようとも、悪い噂を流されようとも。

「仕事だから誰かがやらなければ」というエクスキューズも、バウンダリーの決壊を招いた要因でした。

しかし、冷静に考えてみれば、欠員が出た上に私が休職しても、仕事は回っていたのですから、鬱になるほど頑張らなくともよかったのです。

自分がいなくとも、仕事も世の中も、それなりに回るものです。

それがわかれば、自分が休息をとることに、さほど躊躇や罪悪感を持たなくて済みます。

何か言う人は出てくるかもしれませんが、言いたい人には言わせておきましょう。

 

疲れたら、休む。

鬱を予防するにも、鬱から回復するにも、基本はこれです。

最初に「生に対する意欲」ありき。

休息を選択するのも、

バウンダリーを保守するのも、

自分の「考え方」を点検するのも、

専門家に助力を乞うのも、

すべて「行動」ですから、「意欲」なくしては始まりません。

そして、「意欲」の炎は、小さくなることはあっても、なかなか消えはしません。

 

人には、本来的に、生きる意欲がある ――

 

そのことを、是非、憶えておいていただきたいのです。

 

(終わり)