評判が芳しくなかったので、何となく敬遠していましたが、岡田斗司夫氏の動画を見て、興味を持ちました。
記事はネタバレをふくみます。ご注意ください。
これは、映画のふりをしたコントですね。
でも、最後の最後で――というより、観終わって、落ち着いて考えたら、コントのふりをした映画かもしれない、と思いました。
映画だと思って観ると、多分、面白くないんですよ。
コントだと思って観ると、全編に漂うグダグダ感までふくめて、面白い。
ただし、観る側の「ツッコミ力」が試されます。
劇中に、ツッコミ役はいませんから。
画面の中に、映画のふりをしながら表れるボケに対して、観る側がいちいちツッコまなければいけない。
画面に映るものを、ただ漫然と享受しているだけでは、「何これ?」となるだけで、楽しめないはずです。
観たあとで、「トカゲのおっさん」を思い出しました。
『ダウンタウンのごっつええ感じ』の中で披露されたコントです。
松本人志扮する〝おっさん〟の置かれた状況は、悲惨で、とても笑えるものではないのですが、〝おっさん〟は、おっさんであると同時に、〝トカゲ〟なんですよね、〝トカゲ〟というファンタジー設定があることによって、悲惨な状況を笑いに転化できる。
同じ手法が『大日本人』でも用いられています。
松ちゃん扮する「大佐藤」という中年男は、巨大化できる家系に生まれた人で、代々、怪獣退治を仕事にしていた。――おわかりのとおり、ウルトラマンがモチーフです。
彼の境遇は、なかなかに悲惨なのだけど、〝巨大変身ヒーロー〟というファンタジー設定により、笑えるようになる。
一例を挙げると、おじいちゃんは老人ホームに入居していて、認知症を発症しており、時々徘徊して、周囲に迷惑をかけます。これだけだと、笑える要素は皆無ですが、〝巨大変身ヒーロー〟という要素を足すと、ビルより大きなおじいちゃんがウロウロする絵が作れる。想像すると、笑ってしまうでしょ? おじいちゃん、ボケてはいるけれど、昔とった杵柄で、巨大化すると、けっこう粋だったりする。笑うしかないですわ、こんなん。
こんな具合で、大佐藤さんの暮らしぶりを、モキュメンタリー的な手法で、淡々と、グダグダと、描写していくわけです。
ついて来られる人と、ついて来られない人とに分かれるのも、わかります。
途中まで観て、自分はついて行けた、と安心するのは早い。
物語は終盤で、いきなりギアを上げます。
映画のふりをかなぐり捨てて、コントとしての本性を顕すのです。
ほとんどの視聴者が、ここで振り落されるのではないでしょうか。
画面のクオリティが、「映画」から「テレビ」に逆戻りし、いつもの着ぐるみコントが、何の脈絡もなしに、突然繰り広げられれば、観ている側は唖然とするしかないでしょう。
「話をまとめきれなくなって、コントに逃げた」――
まっさきに頭に浮かんだのは、そんな評価でした。
しかし、観終わってから、待てよ、と思いました。
松本人志ともあろう者が、意気込んで取り組んだであろう初監督作品で、そんな安易な方向へ走るものだろうか?
よくよく考えれば、終盤の大佐藤さんの状況は、かなり悲惨です。
巨大ヒーローとしての世間からの評価は地に堕ち、離婚した元・妻には新しい恋人がおり、一人娘は父親の不在を何とも思っておらず、優しかった祖父は他界し、虐待まがいの子育てをした父はとっくに亡くなっているので憤懣のぶつけどころもない。
どこにも居場所がないんです。
それを笑いに転化するにはどうすればいいのか?
設定の妙だけでは追いつかない。グッダグダのコントにするしかなかったのではないか。
岡田斗司夫氏の動画で言っていますね。「ロードラマ」と「ハイドラマ」。
わかりやすく、ここが感動するところですよ、と教えてくれる、いわゆる「ベタ」が、ロードラマ。
ハイドラマの方は、状況を映示するだけで、観客の心をザワザワさせる。わかりやすい台詞や、感動的な音楽が流れるなんてことは、特にない。
「グダグダのコント」という状況を、何の説明もなしに示されて、こっちは何を思えばいいのか。
コントにする以外、笑いに転化する術がなかったほどに、大佐藤さんの人生は救いがなかった――
そういうふうに思い到ったら、とてつもなく悲しくなってしまいました。
人生の悲哀をズラして〝笑い〟に転化することに留まらず、〝笑い〟をさらにズラすことで、シリアスをも超えた「悲哀」を表現した――。
そういう作品なのではないかと思いました。