不死川実弥は神に祈るか? ① | 物語の面白さを考えるブログ

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表題どおりのテーマです。

これが気になったのは、例によって、「風の道しるべ」の Amazon レビューに目を通していたときでした。

一人のレビュアーさんが、実弥が神に縋るようなキャラには思えないと違和感を示したのへ、別のレビュアーさんが、原作で縋っているので違和感なしと指摘していたのです。

(この記事を書くにあたり、Amazon の該当ページを確認したら、前者のレビューが消えていました。あれって、レビュアー側から削除できたんだっけ?)

私は、原作で縋っているのはもちろん知っていましたけれど、小説の記述に違和感をおぼえたので、自分なりに考えてみました。

三日ぐらい考え続けました。仕事中も考えていました。ミスはしなかったけれど、能率は落ちました(集中しろ)。不死川実弥というキャラクターについて、じっくり考えたのは、実はこれが初めてでした。

そして結論が出ました。

――不死川実弥は神に縋らない。

以下に示すことは、あくまで、不死川実弥というキャラに対する、私流の解釈です。

解釈の仕方が矢島綾先生と違った、ということにすぎず、純粋な小説批評となっているかは、正直、心もとない部分があります。

読者諸氏におかれましては、どうか冷静にご判断いただきたい。

 

上記のとおり結論付けましたけれど、実弥が無神論者だとか、初詣にすら行かないとか、そういう意味ではありません。実弥は実利重視の考え方なので、神に縋る――神頼みをしても、現実的なリターンが望めないのであれば、そんな無駄な真似はしないだろう、といったニュアンスです。第百六十七話の扉絵で、神社の拝殿前でわんこにエサをあげる実弥が描かれていますが、ああいう場合は、神さまに手を合わせてご挨拶くらいはしただろうと思います。自覚的・確信犯的な不信心というわけではない。

 

実弥が実利重視なのは、黒死牟との戦い方から察せられます。使える武器が落ちていれば拾って使う。敵に有効打を与えられるのであれば、剣術の型にこだわらない。ひたすらに実戦的で実利を重んじる戦闘スタイルは、日輪刀の存在すら知らずに鬼狩りをしていた時期に培われたものでしょう。

ただし、神頼みをしない、といった「現実的な」考え方をするようになったのは、それ以前からだと思います。

 

『鬼滅の刃』 では、随所で、日本人の伝統的な情緒が描かれています。

なので、実弥が最初から神に祈る習慣を持たない無信仰者だったとは考えにくい。当時の標準的日本人くらいの信仰心はあっただろうと思います。産土神にお参りするとか。

そこに実弥の生育環境を重ね合わせると、素朴な信仰心に翳が挿す気がします。

家族に暴力を振るう父親から、母と弟妹を守らねばならなかった。

神様に願ったことが一度もなかったとは言えないでしょう。だけど、現実は変わらなかった。

父親が怨恨で刺されて死んだあとは、八人家族の生活を支えなければならなかった。現実ととことん向き合わなければならなかった。祈りで腹は膨れない。

母が脈絡もなく鬼となった。玄弥を除く弟妹たちは母に殺されてしまった。その母をみずから殺めてしまった。殺めざるを得なかった。――この非現実的とも言える不条理も、また、まぎれもない「現実」だった。神がいるなら、どこで何をしているのか。

神は天罰を下さない。だから、自分の手で鬼を狩ることにした……。

実弥と神との距離感は、このようなものではなかったでしょうか。日本の風土の中で自然発生的に育まれた信仰心は心の底に残っていても、現実面では、自分の力を頼りにして困難を切り拓いていく生き方。存在するかも曖昧な超越者などに自己の命運を委ねたりはしない。

 

その実弥が、黒死牟戦のあと、玄弥と永別するシーンでは、神に縋っています。

 

「頼む神様」

「どうかどうか」

「弟を連れて行かないでくれ お願いだ」

 

前触れもなく「神様」という単語が飛び出してびっくりしましたが、日本人的な信仰心が心の底に埋もれていたと考えれば、さほど不自然ではありません。

よく読むと、この台詞の前には、こうも言っています。

 

「大丈夫だ 何とかしてやる」

「兄ちゃんがどうにかしてやる」

 

はじめは、自分の手で、玄弥を救おうとしたのです。

だけど、すぐに、どうしようもないことを悟ってしまった。

玄弥の肉体が、鬼のように崩壊するのを、止める手立ては、ない。

自分には、できることは、何も、ない。

無力だ。

それを痛感してなお、弟には死なないでほしいと願う――。

願うとすれば。

願う先は、ひとつしかない。

 

神様、どうか――

 

およそ一番神に祈りそうにない実弥が、涙を流しながら、神に縋る。

だからこそ、玄弥の死が絶望的に不可避であることが伝わり、

だからこそ、実弥の弟に対する深い深い愛情が伝わる。

だからこそ、読者は滂沱の涙を止めることができなくなる。

 

さて――ノベライズ版だ。

 

実弥の腕の中で、匡近が息を引き取るシーン。

 

――神様がいるなら、どうかコイツを助けてくれ、そう叫んで天を仰ぎたかった。

 

とあります。

実弥が神に祈った、と断言していいものかどうか、微妙な書き方ではあります。

実弥の無力感・絶望感を、敢えて言語化するなら、このようになったであろう、と読める書き方でもあります。

ここを初めて読んだとき、気持ちが急速に冷めたことは告白しておきます。

〝二番煎じ〟という評が、自分的にはしっくりきます。

玄弥との別れのシーンのレプリカを見せられた気分。

あまり感動する気にはなれませんでした。

一度受けたネタも、二度三度とやれば、受けなくなります。まして、そのネタをやるのが、オリジナルの開発者ではなく、別人であるとなれば。

 

原作の当該シーンが、読み返すたびに泣けるのは、実弥が心底から神に縋ったのは、生涯でただ一度、玄弥との別れのときだけである――そう思わせる迫真性のゆえでしょう。

生涯でただ一度。一回こっきり。

この〝一回性〟こそが、当該シーンの尊さを裏支えしているのだと思います。

現実的に考えると、上述の考察どおり、実弥だって小さな神頼みは、何度もしたことがあったでしょう。

しかし、そのいちいちを読者の目に晒すのは、作劇上、得策ではありません。

永別シーンの〝一回性〟が損なわれますから。

この点を踏まえると、ノベライズ版に関して、次の評価軸が導き出されます。

匡近との死別シーンにおいて、神に祈ったと解釈できるような書き方をしたのは、原作にとってプラスだったのか、マイナスだったのか。

不死川実弥は、実はけっこう神仏への畏敬の念を持っていて、大きな悲しみに襲われたときなどには、神に祈ることも、ままあるのである――。ノベライズ作者が、このようなキャラ解釈だったとしても、問題はありません。

問題は、神に祈るシーンを描くことが、原作にとって吉か凶か。

そのシーンを敢えて読者の目から隠しつつも、実弥の悲しみを表現する書き方はなかったのか。

 

「風の道しるべ」は前日譚です。

読者が実際に読む順番は(基本的に)原作 → ノベライズですが、読み終わったあとは、頭の中でノベライズ → 原作の順でエピソードを並び替え、物語を再構成します。

そうした場合に、ノベライズは、原作の援護射撃となっているのか?

それとも、背中から撃つ結果となっているのか?

「前日譚」としての評価は、ここに重きをおくべきでしょう。

ついつい、キャラに関する違和感の有無に話が向いてしまいますけれども。

「風の道しるべ」の放った銃弾がどこへ着弾したか――

その判断は、皆様ひとりひとりに委ねることと致します。

(だって、各自で感じ方ちがうんだもん)

 

次回は、矢島版ノベライズの書き方について考えてみます。

つづく。

 

 

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