第一章 葦
第六節 覚醒している
[尊師いわく、――]
「[五つ]がめざめているときに、五つが眠っている。
五つが眠っているときに、五つがめざめている。
五つによってひとは塵にまみれる。
五つによってひとは清められる。」
悟りに向かう力と、悟りを妨げる力は、どれだけあるのか、
という神の問いに、釈尊が答えたものです。
それぞれについて、五つを挙げています。
悟りに向かう五つの力を、五根(こん)と言います。
悟りを妨げる力を、五蓋(がい)と言います。
五根:
- 信
- 精進
- 念
- 定
- 慧
五蓋:
- 貪欲 (欲望)
- 瞋恚 (怒り)
- 昏沈・睡眠 (心の沈鬱と眠気)
- 掉挙・悪作 (心の高揚と後悔)
- 疑
五蓋の方が、わかりやすく感じます。
字面だけで、何となく、意味がわかります。
五根の方は、わかりにくいです。
解説もしにくい。悟ったことがないので。
用語の意味を辞書的に解説するだけならできますが、
それもあまり意味がありません(気になった方は調べてください)。
仏教は心から苦しみを除くのが目的なので、実践が大事。
知識だけ増えても、苦しみが手つかずなら、
「わかった」「知っている」という慢心で苦しみが増すので、本末転倒です。
一番目の「信」だけ解説を試みます。
ブッダの教えを信じることです。
五蓋の「疑」と対になっています。
ある教えを実践するにあたって、疑えば、進捗が鈍るのは当然です。
仏教における「信じること」は、
疑いを捨てて思考停止に陥る「盲信」とは異なります。
「信」の入口は、自分の頭で考えて、疑ってみることです。
「お釈迦さまの言っていることは本当かな?」
実践を通して、検証するのです。
そうして得られた手応えは、他人から教わった「知識」とは異なる、
疑いの余地のない「確信」となって、胸に残ります。
そのようにして、自己の内に少しずつ「信」を育てていくと、
自分の内側からあふれる光で、
暗闇の中に道を見出すことができるようになります。
きっと、これを、〝自灯明・法灯明〟と言うのでしょう。
個人的なことを申せば、一時期、安くないお金を払って
瞑想教室などに通っていましたが、
言葉巧みに疑似科学をスピリチュアルな真理であるかのように語ったり、
心理テクニックで自分を神秘的に演出したりする指導者に出会いました。
多少の〝特殊能力〟は持ち合わせているようでしたが、
言うことはどこかおかしいし、瞑想しに行ってすっきりするどころか
不快感を持って帰ってきてしまうので、離れました。
サイコパスとの死闘で嘘に対する嗅覚が研ぎ澄まされていたので、
もっともらしい御託を並べられるほどに、不快さが募ったのでした。
あやしいものに出会ったら、まずは疑ってみることです。
そして、それに接して、自分の内から出てくるものを、
注意深く観察することです。
これができるだけで、大分、心は定まってくるはずです。

