第一章 葦
第二節 解脱の道
巻末の註によると、
〝道〟を実践した結果として〝解脱〟に到るのではなく、
〝道〟を実践することそのものが〝解脱〟であるらしい。
或る神が、お釈迦さまに訊ねました。
あなたは、解脱を知っておられますか?
お釈迦さまは、知っている、と答えました。
神は、さらに訊ねました。
解脱を、どうして知っておられるのですか?
お釈迦さまは答えました。
「『歓喜の愛にもとづく生存が尽き、表象や意識作用も尽きるが故に、
感受作用が止滅するが故に、静止がある』
友よ。生けるものどもの解脱、解き放たれること、遠ざかり離れることを、
わたしはこのように知っているのです」
歓喜の愛とは、親子愛や男女の愛のことではなく(それらをも含みますが)、
愛着――執着のことです。
ある対象に執着し、それを得たと言っては喜び、
失ったと言っては哀しむ、そんな愛です。
そのような愛着に振り回される生き方が終わった、と言っています。
表象や意識作用~云々は、少々、難しいです。
人は、何かを見た瞬間、知識のデータベースに照合して、
それが何であるかを判断し、認識します。
そのような判断・認識がなされた後で、
好き嫌いや善悪などの判定が付加され、
それに基づいて、心理的・肉体的反応が生じます。
一連の流れは、ほとんど瞬間的になされます。
それが止まったときに、心は煩悩から解き放たれ、
静止すると言っています。
理屈で理解しても、実践は難しいですね。
我々が、犬を見て「犬」と認識するのは、社会や文化を通して、
「犬」という概念を身につけているからです。
その概念が形成される以前の赤子は、
犬を「犬」としてではなく、ありのままの〝それ〟として
見ているはずです。
「犬」という概念を知った後で、そこに戻れるか、という話です。
難しいでしょう?
我々が、さまざまな事物に関して、概念を身につけるのは、
生存するためです。
「安全」と「危険」を見分けて、正しく反応できなければ、
人類は滅亡します。
赤子は、悟っているのかもしれませんが、
猛獣を「猛獣」と認識することなく近づけば、
食い殺されてしまうかもしれません。
生存維持に不可欠の概念を捨てずに、
心を完全に静止させることが可能なのか?
日常生活に仏教を応用するなら、
〝完全に〟の部分は、不要かもしれません。
時に動揺することはあるとしても、
ある程度静止した、落ち着いた心を作れたのなら、
ストレスに振り回されていた日常は、
大分平穏になることでしょう。
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