デビルマン・ショックと人間讃歌 | 物語の面白さを考えるブログ

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永井豪先生の 『デビルマン』 に

衝撃と影響を受けた人は数知れず。

かく言う私もその一人であります。

 

何が衝撃的だったかというと、

人間の存在価値を全否定したこと。

悪魔特捜隊によって牧村夫妻が殺された後、

デビルマン=不動明は、自問自答します。

 

「俺は人間を守るためにデビルマンになった」

「だが今の人間に守る価値があるか?」

「ない!」

 

と、言い切っています。

初めて読んだとき、とてもショックを受けました。

ちなみに、この記事は、資料を見ずに記憶のみで

書いているので、セリフは正確ではありません。

正確でないにしろ、スラスラ出てくるくらいに

記憶に刻まれています。

それくらいショックだったのです。

 

この読書体験の後、人間の善性を

正面切って信じることができなくなりました。

どんな善行を見たり聞いたりしても、

 

(どうせ人間の本性は〝悪〟なんだろう)

 

このような懐疑が常に付随したのです。

 

第二の衝撃をもたらしたのは、

荒木飛呂彦先生の 『ジョジョの奇妙な冒険』 でした。

コミックス第1巻・カバー袖の作者コメントに、

こう記されていました。

 

  この作品のテーマはありふれたテーマ──「生きること」です。(中略)

  「人間」と「人間以外のもの」との闘いを通して、

  人間讃歌をうたっていきたいと思います。

 

人間讃歌!

人間って素晴らしい! と、正面切って断言していたのです。

 

(そうか、人間の存在を肯定してもいいんだ)

 

街灯のない夜道の果てに、人家の灯りを見つけたように、

私は安堵の息を吐き出しました。

人間讃歌を力強く謳いあげる「ジョジョ」のおかげで、

デビルマン・ショックから立ち直ることができたのでした。

 

『デビルマン』 の連載時期が1972-73年。

『ジョジョの奇妙な冒険』 の連載開始が1986年。

荒木先生の生年が1960年で、

漫画家デビューが1980年であることを考慮すれば、

荒木先生もデビルマン・ショックの洗礼を受けていても

おかしくないはずですが、荒木先生の〝作家性〟は、

そこを軽々と飛び越えていらっしゃる。

これは実に驚嘆に値する事実であります。

 

そして、『鬼滅の刃』。

当ブログでは、折にふれて「鬼滅」に見られる

「人間讃歌」に言及してきました。

「ジョジョ」においては、初代主人公のジョナサンに

端を発する 『気高き精神』 が、その血脈とともに、

後の世代の主人公たちに受け継がれています。

この〝受け継がれる意志〟というテーマは、

「鬼滅」にも共通しています。

それが端的に語られたのが、

産屋敷耀哉と鬼舞辻無惨の対話シーン。

不死の個体の永遠性を確信する鬼舞辻無惨に対し、

その思い違いを、産屋敷耀哉はこう指摘します。

 

「人の想いこそが永遠であり 不滅なんだよ」

 

鬼の不死身の肉体は、一見、永遠不滅のようですが、

その実、鬼舞辻無惨の死とともに全滅するほど、

脆く儚いものであることが、この対話により明らかとなりました。

人と鬼との対話によって。

ここで「ジョジョ」第1巻の作者コメントを思い出していただきたい。

 

  「人間」と「人間以外のもの」との闘いを通して、

  人間讃歌をうたっていきたい

 

人間以外のもの――鬼との闘いを通して、

人間の〝受け継がれる意志〟を讃え歌う「鬼滅」こそ、

まさに「ジョジョ」の嫡流と言うべき作品なのです。

 

『鬼滅の刃』 の連載開始――2016年。

「ジョジョ」の誕生より、ちょうど30年後に当たります。

 

(今なお〝現在進行形〟である「ジョジョ」が凄すぎです)

 

 

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