今回は、「令和コソコソ噂話」として書きますが、「仏教」テーマでもあり、

「メンタルヘルス」でもある、ジャンル横断的な記事になっております。

 

第178話「手を伸ばしても手を伸ばしても」において、

継国巌勝が鬼舞辻無惨の誘いを受け容れるシーン。

その理由を、黒死牟はこのように語っています。

 

(鬼になれば)「私は全てのしがらみから解放される」

 

この後には、「はずだったというのに」と続きます。

鬼になっても、しがらみから解放されなかったのは、

本編に記されているとおり。

 

巌勝が抱えた〝しがらみ〟とは何だったのか。

それは、仏教的に言うのであれば、

 

「縁壱」という存在に反応して起こる心の運動

 

となるでしょう。

巌勝は、縁壱は太陽のごとき存在で、手を伸ばしても届かず、

焦がれるほどに身を焼かれて苦しむと見做していましたが、

縁壱自身が悪意敵意をもって巌勝を苦しめたことは一度としてなく、

すべての苦しみは巌勝の心の反応が作り出したものでした。

鬼となって寿命の制限から解放され、剣技を磨き、縁壱を超えれば、

心は反応しなくなる――縁壱などどうでもよくなる、と巌勝は考えましたが、

現実はそうはなりませんでした。

鬼となっても縁壱を超えられなかったこともありますが、最大の原因は、

心の運動を制する修行をしなかったことです。

心に手を入れねば、苦しみもまた手つかずである道理です。

そもそも、鬼になるという選択そのものが、心が反応した結果です。

鬼となった彼は、終生、自らの心的反応の内に囚われることとなったのです。

 

縁壱が消息不明となっていた十余年の間、巌勝の心は穏やかでした。

「縁壱」という刺激が存在しなかったからです。

心の反応回路が温存されていても、刺激がなければ、それは作動しません。

穏やかである反面、その間の暮らしは、時の流れを遅く感じるほど、退屈なものでした。

人の心がやっかいなのは、退屈に対する耐性が低いことです。

苦しみの最中にあっては、安らぎを切望するくせに、いざ安穏に座すると、

退屈だと言って刺激を求めるのです。

平穏と波乱の間を振り子のように揺れるのが、心の運動を制していない人の特徴です。

巌勝は、縁壱との再会が平穏を破壊したかのように述懐していますが、

それは自己欺瞞にすぎません。

平穏を破壊したのは、彼の内で休眠していた反応回路です。

彼は長らく刺激に飢えていました。縁壱という刺激に。

それと再会したとき、心の振り子が再び動き出したというだけのこと。

妻子との平穏な日々の間、彼が心の修養をし、内観する透徹した眼差しを養っていれば、

縁壱との比較によって導出される答えだけが、己の価値ではないことに気付けたでしょう。

――自分は妻子に愛されるだけの価値がある。

しかし、そのモノサシで測る自分は、退屈以外の何ものでもなかった。

巌勝の反応回路は、退屈な日々に留まることを忌避しました。

妻子を捨て、鬼狩りとなる道を選んだのです。

順番は前後しますが、鬼となる選択をしたときと同じです。

彼の心は、常に、「縁壱」という刺激を求めて、選択の舵を切っているのです。

 

巌勝のような反応は、私たちの現実生活の中にも、容易に発見できます。

ギャンブル依存症は、まるで、刺激がなければ死んでしまうと言わんばかりです。

特定の作品に粘着する、いわゆる〝アンチ〟。

不快になるなら鑑賞しなければいいのに、自ら「不快という刺激」を求めて執着します。

そして作品を叩くことで一時的に不快感を解消して快感を得るというマッチポンプ。

退屈するよりは不快な思いをする方がマシという、一種のマゾヒズムと言えます。

その動機を一括りに言うことはできないのでしょうが、

イジメをする人間は退屈を持て余した暇人なのだろうと思います。

〝何もしない〟という退屈さに耐えるだけの心の強さがない。

嗜虐的な心的回路を活性化させるべく、自ら刺激を発生させるように行動します。

実に多くの〝しがらみ〟が、私たちの心の中に根を張っているものです。

 

心の反応回路を根こそぎ除去するのが、仏教の目的です。

それを達成した人を悟った人と呼びます。

回路の配線を変更して、反応を穏当なものに変えようとするのが、

認知療法などの心理学的・精神医学的アプローチです。

「潜在意識の書き換え」や「心のブロック外し」など、ややスピ寄りの手法も、

こちらの範疇に含めてよいと思います。

心身は不可分ですから、心の反応回路は、身体的反応として保存される場合があります。

身体面からアプローチするボディワークも、心の回路を矯正する方法として有効です。

〝しがらみ〟から解放されるには、心の反応回路を滅するのが一番ですが、

一足飛びにその境地には到達できないので、回路を穏当な反応の仕方に変える、

という段階を踏むのが、実践的かと思います。

刺激に対するアウトプットを穏やかにして、苦しみを和らげ、心に余裕を作ってから、

反応回路を滅する作業に取り組むのです。

もちろん、悟りを目指すつもりがなければ、反応が穏やかになった時点で

やめてかまいません。

それでも、以前よりは、大分、生き辛さが解消されているでしょうから。

 

「道を極めた者が行きつく場所は同じ」と縁壱は言いました。

自分はそこに辿りつけなかったと黒死牟は嘆きました。

この嘆きが、刺激に対する反応回路のアウトプットだと、ここまでお読みくださった方には

理解できるでしょう。

「辿りつけなかった」。それは単なる事実。その事実の前に、謙虚に頭を垂れることが

できなかったのが、巌勝の悲劇なのです。

 

 

ペタしてね

 

フォローしてね…