物語の面白さを考えるブログ

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「独覚」という言葉を初めて知ったのは、夢枕獏先生の『キマイラ独覚変』を読んだときでした。

 

書影は角川文庫版。

私が読んだのは朝日ソノラマ版でしたけど。

 

独覚というのは、仏教用語で、師を持たずに悟りに到った人のことを指します。

小説の中に、山の中で修行をしている人が登場します。

釈迦は仏教を学んで悟りを開いたわけではない、それなら自分にも同じことができるはずだ、と彼は言って、独自の修行法で悟りに到ろうとしているのです。

理屈は通っている、と、妙に納得したものでした。

 

さて。

ネット上で「私は悟った」と自己申告する方のブログなどを目にすることがあります。

不思議に思うのは、「釈尊と同じ悟りを得た」だとか、「この仏教用語の真の意味はこうだ」などの表現を使うことです。

あ、全員じゃありませんよ。そういう方も見受けられるということです。

仏道に入って悟ったなら、仏教の文脈で語るのはおかしくはないのですが……ブログで自己申告する方は、独覚か、それに近い立場なのではないかと、こちらは思うわけです。悟りに到った経緯を開陳してくだされば誤解は減ると思われますが、「悟った」という結果のみを報告されると、つい独覚だと思い込んでしまいます。

もし、独覚者であるならば、自分が得た悟りの境地を、自分の言葉で語ればいいだけで、仏教を引き合いに出す必要はないはずです。

釈尊だってそのようにしたのですから。

では、なぜ、そのようにしないのか?

以下は、私の完全な憶測ですが――

まず考えられるのは、既存の表現を利用した方が便利だという理由です。

阿部敏郎さんが語った「いまここ」というキャッチ―な言葉や、「映画のスクリーンと映像」の喩えなどは、的確な表現だったために、以後、模倣する人が雨後の筍のように湧きました。

便利なことは便利なのですが、皆がみな、同じ表現を使い出したら、誰が「わかっている人」で誰が「わかっていない人」なのか、見分けがつかなくなります。

既存の表現を利用する方がコスパがいいのは理解しますが、悟っていないのではないかとの疑いを向けられるリスクがあるので、やはり自分の言葉で、オリジナリティーあふれる「悟り語り」をしてほしいというのが、私の希望するところなのであります。

次に考えられるのは、仏教の権威を利用して、自分の価値を高める魂胆が潜んでいる場合です。

「私は釈尊と同じ悟りを得た」と言うのは、自分が仏陀レベルの人間だと宣言するのと等しいわけで、単に事実を述べているのか、自己顕示欲や承認欲求から出た発言なのか、凡夫には見分けがつかなくなります。

そもそも、悟った人が、既存の権威を利用するようなムーブをかますのか、という疑念が拭えませんので、「仏教と同じ云々」と言い出した自称独覚者に対する私の猜疑心は、かなり高くなります。

私に考えつける理由は、上記のふたつくらいですが、どちらにせよ、いい結果に帰着するようには思えません。

ですから、無理に仏教と絡めずに、自分の言葉で語ってほしいと、そう願うのであります。