『怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院』を読みました。
著者は歴史学者の山田雄司氏。
本書の構成は以下のごとし。
はじめに日本古来の霊魂観を述べ、次に「怨霊」という語が歴史上に初登場した例を挙げ、それから三大怨霊について個別に語り、さらには中世から現代まで続く「怨親平等思想」について言及しています。
「怨霊」観の変遷を概観できる構成と言えましょう。
オカルト的存在としての怨霊が実在しない、という前提に立つなら。
怨霊とは人々の恐れの投影である、と言えそうです。
人は理由がわからないと不安になります。その不安を打ち消すために理由を求めます。
関係者が短い間隔で死亡する。特定の建物に頻繁に落雷する。
そういった、常識では説明できない現象に遭遇すると、人は安心するために理由を欲しがります。
そして理由を創り上げるのです。
あの人があの世で怨んでいるに違いない、これは怨霊の仕業である、と。
本書を読んで、ひどい、と思ったのが、崇徳院が怨霊化する過程です。
保元の乱(1156年)で讃岐に配流された崇徳天皇は、怨む気持ちはなく、戦死者の菩提を弔いながら静かに暮らした、というのが史実らしい。
しかし、その後、武士の台頭で貴族社会がゆらぐと、崇徳天皇の怨霊の仕業ではないかとの見方が出てくる。
時代は下って、承久の乱(1221年)の結果、後鳥羽上皇が隠岐に流される。上皇は怨みの歌を残しているが、このとき似た境遇の崇徳天皇が「怨霊の先例」としてピックアップされるようになる。
物語においては「怨霊・崇徳院」として語られるようになり、一度そうなってしまうと、後発の物語に引用され、「怨霊・崇徳院」のイメージは拡大再生産されて、固定化された伝説となってしまう。
さらに江戸時代には、配流先の讃岐において、〝いかにも〟な伝説と名所が作られるようになる。
このようにして、崇徳天皇は日本最大の怨霊「崇徳院」となったのでした。
現代になぞらえるなら、週刊誌の捏造記事がネットで拡散された結果、「事実」として大衆に定着した感じでしょうか。
【讃岐に流された崇徳上皇(歌川国芳:画)】
歴史的事実よりも、このようなイメージを、大衆は好むわけです
面白いと感じたのが、戦国時代を境に、合理精神が表にあらわれてくる点。
呪術や陰陽道が信じられていた平安時代には、「個人の怨霊」を国家事業として慰撫する例が頻繁に見られました。
しかし、室町から戦国時代を経て、このような例は減少します。
戦場において事を決するのは兵力の強弱であり、神仏への祈りが無力であることが実感されるようになったからだろうと、本書では分析しています。
かわりに目立ってくるのが、戦死者を敵味方の区別なく供養する「怨親平等思想」です。
個人ではなく、死者全般に対して、怨むなよ、祟るなよ、とお願いする心理です。
宗教的慈悲心が、名有りの個人から無名の衆に拡大したと解釈することは、もちろん可能ですが、忘れてはならないのが、このような供養の儀式が、為政者によって政治的に利用されていた側面です。
戦勝者が、敵兵の霊を鎮魂するパフォーマンスによって、制圧地の人民の反抗心を緩和する――このような狙いも、いくばくかは潜んでいるということです。
こうなると、怨霊が生者を動かしているのか、生者が怨霊を利用しているのか、判然としなくなります。
オカルト的存在としての怨霊が実在しない、という前提に立つなら。
「怨霊」とは、生きている人間の弱さ・あさましさが、霊魂という観念に投影されたものである、と言えるかもしれません。