一昨日、衝撃のニュースが!!

ミスタードラゴンズ高木守道さんが他界ガーン

 

私にとってはドラゴンズでは故・星野仙一氏以上に好きな選手でしたキラキラ

 

何故ならば、高木守道さんをTVで見て、少年野球を始め、セカンドというポジションに憧れて

 

猛練習し、レギュラーにもなれて野球が好きになりましたから。

 

『少年ドラゴンズ』に入会し、年間10試合以上ナゴヤ球場まで観戦へ音符

 

時には母親に無理を言って、試合終了後、選手の出待ちしてましたね~(笑)

 

例えチームがボロ負けしても、守道さんだけはサインをしてくれたんですよね。

 

ご冥福をお祈りします。

 

 

 

四角グリーン高木守道伝説

プロ入りまで

1951年8月19日10歳だった高木は後に自身が選手としてプレーした中日スタジアムの1塁側スタンドで

兄とともに巨人戦を観戦していたが、その試合の3回裏に球場ネット裏上段から出火。

この火災は内野席・球場施設がほぼ全焼し死者3人・重軽傷者318人を出す大惨事(中日スタジアム火災)と

なったが、高木は危うく事無きを得た。

なお少年時代の高木にとってプロ野球の試合を観客として観戦したのはこれが最初で最後だった。

 

1957年、県立岐阜商業高校に進学。当初は遊撃手だったが、肩を痛めて二塁手に転向。

1年生の時に長嶋茂雄(当時立教大学4年生)にコーチを受けた。

長嶋は髙木の才能を見抜き、監督に高木をレギュラーとして使うように薦め、その結果、髙木はすぐに

レギュラーを取りチームの中核となった。

なお、遊撃手だった高木を二塁手に転向させるよう監督に提案した人も長嶋である。

高校3年夏の甲子園大会終了後はプロからの誘いがなく、OBの縁故を頼って卒業後は早稲田大学に

進学する予定だったが、地元球団・中日から急遽オファーが届き、入団する。


現役時代

1960年、中日に入団[。同年5月7日の対大洋ホエールズ戦で代走として初出場、初盗塁を記録。

この試合で宮本和佳からプロ入り初打席初本塁打を打った。


1963年から半田春夫の後継として二塁手のレギュラーとなり、規定打席(19位、打率.254)にも到達。

同年には50盗塁を記録して最多盗塁のタイトルを獲得。中利夫と1・2番を組み、前年に放出された森徹に

代わり、江藤慎一とともに中日の新たなスター選手となった。以後1965年、1973年と3度の盗塁王に輝く

俊足に加えて、打撃では1969年に24本塁打するなど通算236本塁打を記録しており、守備ではバックトスやグラブトスなどを度々披露した。



1965年には打率.302(4位)、1966年にも打率.306(6位)と二度の打率3割を記録するが、1968年5月28日の

巨人戦で堀内恒夫から顔面に死球を受け、一時は意識不明となる。

その影響でバッティングフォームを崩し、長期にわたる打率の低迷を余儀なくされた。

しかし徐々に打棒も復活し、1974年にはリードオフマンとして、チームの20年ぶりの優勝に貢献した。

 

 

初打席初本塁打を記録した選手で通算200本塁打、通算2000安打を記録した選手は高木が初めてであり、

また通算で200本塁打・200犠打を併せて記録した選手も髙木が初めてである。

1974年、優勝決定翌日の10月13日に予定されていた後楽園球場の対読売ジャイアンツシーズン最終戦

ダブルヘッダーは、長嶋茂雄の引退試合であったが、降雨で14日に順延してしまい、中日の優勝パレードと

日程が重なった。そのため、大島康徳、藤波行雄などの若手や、引退直前だった広野功を含む準レギュラー級選手のみを出場させ、中日のレギュラー選手は同日の名古屋での優勝セレモニーのために欠場するよう

球団に言い渡された。

この通達に高木は「偉大なる選手になんて失礼なことをムカムカ」と大いに憤慨し、球団にその通達の撤回と

「それが無理ならばせめて自分だけでも出場させてほしいお願い」と抗議した。

しかしその願いは聞き入れられず、高木は優勝セレモニーで終始むすっとした表情をしていた。

(高木はのちに長嶋へ電話し、謝罪したという。星野仙一も同様に電話で謝罪したとの記述がある)。

ロッテオリオンズと対戦した同年の日本シリーズでは、第1戦の9回裏に村田兆治から逆転サヨナラ二塁打を

打つなど大活躍する。後楽園球場での第4戦でも金田留広から初回先頭打者本塁打を放つが、

その試合の3打席目で自打球を左足に当て負傷退場。

検査の結果全治3週間の骨折で、高木は第6戦で復帰するも中日はロッテに敗れた。

シリーズ通算22打数8安打3打点を記録し、敢闘選手賞を獲得。

1975年にも打率.298(4位)を記録。1978年4月5日、対広島東洋カープ1回戦(広島市民球場)で、1回表、

高橋里志から中前安打を放ち、日本プロ野球(NPB)史上11人目、中日の生え抜き野手としては初となる、

通算2000本安打を達成したキラキラ

1979年にも38歳ながら打率.300(14位)と気を吐くが、視力の衰えもあり、中利夫が監督に就任した

1980年限りで現役引退。二塁手としてベストナイン7回は史上最多である。

 

同年シーズン終了後にナゴヤ球場で行われたセ・リーグオールスター東西対抗では、同年引退した1歳上で

自身より1年早くプロ入りした王貞治とともに引退セレモニーが行われた。

引退の際には「王さんが引退したら自分がプロ野球選手で最年長になるアセアセ

最年長の選手は相応のプレーを見せなければならないが、自分にはそのプレッシャーに

耐えられる強さがなかったアセアセ」と発言している。

 

 

翌1981年のオープン戦で引退試合が行われた。

もちろん、これは観戦に行きました!!

 

 

 

 

 



・口数が少なく穏和なイメージがあるが、自身のプレースタイルや野球理論には確固たる自信を

持っており、これを否定されたりした場合には、たとえ先輩や監督・コーチ相手であったとしても

徹底的に怒り、反抗する骨太さを持っている。

記者は、「怒った時は星野さんよりも怖いタラー」と発言している。

 

・一方で山本昌は「どんなに打たれても叱責を受けたことはない」と1992年から1995年までの

4シーズンを務めた頃の高木について振り返っており、山本は高木を「僕を初めて大人扱いしてくれた監督」

であり「最も喜ぶ顔を見たい監督キラキラ」であったと評していた。

 

・入団3年目のある出場試合において、守備の際、普通の二塁手なら追いつけないような打球に追いつき

したものの捕球することができなかったプレーに対し、当時の杉浦清監督に「何をやっているんだ!!」と

罵声を浴びせられたことが気に入らず、中日の攻撃中にベンチを抜け出し合宿所に帰ってしまった。

そのころ高木は、南海から移籍してきたカールトン半田コーチがキャンプの練習中に披露していた

バックトスを見て、練習を重ねながら自分の型にしようと試合で試し始めていた時期であった。

なお、再度守備に就くまで高木がいなくなったことに中日ベンチは誰も気付かなかったという。

髙木が普段無口でベンチでも目立たなかったためである。

 

・板東英二の証言によると、高木は自身の後輩であるものの、板東に対し上下関係を一切気にしていない

様に接していたようである。たとえば「(殆どストレートしか投げない)板東さんの球を打てないのはおかしい」と

いう疑問を率直に述べたり、板東が登板していてピンチを背負うと高木がマウンドに来て

「真っ直ぐ狙ったら犠牲フライ打てるのにムカムカ」、

「フォアボールばっかり出しやがって。どんどんストライク取れよムカムカ

などと、板東を激しく叱咤することが多かった。

それ以外にも板東は、大洋戦にリリーフ登板した際に2連続で二塁打を許し、いずれも牽制アウトにしながらも、

次の打者に初球を本塁打されてサヨナラ負けした際、だったら早く打たれとけムカムカ

高木がその事に関して激しく激高していた光景を目の当たりにしたことがあったという!!

 

・先輩投手であった柿本実が、ある試合で二塁走者を気にして牽制球を繰り返していたところ、

4回目の牽制球をグラブで捕らず足で止めて、「いい加減にしろムカムカ」と意思表示したことがあるという!!

 

~野球関係者からの追悼~

四角オレンジ高木守道さんは『初めて大人扱い、プロとしての自我を芽生えさせてくれた』立浪和義さん

「10・8勝たせたかった」

https://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/dragons/news/202001/CK2020011702100088.html

 

四角オレンジ中日黄金時代を支えた井端弘和氏が高木守道監督との一触即発事件を振り返る

「オレなんか試合途中で帰ったことも…」

https://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/dragons/news/202001/CK2020011802100053.html

 

四角オレンジ高木守道さんは“すごいおっちゃん”『10・8』で先発した今中慎二さん

「1度でいいから優勝の胴上げをしたかった」

https://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/dragons/news/202001/CK2020011802100058.html

 

四角オレンジ大島康徳氏、高木守道さん追悼 「孤高の努力の天才、心の中に優しさいっぱい」

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200118-00000041-dal-base

 

四角オレンジ田尾安志氏、高木守道氏を悼む「憧れの人でした」

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200117-00000566-sanspo-base

 

四角オレンジ“努力する天才““究極のわがまま“「そのどちらもが高木守道」

権藤博さん59年の付き合いを語る

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200118-00010030-chuspo-base

 

 

 

四角オレンジ伝説の「10・8決戦」の翌日、敗軍の将・高木守道監督が向かった先とは…

当時の谷木恭平外野守備コーチが明かす

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200118-00010020-chuspo-base

 

四角オレンジ長嶋茂雄氏、高木守道氏悼む「巨人の胴上げをじっと見つめていた表情は忘れられません」

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200118-01180116-sph-base

 

四角オレンジ和田一浩氏「身近にいてくれた神様」高木さん悼む

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200118-01180015-nksports-base

 

四角オレンジ堀内恒夫氏が高木守道さん追悼 頭部死球に「気にするな」

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200118-00000037-tospoweb-base

 

四角オレンジ張本勲氏 高木守道さん死去にショック「義理堅い男で、筋も通す。日本男児だった」

https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2020/01/18/kiji/20200118s00001173341000c.html

 

四角オレンジ一枝氏「怒らせたらダメな存在」高木守道さん悼む

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200118-01180699-nksports-base

 

四角オレンジ個を捨て中日だけを愛したのは高木守道さんだけ…

今こそ「10・8」を呼び込んだ手腕をクローズアップしたい

https://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/dragons/news/202001/CK2020011902100006.html

 

 

 

指導者としても優れていましたが、星野さんのように周りからの支援が得られなかったことや、

 

少しだけ不運だったことが優勝に繋がりませんでしたねアセアセ

 

中日ドラゴンズ一筋!!に力を注いで下さって本当に有難うございました。