昨晩、義父が亡くなりました。享年78歳、肺癌が原因の死でした。


昭和一ケタ生まれの豪快な人で、酒は飲みませんでしたが美食家で甘いものにも目がなく、戦争を経験したこの世代の人に多いタイプの「好きなものを好きなだけ食べる」食生活に、1日2箱のタバコ。県会議員を長く務めかなりストレスフルな生活に、移動は車という典型的なアンチ・アンチエイジングなライフスタイルを送っていました。


60代からはそのツケがまわり、糖尿病、高脂血症から動脈硬化、心筋梗塞に脳卒中と生活習慣病のオンパレード。脳卒中を起こして現役を引退した後、今から2年半前の2004年の夏に肺癌があることが判明しました。肺癌の中でも性質の悪い「小細胞癌」で、その時点で余命3ヶ月との宣告をされました。私も研修医時代にはがんの内科病棟で肺癌患者さんを何人も受け持ったことがあります。義父の予後については容易に想像がつきました。それまで大きな心筋梗塞、脳卒中を運よく乗り越えてきた義父の運も「もはや尽きたか…」と呆然としたことを昨日のことのように思い出します。


私の実の父も義父と同じ年の生まれ。同じように頑固な人でした。義父と違うところは大酒飲みだったことと仕事が医師であったくらいで、その他はライフスタイル的にはほとんど同じようなもの。飲酒による慢性膵炎後の重度の糖尿病、高血圧、高脂血症、脳卒中に最後は肺癌と、これも良く似た病歴でした。2002年9月2日、75歳で亡くなりました。


実父の場合は、私が自衛隊中央病院に勤務していた時に肺癌が見つかり、年齢的にはギリギリでしたが手術をしました。癌の病巣そのものは上手く取り除けましたが、その後は体力と気力の低下が著しく、手術後のQOL(Quality of Life)は父にとっては最悪のものだったと思います。好きだった旅行にも行けず、食も細くなり、アルコールも飲めなくなって朽ち果てていく姿を見て、私自身、「手術したことが本当に良かったのだろうか?」と後悔さえしました。その時は、がんの治療と言えば、「外科的手術」、「化学療法」、「放射線治療」の3つしか私の頭にはありませんでした。現代西洋医学が絶対だと思っていた私自身の限界が父の余生を最悪のものにしてしまったのです。


さあ、これから日本のアンチエイジング医学を作っていこうと意気込んでいた私に、亡くなった父から「親父のことすら平均寿命(当時の日本人男性の平均寿命は78.32歳)まで生かせられずに、何やってんだ。もっと勉強しろぉ!」という叱責の声が聞こえた気がして、大変落ち込んだものです。


義父は父よりも少し遅れて、肺癌があることがわかりました。がんの種類、病期、年齢からして手術の適応はなく、心筋梗塞、脳梗塞の既往に加え糖尿病と腎機能障害を持つ義父には、強い抗がん剤を使う化学療法もほとんど行えません。だまって3ヶ月後の死を迎えるしかないのでしょうか?答えはNOでした。


その時、私は防衛庁の医官を辞し、今のフィールドに足を踏み入れていて、父の時とは違う見識を持った私に成長していました。そう、統合医療を学んでいたのです。統合医療が私の医師としての器を大きくしてくれていました。免疫細胞療法(活性化リンパ球療法)を主体とするがんの免疫療法を勉強していたので、義父にもそれを受けさせることにしました。


免疫細胞療法とは、自分の血液中のリンパ球という免疫を担当する細胞だけを培養して増やし(特にがんをやっつけるパワーのあるリンパ球を増やしてあげる)、それをまた点滴注射で体内に戻してあげるとそのリンパ球軍団ががんをやっつけるというメカニズムの治療法です。まだ、日本においては医学的に確立されたものとしてはされておらず、がんの代替補完医療として位置づけされていますが、最近ではこの治療法を取り扱う医療機関がものすごい勢いで増えてきています。


結果は劇的なものでした。免疫細胞療法を受けるにつれ、がんは進行するどころか、胸部X線写真の腫瘍サイズの縮小が見られてきたのです!抗がん作用を持つサプリメントも併用しました(がんのサプリメント療法も最近は色々評価がなされ、中にはパワーのあるものが確かにあるといえます)。


その年を越えるのも無理だと言われていたにもかかわらず、お正月を無事迎えることができ、皆で温泉旅行にも行きました。がんの診断がついて1年が経ちましたが、義父は元気そのもの。好きなものを食べ、呆れたことに肺癌を胸に飼っていながら、タバコも吸っているのです。糖尿病もありましたが、私は出来るだけ好きなことを好きにやらせてあげようと、食べ物のこともうるさく言いませんでした。陰で甘いものをこっそりとつまんで嬉しそうに微笑んでいる義父を見て、「父の時にもこうしてあげられたら良かった」と心底思いました。


免疫療法を受けにクリニックに来ても、スタッフに悪態をついて、我がまま言い放題。リンパ球の点滴をしている時にも「もっと早くしてくれ。俺は東京に旨いもん喰いに来たんだ。点滴なんかしに来たんじゃぁないんだ。」という感じで困ったものでしたが、結構、治療を受けにクリニックに来ることを楽しみにしていたようです。


診断から2年経った去年の夏くらいから、いよいよがんが大きくなり出し胸水も溜まり出しました。12月になり、食欲も落ちてきて入院することになりました。入院した病棟は、とある公立病院の「緩和ケア病棟(Palliative Care Unit)」という病棟でした。この緩和ケア病棟とは、がんやAIDSなど現代医学では治癒が困難とされた病の末期患者さんの精神的・肉体的苦痛の緩和を最優先し、いわゆる治療的な医療行為は原則として行わない病棟のことです。ここでは、その方に合った望むべき人生の最後の時を、家族や好きな人と共に有意義に過ごせることが出来ます。「緩和ケアの目標は、患者とその家族にとって出来る限り可能な最高のQOLを実現することである(引用:恒藤暁著、‘最新緩和医療学’、 株式会社最新医学社1999年発行)」とあります。


私はこのPCUという病棟を初めて、がんの末期患者の家族として体験しましたが、本当に感動しました。入院の際に、あらゆる積極的な治療(病状急変時の際の心肺蘇生はもちろん、栄養補給のための点滴や酸素吸入さえも)はここでは原則として行わないことを確認させられます。庭に出られる病室。家族が常にいっしょにいられる病室と広い多目的ホール。一般病棟の重症患者ではよくある「スパゲッティ症候群(延命のための点滴の管や酸素の吸入用の管、尿の管、心電図のモニターの線…管だらけの体をスパゲッティに揶揄した状態)」は人間の尊厳を損なうものとして現代医学が反省しているものでもありますが、これとは無縁の一流ホテルの部屋を思わせるベッド周り。


義父も最後はそんな素晴らしい環境の中で、義母と子どもたち、孫たち皆に囲まれ、ゆっくりと眠るように息を引き取りました。呼吸が停止したのを私が確認し、ナースセンターに行き看護師さんにその旨を告げると、その後当直のドクターがいらして死亡確認をされます。その間の看護師さんの、患者本人と家族に対する優しい心のこもった精神的サポートに改めて感動しました。


以前、私も多くのがんの末期患者さんたちを看取ってきましたが、心電図モニターを確認しながらの臨終の宣告はあまりにデジタルで冷たく、何度も薄ら寒い悲しい思いをしたのを思い出しました。初めは看護師さんが血圧測定すらしないことに大きな違和感を覚えましたが、最後には、「以前、私が大学病院で行っていた終末期医療とは何だったのだろう?」と思うほどのカルチャーショックを受けたといっても過言ではありません。


義父は日本人の三大死因の疾患をすべて患いながら(=結構アンチ・アンチエイジングな生き方をしていたにも関わらず)、なんとか日本人男性の平均寿命までQOLのいい人生を送れたのではないかと思います。その最後のところでちょっとだけ、親孝行も出来たのではないかと勝手に自負しています。


二人の父が自身の命をかけて教え示してくれた『QOL』、『真の医療とは何か?』、『健康長寿とアンチエイジング』。これは、これから統合医療によるアンチエイジング医学の完成を目指す医師としての私への二人からの最高のプレゼントでもあります。


「ありがとう。お義父さん。オヤジと二人で天国から応援していて下さい。」