自分の怒りを話してみる
それで怒りが徐々に収まれば
それは正当な怒りだろう
話すべき内容だ
話せば話すほど
怒りが増幅していけば
それはよこしまな正当化
かもしれない
本質を外しているの
かもしれない
自助で言われる鉄則
話せば話すほど
楽になるテーマを探す
おそらくそれらが
自分の問題の本質
私が仲間とさえ思っていない
おそらく精神疾患当事者の
悪口を書いて
いくつかの記事を書いた
ようやく
怒りが何とかなる程度まで
収まったので
また
このブログは
再び何か書かなきゃいけない
事態が起きるまで・・・・
私の希望では長い期間
休止にする
自尊心の欠如って
なんだろう
それを何年も考えてきた
今回も考えた
自尊心の欠如から
自分の行いを正当化し
様々な認知の歪みを内包し
その結果顕著に出てくるのは
コミュニケーション能力の欠如では
自信がないから
相手の思いにまで
思考は及ばずに
常に自分勝手
正当な指摘には
常に攻撃されたと騒ぎ
自分と異なる意見には
常に過剰反応する
コミュニケーションの欠片もない
真性の精神疾患や
電パチの後遺症は別にして
悩みの本質は
全て人間関係の悩みだと
アドラーは言う
もしそうなら
それは
コミュケーション能力が低いことも
一因だ
その手の病気になる
勤労者の多くの当事者の
最初の原因は
高いコミュニケーション能力が
必要とされる中間管理職に
就いてから
きっと本人に理由は判らないが
急に仕事が上手く行かなくなる
常用量依存に限らず
依存症
またはそれに類する治療法で
効果があると言われる
病気の当事者は
おしなべて
コミュニケーション能力が低い
コミュニケーション能力が低いということは
協調性がない
だから
当事者間で何かやろうとすると
全く何もまとまらない
無理矢理まとめても
有効的な計画や戦略にならない
無意味な活動になる
ある高名な専門家は言う
間違いなく3歳~15歳ぐらいまでの問題で
大人になる最後の状態を
失敗した人達
他の専門家は言う
親の愛情不足
しかしだ
少ない例外を除き
子供に愛情がない親はいない
それでも多くの当事者は言う
親のバカヤロー
親のせいで自分はこうなった
いろいろな背景はあるだろうが
愛する子供に対して
子供に愛情がない親はいない
それでも
子供が愛情を感じないのは
コミュニケーション能力の欠如も
一因にあると思う
コミュニケーション能力は
決して愛情ではなく
技術の問題だろう
そうならば
知識の学習と訓練で
カバー可能だ
しかし何もしていない
その方が問題かもしれない
コミュニケーション能力が欠如した
親元で育った人は
高い確率で
コミュニケーション能力が低い
それがそもそもの根源かも
しれない
そして親も
コミュケーション能力が欠如した
親元で育ったのかも
しれない
そして
親を憎みながらも
自分の子供に
自分が嫌だった同じ事を
やってしまっている
コミュケーション能力が欠如した
子供に育ててしまう
それが世代連鎖
それしか知らないから
しょうがないのか?
子供に
精神的にも経済的にも自立し
幸せな人生を送って欲しいと
願いながらも
その思いはいつも隅に追いやり
自分の意見や世間体や噂が
優先される
この問題を自覚するのは難しい
自分の欠点を見つけるのに
一番ふさわしくない人物は
自分自信だから
更に
それを指摘されたり注意されると
攻撃されたと勘違いし
自分の認知の歪みの
正当化を始める
しかし
子供の側にも問題はある
子供とはいえない年齢になっても
コミュケーション能力が低く
自分の問題と考えず
常に親のせい
それでは
その連鎖は永遠に続く
自助のもうひとつの
良いところ
劣った
コミュニケーション能力を
訓練できる
そもそも
コミュニケーション能力が
低い人間の集まりだから
表現が抽象的だろうが
内容が整理されてなくて
論理的に破綻していても
それがその人の感情を
表現しようとしていれば
指摘されることはない
そのために
本音を正直に話す
間違えても
辻褄が合わなくても
その時のベストを尽くせば
全て許してくれるのが
自助なのだが
社会でそれは通用しない
向精神薬には
アルコールや違法薬物と異なり
長期に渡る精神的依存性は
極めて低いというのが
私の実感
断薬してしばらくすると
飲みたいという欲求は
気づかないレベルまで
少なくなる
今日1日
我慢するための自助は不要だ
断薬して
ある程度回復したら
自助というぬるま湯に
永住するか
勇気を出して
社会に飛び出すか
決断を迫られるのが
向精神薬の自助だろう
私は
回復を真剣に願い
そのために努力する人の
背中なら押すことをいとわない
むしろ押しまくる
向精神薬の自助に
永住権を求める人とは
生涯
他人のままでいたい