ツイッターで呟いているけれど、チャルーンサティを1日1時間から2時間くらい続けてきて、大きな変化としては、日曜日夜の憂鬱(所謂、サザエさん症候群というやつです)があまり出てこなくなった。また、平日は、週末の楽しみだけを支えにして過ごしてたのだけれど、それも無くなってきて、淡々と日々が過ぎていくようになった。まあ、そうは言っても、職場では色々起こるわけで、そのたびにジタバタ、あわあわするのだけれど。
そもそも、私は心配性で、仕事の成否が心配でならなくて、できることは全力でやってきた。それで、周りからは責任感があるとか、安心して仕事を頼めるとか言われていたのだけれど、責任感からではなく、失敗したくないから、叱責されたくないから、一生懸命仕事をしてきただけだった。これは、これである程度うまくはいっていたのだけれど、「行動はその思考を強化する」との言葉の通り、心配性の度が過ぎてしまい、心や身体に歪がたまってしまい、限界を迎えていた。身体は悲鳴を上げ、自律神経を患い、精神安定剤のお世話になっていた。精神安定剤は効きの強いものに変わったが、身体は悲鳴を上げたままで、薬の副作用である筋弛緩作用によって、40肩の痛みが緩和されるだけだった。40肩は痛いから、それだけでも、嬉しいのだけどね。
薬を服用しつつ、チャルーンサティを続けていたら、二日連続で薬を飲むのを止めろ的なメッセージとしか思えない夢を見た。そして、思い切って薬を止めた。私が服用していた精神安定剤は、最も効くものなので、離脱症状が出てしかるべきのはずが、まったく出ず、薬は止められた。すると40肩の痛みが、増幅されて戻ってきた。
あららと思いつつ過ごしていたのだけれど、ある時「無常」に触れた。チャルーンサティ中ではなくて、会社帰りの車の中だった。五蘊について考えながら運転をしていたら、はずみで触れたようだった。その瞬間、40肩の痛みは消えた。それ以降も痛みは出ていない。無常は私にとって福音だった。無常であるがゆえに、将来を心配することは不毛なものであることがわかったからだ。今の延長線上に将来を思い描き、そこから導き出される最悪の事態を想起して、それを起こさぬよう心配しておびえながら、必死で将来をグリップしようと試みながら生きることは、やってもいいが、そもそもの前提が間違っていることを意味し、意味なく消耗する生き方であることを教えてくれたからだ。
そんなわけで、生きるのが少しだけ楽になった。少しだけというのは、今までの生き方、考え方は、習慣性のもので、癖になっているので、ちょっと油断しているとすぐにそっちに引っ張られるからだ。怠らず修行に励めというブッタの言葉は、まさにその通りで、チャルーンサティという気付きを習慣化させてくれる瞑想を続けること、修行を怠らずに行うことは、ここに意味があると思っている。
さて、「無常」にちょっと触れたのが原因かどうかは不明だけれど、心の中に抑圧してきたものの蓋が少し開いたようで、重たーいものが心から湧き出ていること、身体も少し解放されたらしく、身体も今までため込んできた歪をとろうとしているのか、心身ともにキツイ状態が続いている。心が吐き出したものに身体が影響を受け、身体が吐き出したものに心が影響を受けといった状態で、掛け算でキツイ。キツイのだけれど、苦ではない。キツイと苦は違うことを、半世紀近く生きてきて初めて知った次第。
今は、この湧き出てくるものに気付き続けるのが当面の方向なのかなと思っている。
最後に、最強の瞑想本と言われているウ・ジョーティカ師の「自由への旅」を読もうとしても、読めない状態が続いている。翻訳したニー仏こと魚川氏から直接購入したという在り難い御本(しかも直接購入なのでちょっとだけ安い)なのだが、なぜだかページが進まない。5章途中で止まっている。私は、瞑想を続けた先に見えてくる光景をみてはいけない性分のようだ。たぶん、先の光景を目指して瞑想をしてしまうからなのだろう。答えを先に知ってはいけないタイプのようだが、答え合わせは良いらしい。
基本は、ツイッターで呟いているので、リアルタイムの変化にご興味のある方は「しみP」で検索してください。適当なことを呟いていると思います。