きょうになってやっと、彼は来週月曜のわたしのオペの患者さんのデータを見る気になった。
 前立ちも、執刀医と同じ情報を共有しておかなければならない。
 「肺上粘皮癌にリンパ縦隔転移、か。 なんか懐かしい響きがする」
 彼はくくっと笑った。
 彼のお母さんも同じ病名だった。
 「切除のときに神経を巻き込まなければ十分いける。 君だけの腕があれば大丈夫だ。 ただ問題はひとつ。 現在の時点で君の頭の中がオペでいっぱいになってる。 周囲が見えないのは危険だよ。 きょうから明日の夕方、患者さんも一時退院するから、その間は一切オペのことは考えない。 いいね。 おぺのことより今月の演芸会のことだ、まずは」
 そうだよね、すっかり忘れてた
 自分の出し物は決まったの?
 毎月夫婦漫才ってわけにはいかないよ
 「きみは?」
 「とりあえずピアノを弾こうと思ってる。 それしかできないから」
 「じゃあ、ぼくはギターの弾き語りだな。 ピアノだとかぶるからね」
 曲は?
 「いくつか候補は決まってる。 2曲までだったよね」
 うん、一応
 「Old lang syne」と「same old lang syne」
 同じような曲じゃない?
 「「seme old lang syne」のラストに「old lang syne」がソプラノサックスで流れるんだ。
 「same old lang syne」は、ダン・フォーゲルバーグというシンガーソングライターの曲で、日本では「Longer」が有名だと思う。
 「same old lang syne」は、ドラマにすると、クリスマスの夜、別れた恋人が、スーパーマーケットで買い物をしていて偶然出会う。 そして、車の中で缶ビールを開けて、あの頃のことを語って、それからそれぞれの今を語って、ひとときを過ごして、別れていく。 その最後にソプラノサックスが「蛍の光」を奏でるんだ」
 蛍の光って、卒業式で歌うやつ?
 「今はもう歌わない。 AKBの「桜の木になろう」とか、J-POPの卒業ソングだから。 ぼくのときは斎藤由貴さんの「卒業」だった。 ぼくがピアノを弾いて。 『スケバン刑事』で斉藤さんがブレイクして、「卒業」もものすごく流行ってね。 制服の胸のボタンを下級生たちにねだられ、って、あとはおニャン子の会員ナンバー5番の子の「じゃあね」。 これは切り口がおもしろいんだよ。 卒業って言っても、けっこう近隣市町村に就職したり進学したりして、街で必ず出会うから、さよならなんていらないじゃないか。 「じゃあね」でいいって、秋元くんが強引に押してレコーディングされた。 蛍の光って、デパートやスーパー、家電量販店でしか聴かないから、演芸会で」
 だめ、別れの歌はダメ!
 蛍の光が最後に鳴る歌もダメ!
 とにかく別れは一切ダメ!!
 「わかった。じゃあ、ショパンのエチュードop20」
 まだこだわってるの
 あれはダメだって言ったでしょう!
 ショパンがつけたんじゃなくても、「別れの曲」っていうタイトルが有名だから
 「当然。「涙そうそう」も」
 ダメ!
 「アランフェス協奏曲やアルハンブラの思い出じゃ、わかりにくいんでしょ」
 なんか、患者さんの世代の歌謡曲とか
 「「メリークリスマス・ミスターローレンス」でちょっとピアノを」
 貸してもいいけど、10月でしょ。 クリスマスには2ヶ月もあるでしょ
 「そうかーじゃあ「コーヒールンバ」。昔アラブのえらい坊さんが、恋を忘れた哀れな男に不思議な香りいっぱいの 琥珀色した飲み物を、って」
 問題ないけど
 「CDの歌詞カードを見せるよ」
 彼はCDの歌詞カードを渡してくれた。
 井上揚水さんが、懐かしい曲をカバーしてる。
 1曲目が「蛍の光」
 2曲目が「コーヒールンバ」
 お坊さんの差し出したコーヒーで、哀れな男は幸せになっていくんだから、問題はない。
 これでいいんじゃない。
 「そのあとに「東京ドドンパ娘」とか、「誰よりも君を愛す」っていうのがあるんだけど、どっちかにする。 ちなみに「誰よりも君を愛す」っていうのは松尾和子さんという大物歌手と、和田弘とマヒナスターズというハワイアンバンドの曲なんだ。 松尾和子さんは、ぼくを美空ひばりさんに紹介してくれたし、和田弘さんは、ぼくのスティールギターの先生なんだ。2人とも亡くなっちゃったけどね。 何も返せなかったのが心残りでね」
 わかった
 「コーヒールンバ」と「誰よりも君を愛す」にしなさい
 「患者さんの年代にはいいと思うよ。 若かりし頃が蘇ってきて元気になると思う」
 演芸会は、患者さんが元気になるためのものだからね
 それで腫瘍が消えたケースもあるんでしょ
 「ニューヨークの病院でね
 院長がハンドパワーを次々と披露していたら、腫瘍が消えて大騒ぎX線とかCTを納入した業者を呼んで、帰化機が壊れた、って修理だって、調べたら全然正常なわけ。 それで臨床検査技師連中がふざけた仕事をしてるって怒鳴りまくって、姉妹病院に患者さんを送って調べてもらったら、そっちの病院から、ふざけるな、健康体の患者さんを起こってきて無駄な時間を取らせやがって、って大喧嘩。 それで院長は喧嘩してるんだけど、医師たちは、演芸会で心の底から笑ったことで腫瘍が消えたんじゃないか。 パッチ・アダムス先生の行った例と同じことが起きたんだ、って」
 オペの前に演芸会をできたら、オペをしなくてよくなるのにね
 「大丈夫だって。 君は立派にやり遂げる。 あのお父さんの血を引いてるんじゃないか。 あの人は日本でも5本の指に入る脳神経外科のドクターだから」
 あの人はただの変なおじさん!
 「変だから常人にも考えられないことができるんじゃないか。 常人じゃない腕だから日本で5本の指に入るだけの技術を持ってるんだよ」
 あのおじさんが日本で5本の指に入るのなら、ウチのゴールデンレトリバーはトップじゃない! 
 おじさんよりも頭がいいんだよ
 「まあ、それはそれとして。 とにかくオペは当日の朝まで忘れること、いいね。 それで、今晩はこれからレイトで映画を観てこないか。 『最強のふたり』っていう、下半身麻痺の男性と健常の男性が仲良くなって、いろいろなことをやっていく映画なんだけど、ぼくは理想を見たんだ。 ニューヨークじゃ車椅子を見たら、横断歩道は走って押してやるし、地下鉄の階段は4人が一斉に車椅子の四隅を持ち上げて降ろして、メトロに乗せてやる。降りるときはメトロから降ろして、階段を持ち上げて地上まで上げてやる。 それは普通のことで、金銭を要求するでもないし、名前さえ名乗らずに去ってゆく。 日本じゃどうだ、何がえらいのかしらないけど、駅員まで無視だ。 駅員の顔をしっかり覚えておいて、後で車で轢いて、車椅子生活がいかに大変か思い知らせたくなる。 どうして日本は、障害者を汚いものを見るような目つきで見るんだ」
 確かに見ていてムカつくよね
 「その映画はジャンルで言うと」
 「ハートフルコメディー。 下ネタは抜き」
 わかった、行こう
 「『踊る』もまだチケットが余ってるんだ、まだ。 もう2、3回は観られるけど」
 それはオペのあとでいい
 だけどあれを観てるサコちゃんの顔って真っ赤だよ
 穴があったら紹介してくださいって感じだよ
 「だって、中央警察署と一緒だから。 思い出すと恥ずかしくなるんだよ」
 みなさーん、昨今のハードボイルドな刑事ドラマはすべてフィクションです。
 『警察24時』もヤラセでーす。事実は『踊る』だけしかありませーん。

 前作で終わるはずの『相棒』。 プロデューサーが落ち着いてナタを振り下ろしてくれなくて助かったんですけど、どうもしっくりいかない感じ。
 やっぱり亀山さんとのコンビが良かったような気がしますね。 「ドジでのろまなカーメー」「おいっ、暇か?」 

 『最強のふたり』って私と彼のこと?。