その日は、いつもと変わらない日差しの強い朝だった。
 さあー、明日は戦争だから、きょうは体力を温存しておかないとねー
 「どこと戦争するの?」
 彼はパソコンのディスプレイを観ながら言った。
 「中国?」
 ・・・・・・なに、ふざけてんのー
 明日は患者さんが一斉に一時退院するから届出書で大騒動になるじゃない
 「えっ、きょうは水曜日だよ」
 またあ、嘘には引っかからないよ
 TVをつけた。
 キャスターが8月29日だと言っていた。
 つまり、わたしの勘違いってことか。
 うー、この場をどう切り抜けようか。
 彼の覗いているディスプレイの中の話題にしよう。
 覗いてみた。
 あっ、それはヘブライ語だよね
 「さすがはプロテスタント歴が長いね。 わかった?」
 読めないし、意味もわからないけど、ヘブライ語なのはわかる
 「旧約聖書の一節だ。 これが死海文書の一部だよ。 全部で巻物が900あるうちのほんの一部だ。 じゃあ、これは何語だと思う?」
 彼はスライドショーで写真を入れ替えた。
 「死海文書が収められていた瓶の表面に書かれた文字なんだ」
 ヘブライ語にはこんな文字はないと思うけど、ヘブライ語の巻物を収めた瓶なら、当然、ヘブライ語じゃないと
 「ヘブライ語でないことはわかってるんだ。 一種の暗号文だと思われる。 死海文書は900巻すべて非常に小さな町の900の洞穴から1本ずつ発見された。現在の仮説としては、紀元68年のローマ帝国の侵攻から文書を隠すために洞穴に隠し、万が一ローマ帝国軍に見つかっても、わからないように瓶に暗号を刻んだ、とされている。 死海文書の最大の謎は、誰が書いたのか。 おそらく世界最古の聖書の写本だろう。 大規模な国際調査隊が組織されていて、死海文書が見つかった洞穴と、その町をくまなく発掘する班と、発掘されたものを解析する班に分かれて作業を進めている。 ぼくは、ニューヨークで通っていた教会の推薦で国際調査隊に入れられて、分析班に回された。 イスラエルに行くと、死海文書のレプリカを900巻展示した博物館があるんだ。 展示物は死海文書と、入れられていた瓶だけ。 きみにも見せてやりたいけど、治安上、イスラエルに旅行するには危険すぎるし、国でも一般旅行者は渡航禁止令が出ていると思ったけどね。 ぼkのすべきことは瓶に刻まれた暗号文の解読。 ところが、現地の調査班が新しい出土品を発掘してはころころ仮説を変える。 その度に振り出しに戻る、ってやつさ。 誰が書いたのか。 そしてどこで書かれたのか」
 発見された町じゃないの?
 それが普通だと思うけど
 最初の1巻を発見したのは、確かベドウィンだよね
 羊の散歩中に、つい綱を放してしまって、羊は洞穴に飛び込んだ
 そこは真っ暗で何も見えないから、手当たり次第に石を投げて、羊に当たれば鳴き声で判断できると考えたけど、何かが割れる音がして、そっちへ言ったら、瓶だった
 それを洞穴から出てよく見てみると中に文書が入っていた
 「そう、そのとおり。 それで他の洞穴も探してみると、全部で900巻になった。 旧約聖書であることはわかったけど、なぜ洞穴の中に隠されていたのかわからない。 でも、たまたま新聞のネタになって、考古学者でもある神父を隊長とする第一次調査隊が組織された。 彼らは砂漠に埋まった小さな町を発掘し、死海文書はこの街で書かれたものだろうという仮説を立てた。 今では否定する考古学者が圧倒的に多い。 あんな小さな町で900もの文書を書けるわけがない。 ではどこで書かれたのか。 書いたのは誰か。 そのどちらかがわかれば、もう一方もわかる。 でも現在のところどっちもわからない。 あっ、朝礼の時間だ、行こう」


 昼食が終わっても、また、彼は死海文書に取りつかれていた。
 「ユダヤ教団は、知ってると思うけど、仏教と同じように数百の宗派に分裂していた。 同じユダヤ教でありながら微妙に解釈が違う。 1952年、第一次国際調査隊を率いた、考古学者で神父であったルノーは、調査結果から、ユダヤ教団の中のベネッセ派であると答えを出した。 ところが、その後の調査隊によって新しい数々の発見がなされ、ルノー説は今や否定されている」
 ベネッセ派はユダヤ教団の中でも最大であるとされる宗派のはずでしょ
 彼らなら、いいえ、彼らにしか900巻におよぶ写本を書くことは不可能だと思うけど
 「そうなんだ。 最大の宗派であるがゆえに、ローマ帝国の侵攻に関して敏感になり、洞穴に写本を隠した。 瓶には彼らにしか解読不能な暗号文を刻んで」
 わたしの院内PHSの呼び出し音が鳴った。
 「患者さんに何か?」
 わたしは恐る恐る出た。
 「ああ、志村か。旦那を引っ張ってスタッフステーションに来てくれ。 昼食が終わってからでいいから」
 昼食は終わってます
 今すぐ行きます
 患者さんに何か?
 「いや、旦那のことだ。 患者さんは相変わらず病院食の大盛りや特盛りを作れってうるさいだけで元気がいいよ」
 わたしは電話を切った。
 「患者さんの容態が」
 病院食の大盛りや特盛りを作ってせんたくできるようにしろって、まだうるさいみたいであとは元気が有り余ってるみたい
 「病院食の特盛りか・・・・・・受け入れがたいね、それは。 おもしろいけど」
 わたしとサコちゃんに用があるからスタッフステーションに来てくれって
 「まさか病院食の特盛りについて真剣に議論するつもりじゃないだろうね」
 かもしれない
 とにかく行こう

 スタッフステーションに行くなり、わたしたちは告知室に押し込められた。
 ほかの医師は呼び出されていないようだから、2人のことについての話だと思った。
 「先ほど、ハンチョウの行った脳外科からFAXされてきたんだ。 ハンチョウの貧血について、血液検査をもう一歩踏み込んで行ったところ、原因がわかった」
 原因がわかれば治療法も見つかったも同然ですね
 アネさんは答えなかった。
 「今は癌でも患者さん本人に対しても告知が義務付けられているから、話さないわけにはいかないと思う。ハンチョウの貧血の原因は、信じたくないが再生不良性貧血だ。 検査結果がすべてを語っている」
 再生不良性貧血。
 怪我などで出血した場合、謙譲な人なら、出血した分だけ、体内で血液を作ることができるが、出血しても、体内で造血する機能を持たない難病だ。
 治療法は見つかっていない。
 夢であってほしい。 検査結果がほかの患者さんと間違って届いたと思いたい。
 「やっぱり、そうでしたか。 自分の病気が手に取るようにわかる。 医者の悲しい性(さが)ですよ」
 再生不良性貧血だって治療は
 「ないんだよ、今はまだ。 民間療法では鉄分を豊富に摂取することが行われているらしいが、一番効果のある生レバーが禁食の今、代用するものはない」
 ほうれん草は?
 「鉄分や造血作用と同じだけの発癌性物質が確認されているから、安易には手を出せないんだよ。 あるとすればフマロンの錠剤を飲み続ける、それも期待はできない。 余命についても結果は出てるでしょう」
 「6ヶ月だ」
 アネさんは言った。
 「自分で行っていて、余命宣告ほどいい加減なものはないと分かってますからね。 ぼくが3ヶ月と宣告しても、違う医師は1年と言う。 また、違う医師は5ヶ月と言う。 自分で治療しますよ。 まずは増血剤から」
 「ハンチョウ、もしかして気づいていたのか、再生不良性貧血だと」
 「ええ。 ある時期までは一度に大量の鼻血を出して、2時間近く止まらなかったんですが、アメリカに移り住んでから鼻血が全く出なくなった。 それでも慢性副鼻腔炎とアレルギー性鼻炎という、日本の耳鼻科と同じ診察結果が出る。 それで鼻血が出ないのがおかしいので、もしかしたら、と」
 「そうか・・・・・・運命を受け入れるのか?」
 「拒否しても運命は逃げ出しませんよ。 貧血によるめまいで倒れるときは、今度から反射的に頭をかばえるように気をつけます。 それと、申し訳ありませんが、薬剤師に、増血剤を購入してもらいます。 もちろん代金は支払いますよ。 レセプトで上げてもらいますから。 増血剤はフマロンだけじゃありませんから、病状を考えて選ばせてもらいます」
 「余命宣告のあいまい性か。 確かにそれは言える。 宣告ではもうあの世に行ってる患者さんが、病院食の特盛りを作れと先頭に立って騒ぎ立ててる。 それだけで、余命がいかにいい加減なものかがわかる。 そういう方向で行くか」
 「大丈夫ですよ。 余命宣告がいかにいい加減なものかをぼくが実証しましょう」
 「前向きだな。 よくそれだけ前向きになれるよ。 感心する」
 「ところで、病院食の特盛りはどうなんでしょう?」
 人が心配してるのに、なんでそんなバカを言えるの?
 「あれはなー。 結論から言ってしまうと無理なんだよ。 この病棟だけ特別ってことになるしな。 ほかの病棟にクロノテラピーを普及させたとしても、管理栄養士が細かく計算して量を決めてることだからな。 患者さんの気持ちはわかる。 私が彼らの立場だったら同じことを言っていただろう。 でもなー、できることとできないことがある、それが病院だ」
 「じゃあ、化学療法の度に、患者さんに付き添って、ラーメンだ焼肉だという生活ですね。 ラーメンはありがたいですけど、担当患者さんが焼肉なんて言い出したら怖いな。 牛肉嫌いだから」
 「その牛だよ。 増血剤の役割が大きいんだ。 それとラム。 半生、いわゆるレアで食べると増血成分が死なないから最高だ。 なんとか牛を食べられるようにしろ。 それとラム」
 「ラムは好きだっちゃ」
 「ラムが違うだろ。 それはアニメの『うる星やつら』のラム。 私の言いたいのは羊の子どものラム肉。ジンギスカンにするの」
 「ええ。マトンよりは好きです。柔らかいですし、すぐ焼きあがる。 前ダレにじっくりと漬け込んだラムはいい。 精肉店によっては、赤ワインを入れて揉み込んでからタレにつけるらしいですが、それをしないところも知ってますから、そこで買って。 でも、部屋の匂いが」
 「屋上でやればいい。 土日の昼間。 あとは患者さんが焼肉を食べたいといえば、うまく丸め込んでTSUTAYAの斜め向かいのジンギスカン専門店に連れ込むんだな。 まったく、もう、ラーメンだの焼肉だの手のかかる患者さんばかりでまいった。 クロノテラピーの欠点を挙げるとしたら、これだな」
 「クロノテラピーは今が初めてじゃないんですよ。 ウチの彼女がもう7年以上前にやってます、ウチの母親に対して」
 えっ・・・・・・あっ
 もしかして、点滴棒が足りなくて、午後1時30分開始予定が、午後3時に伸びて、それでも確保できなくて、結局、投与開始時刻は午後5時近くなったことがあったような気がする
 「それがクロノテラピー。 あのとき、母は、いつもの抗癌剤投与後は、夕食に手もつけられなかった。 食欲減退が起こって、食べたら吐き戻すかもしれないってね。 ぼくはそれを狙って夕食をすまそうとしていた。 あの回は、針が抜かれると同時に病院食にがっついた。 ぼくはドンキまでいってお惣菜を買って夕食だよ。 本1冊買えたのに。 もったいないことをした。 あの時は付き添い食を頼んでおけばよかったと思ったよ。 お惣菜は付き添い食の何回分が1土に消える。 だけど、あの回だけで、あとは通常の時間に戻ってくれたから、病院食はぼくが食べられたけど」
 そうかー、あれがクロノテラピーなんだ
 「こっちは知ってたから、病院食にありつけない覚悟はしてたけど、最悪の予想が当たってしまった」
 「知ってたんだったら、教えろよ。 クロノテラピーって、患者さんに優しい抗癌剤の投与法があるって」
 アネさん。
 「教えたらぼくが医学に関わる人間だとバレますよね。 するとアネさんはどう動きます?」
 「無理やり、この病棟の医師に引っ張る。 学生でも青田刈りはするな。 事務長はおそらく金を積むだろうな。 とにかくあの頃は医師不足で、病棟として続けられないようなギリギリの状態で、血眼で医師を探してた。 学生なら待っていればいつかはこの病棟のものになるから、とにかく先を見て続ければいい。 志村との話が素人じゃないんだよ、考えてみれば。 なんであの時、医学生かどうか、あるいは研修医かどうか確かめなかったか後悔したよ。 登山男は、あの時になんで抱き込まなかったのかとギャーギャーわめくし。 でも、失敗は取り返したわけだから。 さあ、明日は戦争だぞ」
 「どこと戦争をするんですか?」
 彼は訊いた。
 朝の繰り返しになってしまう。
 「何を言ってるんだよ。 患者さんの一時退院届けがあふれて大騒ぎになるだろうが」
 「きょう、水曜日ですよ」
 「嘘言うなって、きょうは木曜日だよ。確かめてみる。絶対に木曜だ」
 アネさんは告知室から出て行った。
 再生不良性貧血って
 「大丈夫。ぼくは死にましぇーん、きみのことが好きだから。 治療法がないのなら、ぼくが作ればいい。 歴史に名前が残るな。 その上死海文書の謎を解いたら、ノーベル賞ものだ。 気にしないの。 ぼくはウルトラマンだから、そんな怪獣や宇宙人には負けないから」
 「テレビでは水曜だと言ってるし、新聞も水曜のものが最も新しいみたいだ」
 「ですよね。水曜じゃないとみんな困るはずですよ。 金曜の午後の演芸会の出し物の練習がありますから。ウチもやっと夫婦漫才の台本ができただけで練習はしてないし」
 結局、ほかの医師や看護師の大半がなぜか、木曜だと思い込んで、練習に余念がなかったようだ。
 彼は、
 「この病棟はアンバランス・ゾーンの中に引きずり込まれたのかもしれない」
 なんて言って笑っていた。
 再生不良性貧血という難病の診断を下されながら、ケラケラ笑っている。
 わたしは表面的には明るく繕いながらも、再生不良性貧血という病気が頭を離れなかった。
 
 夕食後に映画のDVDを観ていた。 
 石原良純さんの第1回主演作品『凶弾』。
 彼によると実話の映画化らしい。
 ノックがしてアネさんが顔を出した。
 「練習じゃなかったのか?」
 これが終わったら
 「なんだよ。定期客船に猟銃を構えた男。 警察の狙撃班。 これはぷりんす丸事件の」
 「映画化です。 犯人の側から描いたルポが原作で」
 「別名を瀬戸内シージャック事件。 日本で初の犯人射殺事件だ。 事件解決後、マスコミはほかの解決方法があったはずだと、警察を叩き、スナイパーの名前を挙げて個人攻撃して、スナイパーは辞職し、警察は彼を殺人罪で立件して罪をすべて背負わせた。 懐かしい時代だ。 警察の命令を受けたことを実行しただけの人間が殺人罪を問われた。 今じゃ、堂々と特殊部隊なんかを作って、犯人を平然と射殺するのにな」
 「観たらお貸ししますよ。 マスコミが明らかにしなかった、事件までの経緯を丁寧に描いてますから」
 「頼んだよー。 1970年か、奇しくも「よど号事件」と同じ年だ。 あの頃は私も若かった・・・・・・。 ああ、あの、増血剤、フマロンより強力なのが見つかったから、そっちを発注してもらうことにしたから。 明日、午後には遅くとも届くから。 じゃあ」
 瀬戸内シージャックね。
 警察の狙撃手が犯人を射殺して、マスコミ対策で警察が命令して狙撃させた警官を殺人罪に問うた
 やり方が汚いよ
 「当時、射殺という手段で事件に幕を引くのは、刑事部長と本部長だけで、1人の諸葛の刑事がその計画を知ってしまった。 本部長は慌てて彼を事件捜査から外し、以後、窓際族として定年まで過ごさせたんだ。 射殺以外に取りうる作戦は、水上警察による、巡視艇からの高圧放水。 しかし、日本警察をFBI並みの組織にしたかった警察庁長官以下上層部は、安易に射殺の道を選んだ。 狙撃班の実践訓練もしたかったと思われる。 このあとに警察庁長官になったのが後藤田正晴さんという、ぼくのバックだった人物だ。 長官は射殺やむなしの、「河合楽器あさま山荘事件」でも、犯人を全員生け捕りにしろという命令を出した。 結果、機動隊員に2名の死者を出したけど、とにかく、どんな事件でも犯人は生け捕りにしろの一点張りでね。 現場にしてみたらやりにくかったみたいだよ。 亀井静香さんみたいな大ボケが必ず事件に首を突っ込んで引っ掻き回すし。警察から消えてくれてよかったよ。 政治は引っ掻き回してなんぼだからね。 さて、DVDも終わったところで、演芸会の練習を始めますか」
 再生不良性貧血なんて、ある意味、癌なんかより恐ろしい病名を告知されながら、いつものように振舞っている。
 わたしも母や、めまいが起こる原因は脳に十分な酸素と血液が行かなくなることだから、肩書きだけ脳神経外科位の変なおじさんに相談してみるか。
 変なおじさんのまともな答えは期待してないけどね。 ないよりはましだから。