きょうは、夏祭りの千人踊りや、大花火大会があるため、病棟の患者さんたちは、午後3時~4時過ぎまでに全員一時退院に出てしまった。
 この花火大会が常識を超えている。
 街の歩行者天国のど真ん中で打ち上げるのだ。
 両脇に抱えて、火花を散らして、花火屋が走る。
 この歩行者天国は、道路にすると、一車線。
 毎年、観客の衣類や持ち物に火が燃え移って、火傷でERに担ぎこまれる人数が増えている。
 他のどの街でもできないことをやろう。それで行き着いたのがこの花火大会なのだ。
 でも、わたしもツレも観に行かない。
 ものすごい人数が出てくるから、行けない。
 過呼吸が必ず起きるからね。
 だいたい、一発数十万円もするものを何百発も、それも一瞬で消えるものにつぎ込むなんて、まともじゃないような気もする。
 一戸建てが建つだけの金額が、わずかな時間に消えてしまうなんてもったいない。
 
 担当患者さんをすべて一時退院に送り出してから、検査室から、CTとレントゲンがあがってきた。
 一昨日、化学療法を行った患者さんのものだ。
 血液検査の結果は、午前中に出ていたので、白血球数の減少が見られなかったので、それを基に一時退院届に印鑑を押した。
 CTとレントゲンで見ると、化学療法の成果はゼロだ。
 「それ、何クール目?」
 お手洗いから、スタッフステーションに戻ってきたツレは、CTとレントゲンの貼られたライトボックスを覗いた。
 化学療法は、大抵「5クール(5セット、5回)」を基本単位として行われる。
 その間は、同じ抗癌剤を使用するというのが、暗黙の了解になっている。
 「1クール目で成果があったから、2クール目も同じ、プラチナ製剤+イリノテカンで行ったんだね」
 成果はゼロ、ちょっと、なんでプラチナ製剤+イリノテカンだってわかるのよ
 「電子カルテのプリントアウトも貼ってあるから」
 1クール目も成果はゼロ
 2クール目も成果はゼロ
 「じゃあ、なんでプラチナ製剤+イリノテカンにこだわるわけ? 他の選択肢は無数にあると思うんだけどな」
 5クールは抗癌剤を変えない
 そういう暗黙の了解があるから
 「なるほど。でも、それだと化学療法は永遠に続いていくことになる。副作用で患者さんは死ぬまで苦しむことになる。そういうのをアリバイ的治療。もっと正直に言えば、ただ医師の都合で黙々と予定をこなすだけの治療って言うんだよ。そう思わない?」
 癌治療ってそういうものだから
 「そうか・・・・・・ぼくは、1クールで成果があがらなければ、患者さんに正直に話して、薬剤を変更してみるかどうか、選ばせてるんだ。治療を施す側が何でも勝手に決めていいものだろうか。最終的な判断は治療を受ける側の患者さんに権利を与えるべきだと思うんだけど」
 「それで、認可外の抗癌剤まで全種類、薬剤師に発注をかけてもらって揃えたのか」
 アネさん。
 わたしのやり方と、ハンチョウのやり方のどちらが正しいと思いますか?
 アネさんのご意見を伺わせてください
 「うーん。志村には悪いが、成果のない抗癌剤を長期連用して、悪戯に患者さんの体力を奪うより、ハンチョウのやり方の方が賢いと思うな」
 「難しいんですよね。成果がないのがわかっていても、同じ抗癌剤の組み合わせで5クール行います、って、患者さんに説明したから、変え難いと言うのもあるし、暗黙の了解として、日本の癌治療には、クールの途中で抗癌剤を変えちゃいけないという縛りもあるし。変えられるものなら変えてみたいと思うことが多くて・・・・・・」
 8月1日付けで正式に、病棟の医師となった舟木医師は言う。
 「私は正直、クールの途中でも、成果がなければ変えてみたいなと、いつも考えていて、頭の中に次はこの組み合わせでやってみたいということまで浮かんでいて・・・・・・でも、暗黙の了解を破る勇気がなくて」
 同じく正式雇用になった櫻井医師。
 「ぼくは、この病棟に、すべての抗癌剤が揃っているってことも知らなかった」
 ガンバ。
 「そうそう。それならそうと一言言ってくれれば、使うことを検討してみたい抗癌剤もあるんだけどなー。プラチナ製剤とタキサン、イリノテカンしかないと思ってた」
 チャラ。
 「とにかく、ハンチョウ以外の医師は全員、暗黙の了解、あるいは癌治療マニュアルから外れることが恐ろしいってことか。悲しいねー、私も含めて。病室の環境は完全に改善された。後に残ったのはなんだ、うん、わかるやつはいないのか?」
 「治療の質です」
 ハンチョウが答えた。
 「その通り。暗黙の了解も、マニュアルも月曜日までに捨ててもいいと思う奴はすべてを捨てろ!。これまで通りで行く奴はそれでいい」
 アネさんは言い切った。
 捨てていいものなら、捨ててみるよ。それでダメなら戻ればいいだけじゃない。

 「ハンチョウはイレッサを多く使用してるな。お母さんで懲りてるはずなのに、どうしてなんだ?」
 アネさんはハンチョウに訊いた。
 「母で充分なデータが取れたので、体力のある患者さんにのみ、使ってます。イレッサって報道で大騒ぎしてますけど、悪い部分しか見てないじゃないですか。他の抗癌剤と比べてみてどうですか?。 副作用がほとんどないでしょう。間質性肺炎はあります。他の抗癌剤でも間質性肺炎は絶対に起こりませんか?。 起こる場合もありますよね。 その他に必ず、嘔吐と下痢は必ず起きるじゃないですか。イレッサに間質性肺炎以外の、服用後直ちに起こる副作用がありますか?。イレッサより5ヵ月後に、アムルビシンという点滴型の非小細胞肺癌にも小細胞肺癌にも使える新薬が出ました。認可薬ですが、必ず、嘔吐と下痢は出ます。人によっては吐血したりすることもあるし、骨髄抑制が強く出る可能性があるので、ぼくの選択肢からは、まだ外しています。体力が充分ならばイレッサ、体力が弱ければ、従来の抗癌剤を、1回ごとに組み合わせを変えて使用してます」
 「確かに言われてみればそうだな」
 「その点、イレッサはEGFR-TK阻害剤、上皮成長因子受容体チロシンキナーゼとも言いますが、EGFRは細胞の表面にありますよね。こいつを邪魔してやれば癌細胞の増殖も邪魔されるでしょう。EGFRは特に癌細胞表面に多いので正常細胞への影響がほとんどないんです」
 「わかるけど、ちょっと不可解だね、それは」
 チャラは続けた。
 「肺癌のほとんどが非小細胞肺癌というグループで、肺扁平上皮肺癌、肺腺癌、肺大細胞癌などがある。イレッサはすべてに対して成果があがってるのかってこと」
 「イレッサはすべてに対して、ある程度のせいかはあるんだ。中でも、肺腺癌に対してはパーフェクトに近い。 イレッサが他の抗癌剤と決定的に違う点は、骨髄抑制が絶対に起こらないというところだ。他の抗癌剤にはつきものだからね、骨髄抑制は。白血球がまだ下がるかってくらい下がるけど、有効な治療はない。ただ、自然に戻ってくるのを待つだけだ。もし、白血球が下がっている時に風邪でも引いたら、それで命取りになる。 ただ、イレッサにも、他の抗癌剤と同じく薬剤耐性がある。長期連用すると成果が上がらなくなってしまう。いずれにせよ、万能で副作用の全くない抗癌剤はないってことさ」
 議論はそれから30分続き、1度に点滴で落とす量の決め方にも問題がある、なんてところまで進んだ。
 抗癌剤の1回分の量は、体表面積(㎡)=(体重kg)0.425×(身長cm)0.725×0.007184、という計算式で割り出される。
 「でも、抗癌剤の」
 ハンチョウは話し出す。
 「適量というのは患者さんによって十倍以上の開きがあるんだ。ハーバードで実験をした結果なんだけど、答えは、体表面積の差による薬の適量の差なんてほとんどなかったよ。 例えば、お酒という薬物は、人により適量が大きく違うよね。コップに半分のビールでも、酔っ払って倒れこむ人もいれば、ウォッカを5本開けても、ほとんど酔わない人もある」
 「わたしたちトリオだって言いたいんだろ」
 アネさんは言った。
 その通りです。自覚があるのはすごいね。
 「抗癌剤の適量っていうのも、お酒と同じで、計算式で割り出されるのは、大勢の患者さんの中の”基準値”ってことか。なるほど、確かに、成果が上がらなかった患者さんに、次のクールでは増量をしたら、成果が上がるかもしれない。試してみる価値はあるよね、みなさん」
 ガンバ。
 彼は充分な納得のいく、新しい価値観に対して柔軟な姿勢を見せる。
 それが、長所なんだよね。
 議論をいつまでも記事にしても仕方ないので、次に行くよ。

 きょうは、何の日でしょうか?

 正解は、ツレのバースディーです。
 気の利いたレストランで盛大に、とはせずに、病棟の私室で二人でひっそりと祝う。 つもりだったのに、妹の翔子が乱入してきた。
 ドンキのオードブルと生寿司40貫入りの折2つ。そしてドリンクはノンカフェインのサイダーとスポーツドリンク。
 わたしからのプレゼントは、カシオG-ショックのニュー・モデル。イオンモールのG-ショックとBaby-G専門店で買っておいたものだ。
 マニアだからね、ツレは。
 川嶋あいさんの大ファンで、川嶋さんモデルのBaby-Gを、男ながらに持っている。
 とにかくコレクター。
 翔子がどういうわけか、サックスのストラップを贈った。
 「これは、新開発なんだ。マーチング・バンドの大太鼓用のストラップを、サックス用にしたものなんだ。サックスは、通常、首から吊るすタイプのストラップが大半で、2種類だけ、ヤマハとヤナギサワというサックス専門メーカーから、、サスペンダーみたいに肩から背中とお腹に回してサックスを吊るものもあるんだけど、吹いているうちに、ジャストポジションに調整したのに、素材が表面光沢で、留め金が滑って、だんだん長くなって、マウスピースが下がっていってしまう欠点があった。 でもこれは、肩に文字通り、硬い素材を曲線にしたものをかける方式だから、首にかけたら、喉を圧迫して、音質が悪くなったり、首や肩が凝って、指がしびれてくるのを防止することもできる、最高のストラップなんだよ。買おうかな、と思っていた矢先に、ありがとう」
 仕方ないから御寿司もオードブルもドリンクもケーキも、妹にも一緒に食べて、バースディーは終了した。
 ツレがわたしのバースディーを盛大にやってくれたみたいに、サプライズも何もないけど、とにかく祭りで盛り上がる街には出られない。
 花火で大火傷なんてことも、今までに何度かあった花火大会だし、そんなところにのこのこ出かけるより、クーラーと扇風機の効いた私室でゆっくりと、世間話をしながら過ごすバースディーで我慢してもらって。
 夏休みもあるしね、9月中旬~下旬だけど。

 きょうは、くやしいけど妹に一本取られたね。

 アネさんからは現金のプレゼント。
 ロト6とミニロトが二週続けて大当たりしたから、指導料だって。

 でも、そんなことに、臨床心理学を使ってもいいんでしょうか?。