ねえ、明日の教会のことなんだけど、ひざカックンが寄付をするときに起きたらまずいよね
 わたしは遠まわしに彼に訊いた。
 明日は1年中で最も呪わしい「父の日」だ。
 例えば、普通の家族だとすれば、お父さんに何かしらのプレゼントをして敬う日だろう。
 でも、志村家では違う。
 変なおじさんは存在することは確かだが、父親ではない。断じてない。
 教会に行けば、必ず食事に誘われる。
 特別な日であれば、断るのはむずかしい。
 わたしの中にも良心は欠片だけど残ってるからね。
 「きのうから見るとひざカックンは半分以下に減っている。ふたりで一緒に寄付を置きに行こう。同時にひざカックンが襲ってくる可能性はほぼゼロだから。それに、よろける人は必ずいるじゃない。座った姿勢から級に立ち上がると、人間はみんな大なり小なりよろけるんだよ」
 お年を召した方々ならいいけど、一応、若い部門に入るわけでね
 「つまり、教会での礼拝が済んだ後のことだよね」
 イタッ、そこが一番痛いから、気をつけて
 「ごめん。でも、この辺りまで痛みが降りてるということは、月曜にはまともに歩けるようになるよ。ひざカックンは消える。話を戻そう。きみは過去三十数年に渡って、”父の日”を経験しているけど、ぼくは四十四年間生きてきて、一度も”父の日”を経験したことがない。少なくとも、これから年に1度は経験させて欲しいけど、無理かな。白くまくんセヴンプレミアム10個でどう」
 なるほど、彼は3歳で父親と別れているから、”父の日”を知らないのか。
 それはそれで悲劇だよね。
 わたしの中のほんの数時間を彼にあげたと思って(変なおじさんにあげるのは腹が立つけど)、許そうか。
 白くまくん5個でいいよ
 来年以降のことは、なんとか逃げ口上を探せばいい。
 ものわかりのいいところも見せておかないとね。
 「ありがとう。感謝するよ。もうプレゼントも用意してあるんだ。きのうg.uでね」
 確かに、きのう、患者さんの一時退院許可処理を済ませたためと、彼の先輩に対するお祝いのために外食をした。
 ラーメン屋さんに行く前に、彼は自分のT-シャツを買うためにg.uに行った。
 もう、思いっきりエヴァンゲリヲン。
 5枚買って、すべてがエヴァンゲリヲン。
 NERVマークがどかんとプリントされたものから、「あんたっ、バカッ!」のロゴとか。
 とにかくエヴァンゲリヲン。
 なんていうと、あれだね。彼だけが買ったみたいだけど、わたしも同じのを買ってしまったんだな。
 それに加えて、初めてデニムじゃない、柔らか素材のマイクロミニも色違いやデザイン違いで5本(着?)買ってしまいました。
 今年の夏は、彼以外の人の前でも足を出してみようと。チャレンジだよ。
 人間一生チャレンジだよ。
 彼にすっかり感化された。
 だって、普通四輪から深海潜水艇の操縦士ライセンスまで持ってるんだから。
 「しんかい6500」という、世界で最も深く潜ることのできる潜水艇を、日本は持っている。
 文部科学省の独立行政法人であるJAMSTEC(海洋研究機構)が持ち主なんだけど、1度操縦してみたい。沖縄付近に広がる海底遺跡の調査に使いたいんだけど、そんな目的じゃ貸してくれないから、日本海溝にズレが生じていて、もしかすると日本全土を巨大な津波が襲い、大地震が起きる可能性を見つけたから調査をしたい、と東大地震研究所の教授と連名で論文を提出してみたけど、答えはノー。
 映画『日本沈没』(1973年)では、実際に東大の地震研究所がシュミレーション・データを提供しているんだけど、それを添付してあるにもかかわらずノー。
 日本列島は年々隆起していて、沈没の危険性はゼロ。
 でも、北日本大震災のような想定外な巨大津波が起こるということは、列島の隆起することよりも、何らかの異変が深海底で起こっていることは重大だと言うんだけど、一切取り合ってくれない。
 それがお役所。で、未曾有(みぞうゆうじゃないよ)のことが起きてから、防災対策を始める。
 起きてからじゃ遅いんじゃないかと思うんですけどね。莫大な死者と、残された者たちの生活が奪われるんだから。だいたい防災って事前にするから防災であって、起きた後にしても何の意味もないんだから、防災とは言わない。何でも「想定外」と言えば済むってものじゃない!。
 でも、きょう、まさに「想定外」な出来事がスタッフステーションで起こった。


 自然的ひざカックンの回数が徐々に減り始めて、少しずつ歩いたり、イスに座ったりできるようになったわたしと彼は、スタッフステーションの話の輪に加わりたくて、ステーションに顔を出した。
 若い二組のカップルは出かけていて、ステーションにいたのはアネさんとレンタル医師2名、警視庁を退職してこの病院の臨床心理士募集に応募して、この病棟に配属された景子さん。そして今朝から日勤についたナベちゃんと瀬木くんという男性看護師。病室が空の場合は、深夜勤務シフトといって、看護師は2名。明日の準夜から4名になる。
 話は米のこと。
 ナベちゃんがこぼしてた。
 「お米が値上がりして、一番安いスーパーで10kg3980円ですよ。それも、他の商品を3000円以上買った人だけで、お米だけだと4380円になるんです。それも先着50名様限りで」
 「確かに新聞のチラシを見ると異常だとしか思えないな。今は新米の時期じゃない。新米の出回る10月下旬なら、10%程度は値上がりするけど、こんなには高くならないよ」
 アネさんは頷いた。
 「私は、病院食を食べ損ねたら、寮ではお米は食べないんですよね。菓子パンを買い置きしておいて、それで済ませるんです。高くても買うと、なお値上がりしそうな気がして」
 舟木というレンタル医師は言った。
 「今の若い子はわからないな。菓子パンでお腹が膨れるか?」
 「食べ過ぎて太るよりはいいですよ。ダイエットって大変だから」
 わたし、ラーメンの時は、必ずチャーシューメン大盛りだけど、太らないよ、全然
 「それは志村先生の体質ですよ。食べなくても太る体質と、吐くほど食べても太らない体質があるじゃないですか。私は食べなくても太るから。男ッ気はないですよ、私。でも女に生まれたからには、やっぱりモデル体型に憧れるし」
 まあ・・・・・・そうかな
 わたしは、モデル体型とかはどうでもいい。ただ、彼に好きでいて欲しいだけ。
 瀬木くんみたいな男の子でも、病院食を食べ損ねたら、菓子パン?
 「ぼくも、相方も、ほとんどお菓子ですよ。ポテチとかチョコ。たまにローソンのロールケーキを買ったり、あの100円の。あとはコーラとか炭酸系を飲むと結構お腹は一杯になります」
 「あのな、医師も看護師も体力勝負だぞ。菓子パンやポテトチップじゃ、気合が入らないだろう。いつ不眠不休の勤務になるかわからないんだから、もっとしっかり食べろ。いいか、太りたくて、とにかく食べてみたり、いろんな方法を試してるにもかかわらず、胃を癌で全摘出したために太ることができない奴もいるんだ。五体満足なんだから、しっかり身体を作れ。医師にモデル体型は必要ない」
 彼は肩をすくめた。
 「桜井もそうか?」
 もう1人のレンタル医師も頷いた。
 彼女はほとんどしゃべらない。
 ひとつの文として話すことはなく、単語をぽつりと話すだけ。
 薬剤師には薬の名称と量、看護師にも同じように、
 「リンゲル、点滴、1リットル」
 みたいな感じで。
 東北地方の人は、彼女のように口が重たい、と彼はよく言う。
 それは冬は豪雪と吹雪で、しゃべると口の中に雪が積もるからだ、と。
 説得力ゼロ。
 根拠がない。
 北海道だって豪雪だし、吹雪は珍しくない。
 たまたま、性格的に口が重たいだけなのだろう。
 東北の人全部なんていったら失礼だよ。
 「どうして国産米が高いのか。答えは中国からの輸入米が、民主政権になってから右肩上がりに増えてるんです。そのために、農家にはJAを通じて、国内の農家の収入を減らすことがないように扶助してるんですよ。現在、国会では農家の最低収入保障が取り上げられていますが、実はもう実行されてるんです。それなら自主流通米は安くなるはずですが、結局、千円のお金を手にすると、それだけじゃ満足ができなくて二千円欲しくなる。つまり自主流通米にも千円付加してるんですよ。本来ならJA経由の正規流通米と自主流通米には差がなければならない。それが農家の直売所で買っても、スーパーで買っても同じ価格なんです。輸入米の価格は国産米から比べると安いんですが、業務用米としてのみの流通で、一般人が買うことはできない。簡単に言うと、国産米が高い原因は、民主党のバラマキ政策です。あの党は票のためなら何でもします。それと中国に対するODAが最も金額が多いんですよ。43億円。経済成長率第2位ですよ、中国は、アメリカについで。第3位の日本がなんで上に向かってODAを出すんですか。逆でしょ。中国からODAをもらわなきゃいけないでしょ」
 「といって、自民に政権をまかせても、谷垣さんじゃ線が細いし、一度いい思いをすると票は民主に流れる。結局、国のことなんか考えている奴は日本国民1億人の中に1人もいないってことか。ふざけやがって、大和魂はどこへ行ったんだ、くそっ」
 アネさんの中の全共闘の血が煮えてきた。
 「おもしろいことに、民主政権になってから、生活保護を受給するための条件の緩和と受給資格の審査基準が緩和されたんですよ。調べてみたら、政府から通達があったというんです。以前は民生委員を同伴しても通らなかった。まあ、民生委員はほとんどがお役所の定年退職者で、莫大な退職金と恩給をもらいながら、お役所から月に、北海道の基準で15万円の月給をもらってるから、いざ、お役所に行くと強く出ることができない。その他の方法としては共産党の議員さん、市議会でもいいですが、に同伴してもらう。彼らはお役所をいいだけ攻撃しますから、中には屈服する福祉事務所もあります。それでも、ぼくのときは、母のいとこの旦那が弁護士でありながら、共産党の道支部長でしたから、亡くなって40年経っても、同僚が新人に話を伝えて、守られていたので、当然、共産党の道議さんと町議さんが保護の申請にも同行してくれましたよ。それでも5回はねつけられて、6回目に、共産党関係者が5人同行して、口で一方的に攻撃して、福祉事務所を屈服させました。10回申請しても無視される人が多かったんです。小泉政権ですから、弱者は徹底的に切り捨てるやり方でしたから。申請が通っても審査が厳しいんですよ。まず、戸籍謄本を取得して、親族全てを洗い出して福祉事務所がそれら一軒一軒に連絡を取って、援助をするよう指導するんです。とにかく何度もしつこく援助を強要するんですよ。そして援助するという確約を取り付けて、誓約書を取るんです。そして公証人役場で最終的な書類を作成してもらい、保管してもらう。そこで福祉事務所の仕事は終わりで、公証人が、きちんと援助をしているかを監視する」
 「戸籍謄本は法定代理人しか取得できないだろう、委任状を持った」
 「お役所はフリーパスです。だから、オウムの逃亡犯が偽名で17年も逃げて、普通の生活を送って、銀行口座を持てたのも、おそらくお役所関係に信者がいて、偽造身分証明書類や保険証などを作成して渡していたんだと思います。当たり前ですが、銀行口座は身分証明書2点、住民票と保険証とか運転免許証とパスポートや保険証などがなければ開設できませんから。
 お役所に勤めていれば、全国民の個人情報を盗み取るのは簡単なことです。そのほんの一部が、失敗してUSBメモリを落としたり紛失したりして大騒ぎになりますが、9割は成功して、お小遣い稼ぎに闇金に売ったり、ネットで不特定多数に売ってます。一部は中国人スパイ専門に商売をしている連中もいます」
 アネさんと話しているのに、彼の目は桜井医師を見ている。
 民主党の国会議員さんでも、仲介人を立てて、中国のスパイを日本で活動させて、中国政府から多大な援助を得ている人もいます。ぼくは民主党サポーターとして、年会費を払って潜入して、仲介人が誰かもつかみました。もちろん、副業の警察官としてですが。おもしろいことに、日本人である彼も、中国へ極秘情報を流していた。先日、大使館の一等書記官が実は、中国人民解放軍の参謀本部二課という諜報部の人間だったと大騒ぎしましたけど、中国人スパイは彼だけじゃなく、日本に潜入し活動している人数は、今や北朝鮮を抜いてます。ですが、数万人規模だとしか言えない。数を把握できないほどなんですよ。例えば、留学生であったり、中華料理店であったり、農業研修生、フィリピン人介護福祉士にまぎれていたり。現にこの街でも数十名が活動している。日本人と摩り替わって、あるいは実在する日本人の個人情報を使って活動している者もいます。スパイというと軍事機密と思われがちですが、自動車や家電などの工業製品から、新薬や医療技術まで多種多様の情報を盗んでいるんです。中には厚生労働省直轄の大病院に医師として潜り込んで新薬の情報や医療技術を流している者もいます。もっとも、今はスパイだと気づかなかったために、他の病院にレンタルされて、癌の最新情報を仲介人経由で本国に送っている。先日、性感染症の件で厚生病院に行った時に裏を取ってきました」
 えっ!。まさか。でも桜井医師は違うよ。患者さんのためにひたむきになれる立派な医師だ。
 患者さんの間での人気はものすごく高いんだから。
 佐橋看護師みたいに話好きだと、他の患者さんに余計なことをつい、バラしてしまう危険性があるから、ある程度は口が硬いほうを信頼して何でもしゃべる。
 「仲介人は警視庁公安部の上層部にいます。だから警察は目の前のスパイに手を出せないか、と言えば、出せる人間もいるんです。桜井、いや、本名は李蘭礼、中国人民解放軍参謀本部二課所属の諜報部員。遊びの時間は終わりだ!」
 そこへ、休日のはずの、わたしのチームの新人看護師、黒木がのこのこと入ってきた。
 「あの、これからちょっと安積と室井さんと3人で出かけてくるので、何かあったら携帯を鳴らしてください」
 桜井医師は黒木にゆっくりと近寄り、手を伸ばして黒木の腕をしっかりとつかんだ。
 ポケットから取り出したメスを、抱き寄せた黒木の首筋に当てる。
 ばか!もう終わりだよー。
 「誰も動かないで。人質の生命優先」
 彼は大声で言った。
 臨床心理士の景子さんは頷いた、と同時に、桜井医師の足元に寝転がり、桜井の足を両足ではさみ、よろけさせた。
 スタッフステーションの外から手が伸び、思い切り黒木の両肩を引っ張り、スタッフステーションの外へ引きずり出した。すかさず、手元のメスを蹴り飛ばす。
 「水野くん、雨森くんにその子を渡してワッパ!」
 彼の指示が飛ぶと同時に、桜井の手に手錠がはめられた。
 「須田くん、時間!」
 彼の部下の紅一点、モデル体型の水野さんが叫んだ。
 「えっと、15時18分、確保!」
 あー、あのグルメの、ドランクドラゴンの塚ちゃんに似た。
 「スパイ容疑で連行します」
 水野さんは冷たく言い放つ。
 普段は、ほんとうにごくどこにでもいる普通のOLみたいに明るくて、ファッションとか、スィーツに興味がある女の子なんだけどね。
 こんなにすばやく動く、容赦のない人にはとても見えないけど。
 すぐに二人の若い刑事がやってきて、桜井を引き取る。
 あれっ?桜井を引き取った方が桜井という刑事さんだよ、確か。
 桜井が桜井を引き取った、って笑い話じゃないけど。
 「須田くん、桜井くんと黒木く、あれっ、黒木くんは?」
 「ハンチョウ、妹がご迷惑をおかけしてしまって申し訳ありませんでした」
 黒木くんと呼ばれた刑事さんは丁寧に頭を下げた。
 「大丈夫ですか、お怪我は?」
 即、寝転がった姿勢から立ち上がろうとしていた景子さんに訊いた。
 「大丈夫です。怪我はないけど、デニムがこすれて火傷したみたい。まあ、おかげでオリジナルなデニムになったってとこかな」
 「黒木くん、彼女は元・警視庁の行動分析課のプロファイラーで、今は退職してこの病棟で臨床心理士をしているんだ。警察官の基本はできてるよ」
 「そうなんですか。なんで警視庁を退職して」
 「上司とうまくいかないし、月給はこっちの方がはるかにいいからね」
 「ところで黒木くん、妹って」
 「すみませんでした、ハンチョウ。今まで黙っていて。こいつ、俺の妹なんです」
 賀集利樹さんに似た刑事さんは、ニコニコ笑いながら頭をかいた。
 「よかったね。お兄さんに似なくて」
 彼は笑った。
 「あれっ、ハンチョウ、どういうことなんですか、それ。方面本部一のイケメンですよ、俺は」
 「妹さんはしっかり者で黒木くんみたいにチャラくないよ」
 「誰がチャラいんですか、失礼ですよ」
 「速水から聴いてるよ。奴の主催する合コンの常連で最高のチャラ男くんだって」
 「係長、そんなことまでしゃべるかな、ったく。やってらんないっすよ」
 「なるほど、兄貴はそんなことをやってるわけか。私に対しては厳しいくせに、よく言えたもんだね。今度、実家には洗いざらい打ち明けておきます」
 「おまえなー」
 うん、今のところ臨床心理士のお世話にならなくてもいいか。
 でも、PTSDが出たら痛いね。わたしのチームの新人離れした新人だから。
 安積看護師に立ち向かえるのは彼女だけ。
 明るすぎるのがちょっと、ね。
 「佐橋2号機」だから。
 「ハンチョウ、連絡を無線でとっていたっていう機材は?押収ですよね」
 「ああ、多分、だけど。アネさん、病棟の、彼女の私室のマスターキーをお借りできますか」
 アネさんは呆然としていた。
 「アネさん!」
 「はっ、えっ、あーマスターキーな。これの中のどれかだ」
 アネさんはキーの束を彼に渡した。
 無理だよ。
 彼には開けられない。
 以前、金庫を開けるのが特技だとか言って、結局、「無理でした」だったでしょ。
 「須田くん、お願い」
 彼はキーの束を須田刑事に渡して、後に続いた。
 わたしたちは、事の行方をステーションの入り口で見守った。
 彼の代理である雨森警部補は、手錠をはめた桜井医師を部屋へと連行する。
 レンタル医師の部屋は、万が一の救急搬送に備えて空き部屋にしてある個室病室を二室あてがってある。もちろん、臨床心理士と同じく、寮にも私室はあるんだけどね。
 でも、医師の場合は寮に戻ることはない。
 須田刑事さんは部屋の鍵穴に片目をつけて、しばらくぶつぶつと何かをつぶやいてから、キーの束からひとつ選び出し、鍵穴に入れたら、難なく鍵は開いた。
 「お手伝いします、元・警察官として。女性の部屋のガサは女性警官にしかできない規則になってますよね。水野さん一人で大変でしょうし、無線機材のある場所をプロファイルで特定できますから」
 景子さんは飛び出していった。
 雨森さんは白い手袋を渡した。
 部屋に飛び込んでまもなく、景子さんの声が聴こえた。
 「無線ってこれじゃないですか。窓枠のパラボラに線がつながってますけど」
 「これね。ありがとう。でも、プロファイルってこんなことまでできるんだ。今度、私も合コンに出るから、同席して、男性をプロファイルしてくれない?」
 水野さんまで・・・・・・。
 「写真押さえた?素手ではその窓枠取り付け器具は外せない。例外として入るよ。後で本部長には許可を取るから」
 彼の声。
 「ハンチョウ、そんなものを持ってるんですか?それって、空き巣の道具じゃないですか」
 あー、出したの、あれ。
 ワインのコルク抜きからナイフ、ミニのこぎり、はさみ、ドライバーなど10個のツールが折りたたまれてひとつのグリップに収まっている。中から使うものを起こしてやるもの。
 彼はスキューバの時に携帯すると便利だと言っていた。
 普段も持ち歩いていたとはね。
 使い方によっては空き巣もできると思うけど。
 使う人の良心だと思うよ。
 部屋の入り口から突っ張り棒みたいなバーにパラボラが取り付けられたものが顔を出した。
 パラボラといっても、BSアンテナみたいなものではなくて、特撮映画なんかではレーダーアンテナ、『ウルトラセヴン』の地球防衛軍基地レーダーアンテナみたいな網状のもの。
 須田刑事さんが丁寧に受け取って、運び出す。
 「申し訳ないんですが、部屋の布団やTVなども押収させていただきます。近々必ずお返しいたしますので」
 雨森さんはアネさんのところまで来て、丁寧に言った。
 「志村、台車を貸してやれ。エレベーターじゃないと降ろせないだろうからな」
 わたしは部屋の外へ台車をつけた。
 景子さんはヘッドフォンをつけ、小型のアンテナみたいなものを振りかざしていた。
 「あった。火災報知機型とは手の込んだものだね。ハンチョウ、盗聴器です。取り外してください。ったく、さすがは中国のスパイね。これだもん、検挙できないはずだ」
 「いや、それはぼくが取り付けたの。物証を取るために」
 彼は言った。
 「ハンチョウ、こんな趣味があるんですか。ひょっとして看護師寮の全ての部屋にも取り付けてないですよね」
 「仕事だからやっただけだよ。そんな趣味はない」
 水野さんは布団をひとつの台車に載せた。
 TV用にもう一台持ってきますね
 「あっ、いえ、結構です。須田くんに運ばせますから。健康診断でメタボを指摘されて10kgダイエットしなきゃならないので」
 メタボか・・・・・・。
 彼が言ってたっけ。
 「1度でいいからメタボの危険性があるって言われてみたい」
 彼には永遠につかない病名だからね。メタボリック・シンドローム。
 須田さんがTVを運び出して、部屋の捜索は終わった。
 「午後4時に本物の桜井医師が着任することになってるから、悪いけど、TVやレコーダーと布団の準備をお願いできるかな」
 冷蔵庫の中身をダンボールに詰めた彼が、ステーションのナベちゃんに声をかける。
 ナベちゃんは頷いて、瀬木くんを使って準備に取り掛かった。
 
 「心配しなくてもいい。中国に送れば公開処刑だろう。日本の法で裁いて、日本の刑罰を受けてもらうから。減刑されるような書類にする。刑を終える頃までには、正式な日本人としての帰化を認めるようにもする。だから、せっかく身につけた医師としての技術を忘れないで、日本人医師として日本のために働くんだな。日本の地域医療はどこも医師不足で死にかけている。いくらでも雇ってくれるところはあるさ。この病棟がよければここでもいい。気持ちを切り替えろよ」
 口にマスクをかけられた桜井医師に、彼は言った。
 後で聴いた話だけど、舌を噛み切って自殺するのを防止するため、口の中には分厚いタオルを詰めてあったという。
 「きみも一党支配国家の犠牲者の一人として扱わせてもらう」
 続けて、中国語のような言葉をかけたが、わたしには理解できなかった。
 英語とドイツ語が少しできる程度だから、仕方ないよ。
 だいたい、十四ヶ国語もしゃべるほうがまともじゃないんだから。
 
 しばらくして、水野さんは台車を戻しにきた。
 「ありがとうございました。あれっ、よくみたら、きょうのハンチョウの奥様、いつもと違って、マイクロミニなんですね。うわっ、似合ってる」
 恥ずかしいですよね、いい年齢なのに
 おまけにg.uだし
 「そんなことはないですよ。そうだ、セール中できょう明日限定もあるんだ。閉店までにあがれるかな。わたしも思い切って足を出してみたい」
 「早上がりできるよ。こっちで取り調べはできないから。札幌本店の特捜二課が引き取りに来る。公安に引き渡さないように本部長が手配してくれてるから。それから、彼女の今後についても。彼女はしばらく活動を続けて、プラセボを仲介人に握らせてやる。そうすれば、一切連絡を絶って日本に溶け込むように指令が出るから、彼女の身柄は安心だ。FBIで何件も同じ症例を扱ってきたからうまくやるよ」
 「プラセボに症例ですか。ハンチョウ、立派な医師ですね。で、プラセボって?」
 偽薬
 患者さんが原因不明の痛みなどを訴えて、検査したりしても異常が見当たらなかった場合に心因的なものとして、ビタミン剤を痛み止めだといって服用させると、痛みが消えるんです
 だから、
 「ぼくの言ったプラセボとは偽情報のこと。彼女の声をパソコンに録音して、声紋分析もしてあるから、仲介人に対しても、彼女の声で答えることができるんだ。それで偽情報を流してやる」
 「相変わらず用意周到ですね。じゃあ、札幌本店に引き渡したら、上がらせてもらいます」
 「S線(スパイのことを警察や公安用語ではS線と言うんだって)排除完了です。ご苦労様でした」
 彼は言った。
 「水野さん、でしたっけ。あの、雨森さんって、特捜二課四班のサブリーダーで、自分の班を持たなければいけない立場だけど、本人が断ってるんじゃないですか」
 景子さんは言った。
 「ハンチョウから聴いた?」
 「いえ。やっぱりそうか。あの人に質問してみてください。生まれ変わるとしたら何になりたいかって。答えはハンチョウになりたいって言いますよ、絶対。あの人の、ハンチョウを見る目でわかりました」
 「プロファイルでそこまで読んだの。早速訊いてみます」
 水野さんは敬礼をすると、階段を走り降りた。
 入れ替わりに、きょろきょろ見渡しながら、一人の女性が階段を上がってきた。
 えっ、なんで?。
 長澤まさみさんだよね。
 平成『モスラ』の小美人の片方。
 明石家さんまさんの意中の。
 『ハナミズキ』じゃなくて『涙そうそう』だっけ。
 「あー桜井くん、こっちこっち」
 彼は呼んだ。
 本物の桜井医師だって・・・・・・うそ。
 長澤まさみさんだよ。
 何だったら、『モスラ』を呼んでもらおうか?。