きょうの午後、突然の電話で、彼は変なおじさんに呼び出されてしまった。
 病院に、手に負えない患者さんが来たという。
 厚生労働省から潤沢な予算をもらいながらも、対応できない患者さんがいるとはね。
 予算をどこへ使っているんだ、まったく。
 どうせ、裏金か宴会だよ。
 そんなやつは相手にしなくていい。
 40万円近いハンディカムを買いながら、撮影対象物である自分の娘さえ映せずに、沿道の見物客にフォーカスしてしまう大ボケ。
 彼に聴いたら、今年は沿道がとても寂しかった、今までこんなに人手の少ないことはなかった、多分、よさこいソーランに奪われたんだろう、って言っていた。
 寂しい沿道なら、娘にフォーカスするくらいできるだろう。
 だいたいPTAは早くから買って、何度も試し撮影をしてから本番に臨んでるのに、前日の勤務帰りにヤマダ電機で買ってきたって、若い女の子の衝動買いじゃないんだから。
 いい加減にして欲しいよ。
 ほんとに恥だ、おまえは。志村家の。

 彼のいない病棟って、なんとなく暗い、というか元気が足りない。
 幸い、”車椅子の看護師”と名乗るおやじキラーがなんとか繋いではいたけれど。
 総合診療科医に頼るしかない。
 だったら、自分の病院でスカウトするなり、育成するなりすればいい。
 頻繁に襲ってくるひざカックンと闘いながら、一人の穴を埋めるのは大変なんだよ。
 すり足で歩いてもひざカックンは容赦なく襲ってくるんだから。

 彼が病棟での何かのキーになってることは確実なんだ。
 きのうだって、スタッフは笑いをこらえるのに必死だったんだから。

 
 火曜日にわたしがPET検査を請け負った患者さんのCT、レントゲン、MRTなどの検査結果が揃い、患者さんをスタッフ・ステーション内の、通称第一告知室に家族とともに呼んで、検査の結果と、文字通り余命宣告を行う場面。
 通常は、入り口側に医師が座り、患者さんと家族は奥へ入れるんだけど、彼は自分が奥へと入って、入り口に患者さんと家族を座らせる。
 彼の、確立されたスタイルなんだけど、スタッフ・ステーションからは彼は見えなくて、声だけが聴こえる。
 これが最高におもしろかった。
 今までこんな余命宣告は聴いたことがなかったからね。
 彼は真面目に、腫瘍のある部位、大きさについて、恐らくCTとレントゲンをライトボックスに貼り出して、わかりやすく噛み砕いて説明したんだと思う。
 彼はCTよりレントゲンでの説明を重んじる。
 CTは人体を横に輪切りにした写真で、つまりラーメンで言うチャーシューみたいな感じで撮影されるために、素人には正直言ってわかりずらいんだよね。
 レントゲンは人体がそのまま写るから、誰が見ても腫瘍がどこにあるか、どれが腫瘍かはわかる。
 それで、最後に悪性腫瘍による末期肺癌であることを告げた(ステージ、例えば、ⅣーⅡ期だとかについては患者さんの個人情報なので書けない)。
 問題はその後だよ。
 彼、なんて言ったと思う。
 普通ならここで、あなたの余命はあと何ヶ月です、って言うんだけど、掟破りに出た。
 「余命宣告なんですけど、告知した方がいいですか?」
 違うんだって。告知が義務付けられてるの、今は、患者さんが同席した上で告知をしなければいけないの。
 ものすごく残酷なことだけど、厚生労働省の規則でそうなってるの。
 だから、失神したりする患者さんや家族が出ることがあって、看護師はそのときのための準備をしてるの。
 告知したほうがいいとかしないほうがいいとか、そういう問題じゃなくて。
 その時、スタッフ・ステーションにいた全スタッフがイスから滑り落ちそうになった。
 「オペで腫瘍を全部摘出することもできるんですよ。そうなったら、余命は関係ないので、オペをお望みなら、告知はしなくてもいいですから、患者さんと御家族を追い詰めるようなことはぼくとしてもできるだけ避けたいですからね。でもオペの日程は、何月何日とは言えないんです。先にオペを待っている方がいらっしゃいますから、順番待ちをしてもらいます。その間の治療については患者さんと御家族に選択肢があります。通常だと、点滴による抗癌剤投与と放射線照射ですけど、新しいプランとしては粒子線照射療法というのを行うことができます。ただ、粒子線照射だと、治療費が高くなるんですよ。ですが、この街には高額医療給付金制度というものがありまして、無利子で、すべての治療を終えて、腫瘍がなくなった次月から、毎月支払える金額を患者さんと御家族に提示してもらって、市の方へ返納してもらう形になります。毎月5000円でも1万円でも、3000円でも、払える金額によって支払い回数を設定しますから最低限いくら支払わなければいけない、という義務はないんです。まあ、10円とかだと難しいと思いますけど、5000円でOKが出た方もいらっしゃいます。ただ、給付を受けるための審査として、患者さんの財産状況を市が調査する必要があるんです。例えば、外車を並べてる、とか、貴金属類やブランド品などをお持ちの場合、それらをまず換金してもらって、足りない分を給付するという形になります。支払いを怠った場合は、市からの督促がありますが、怖いやくざ屋さんが取り立てに来ることはないですから。消費者金融とは違いますので。それと、患者さん御本人か御家族の方が高額な生命保険などに御加入されている場合は、解約して掛け金を戻してもらわないとなりません。掛け捨ての場合は必要はありませんけど。とにかく、そのようなことをクリアされれば、100%給付は可能だと思います。必要書類として、住民票と医師の診断書があります。ですから審査を受けるために住民票が350円1通、診断書が3000円の消費税5%で3150円はかかってしまいますが、診断書は事務部と掛け合えば、あるいは無料でお出しできる場合もありますし、そうできるようにぼくも努力します。で、この後の給付金制度についての申し込みや相談は1Fにいるソーシャルワーカーの仕事ですから、病棟に呼んで話してみてください」
 アネさんはデスクに突っ伏した。
 「野郎、私が事務を脅して無料で診断書を発行したのを知ってやがる・・・・・・」
 言ってはいけないことをしゃべってしまいました。あーあ。
 「病室だと周りの目がありますから、ソーシャルワーカーとの打ち合わせは、面会棟の奥の個人面談室で行うことになってます。スタッフ・ステーションに、ソーシャルワーカーを呼んで欲しいと声をかけてくれれば、病棟へ来てくれますので、お気軽に」
 わたしたち医師みんなが彼のやり方を学ばなければならないんだよね。
 まず、入り口に医師が陣取って患者さんと家族を奥へ入れると、患者さんは逃げ場を失ってしまう恐怖に襲われる。

 わたしは自分で、患者さんの立場を経験している。
 子宮頸癌が卵巣に転移して、アネさんの担当患者になってるからね。
 その時は恐ろしかった。医師の威圧感に怯えて、わたしは助からない患者なんだと思った。
 「子宮と卵巣を摘出すれば、他への転移は認められないから、志村は助かる。だけど、ハンチョウJrは産むことができなくなる。どうする、志村の死と引き換えにJrが欲しいか、それとも志村を助けてJrをあきらめるか。ハンチョウの選択だぞ」
 家族として立ち会っていた彼はニコニコしながら言った。
 「Jrはジャニーズだけでたくさんです。ぼくは子供が嫌いです。子供は幼稚で礼儀知らずで気分屋で、前向きな姿勢とないものねだり。心変わりと出来心で生きている。甘やかすとつけあがり、ほったらかすと悪乗りする。オジンだ入れ歯だ、かつらだとはっきり口に出して人をはやし立てる無神経さ。
 努力のそぶりもない、忍耐の欠片もない、人生の深みも渋みも何にも持っていない。定職もないくせにぶらぶらしやがって。そのくせ下から見上げるようなあの態度。火事の時は足手まとい、離婚の時は悩みの種、いつも一家の問題児。そんなお荷物みたいな、そんな宅急便みたいな(注:宅急便はヤマト運輸の登録商標であり、勝手に使ってはいけない単語です)そんな子供たちが嫌いです。ぼくは思うのです。
大人だけの世の中ならどんなによいことでしょう。ぼくは子供に生まれないでよかったと胸をなでおろしています」
 「だから、あれだ、要するに子供は嫌いだから欲しくはない。それより、大人である志村を取るってことだろ、演説の趣旨は。な」
 「ひらたくいえば」
 「ひらたくていいから。でもハンチョウの言うのもわかるよ。私も子供は嫌いだから、同じことを思ってる。わかった、じゃあ摘出するぞ」
 彼の大ボケ演説がなかったら、わたしは失神していたか、摘出を断っていたかもしれない。他の臓器も摘出されそうで恐ろしかった。

 「そういうわけです。オペを行わない場合は当然余命宣告は必要ですよね。もしお聴きになりたければお話します。一応お聴きになりたいですか。じゃあ、具体的にお話しますね。今は6月ですよね。もう、13日ですけど。で、きょうを基点とした場合、来年のお正月におせちやお雑煮を食べて、配達された年賀状を読むことができるかどうか。紅白歌合戦は何とか観られるかなっていうところです。とはいっても余命ゼロを越えている方は結構いますから、一応、桜が観られるかどうかが限度でしょう。北海道で、ということですから、ゴールデンウィーク明けですね。お正月からそのくらいの時間差はあると思います。ただし化学療法と放射線照射ではなく、粒子線照射を行った場合ですけど。抗癌剤と放射線照射は正直に言って、効果は期待できません。効果より副作用が強く出てしまう方もいます。粒子線照射は腫瘍を小さくする効果があります。ですから、小さくしてから、患者さんの体力に負担をかけずにオペで摘出するという方法が最良だと思います。
 それから、粒子線照射の場合、もし御家族のどなたかが24時間、患者さんと一緒にいることができるのならば、通院治療も可能です。粒子線治療によって患者さんの体力が奪われることはありません。御住所からすると電気軌道バスの94番で街まで出て、道北バスでも電気軌道でもここへは5分おきにバスがありますから、運賃負担を考えれば、入院とどっちが得かということですが、多分、通院が得ではないかと思うんですけどね。入院の場合だと、TVや洗濯は有料ですし、いつも変わり映えのしない病院食ですから。肺癌は食事制限は一切ありませんから、食べたいものを食べて結構ですよ。メタボリックなど、他の病気になるようなことさえしなければ、ですけど。ぼくは患者さん第一をお勧めします。病院の硬くて冷たいベッドで過ごされると、床ずれなどで苦しむことになりますし、今年は節電が義務付けられていますから、クーラーではなく、網戸で病室の窓を開放することになってますから、性悪の虫に刺されることも覚悟してもらわないとなりません。一番言いたいことは、実は空きベッド待ちが今現在で、約40名ほどいますので、その後に入院してもらうことになると、治療が難しくなります。通院でよければ、来週からでも治療は始められます。とりあえずきょうのところは一度御自宅に戻られて、御家族で御相談してください。癌にとって一番大切なのは、サポートしてくれる方がどれだけいるかということですから、医師と看護師はもちろん、御家族が重要なんです。御質問は?」
 さすが。アンチョコなしでよくしゃべったね。伊達にハーバードは出ていない。
 まあ、途中で大ボケはやらかしたけど。
 「あのう、末期と言われましたよね?」
 女性の声。多分、奥さんだろう。
 「はい。言いました。末期は末期ですから正直に。患者さんと御家族には知る権利がありますから」
 「聴いた話ですけど、末期癌の場合、手術はしてはいけないことになってるとか」
 「そんなことはありませんよ。確かに厚生労働省のそういう通達は出てます。でも、その本当の意味は医療費の圧縮にあるんです。患者さんのことを考えてのことではなく、国の経済事情ですから。この病棟では、末期でもオペを行うという方針ですから。オペを行ったからと言っても患者さんにとって不利益なことを厚生労働省が言ってきたりするようなことはありません。病棟にはありますが、それは患者さんには一切関係はありません」
 「じゃあ、助かるんですね」
 「はい。ただし、これだけは忘れないでください。腫瘍を摘出してから5年間は気を抜かないこと。その間は転移や再発の可能性があるということです。それだけは、どうすることもできませんから、術後、5年間は2週間に1度、検査と診察に通ってもらわなくてはなりませんので。外来ではなく、この病棟へ直接。その間も担当医であるぼくが責任を持って最善をつくします」
 
 帰り際の患者さんと御家族の顔が別人みたいに明るくて、びっくりした。
 でもいつまでたっても彼が第一告知室から出てこない。
 そのうち、声が聴こえた。
 「すみませんが、誰か助けてくださーい。ひざカックンで腕もカックンで、イスから落ちて立てません。なんとかして」
 
 やがて匍匐前進でスタッフ・ステーションに戻ってきた彼。
 アネさんは言った。
 「末期のオペは病棟の方針じゃない、ハンチョウの個人的方針だからな」
 「そうでしたっけ」
 「おまえがオペをどんどんやるから、みんな感化されるんだよ。それだけだ。それとな、来週一週間は整形と泌尿器で集中的にオペがあって、こっちには空きがないって。新館への引越しを楽に済まそうという魂胆らしい。残念だな」
 「いえ、ひざと腕のカックンがなくなるまで、オペは無理です。メスを握った瞬間にカックンがきたら、どこに傷をつけるかわからないし。とにかく今はカックンを治すことに全力を。医師として恥ずかしいことですけど」
 「まあ、医師も人間だよ。カックンは大いに結構。先輩とPTA代表が丁寧にここまで御礼に来てくれたんだ。私としては痛み入った。だから、来年も「特別枠」に選抜されたら、カックン覚悟で先輩を手伝って欲しい。ペリトールは1人何本でも無料で支給するから。そのうちに慣れてなんともなくなるだろう」
 「高校のときから30年近く、毎年出てきましたけど、いまだにカックンです」
 「気にするな。私は先輩のためなら火の中でも飛び込む。その場合の犠牲はやむをえない。いつかは治るんだろう」
 「今週一週間がヤマだと思います」
 「死ぬ間際みたいなことを言ってないでなんとかデスクにまで這いずっていって立ち上がれ」
 そんなきのうの彼とはまったく違う彼が、きょうの電話を受けている。

 症状を聴きながら、メモに病名か何か理解できない言葉をたくさん書き込んで、ひとつずつ傍線で消していく。
 そして、血液検査と右腹側部エコーと腹側部CTをしておいて欲しいと頼んでから、ドクターズ・キットを持って出て行った。
 「すいません。階段を降りられないので、エレベーターを借ります」
 と、言葉を残して。

 夕方になってエレベーターで戻ってきた。
 「どうだった。確定診断はできたか?」
 アネさんは訊いた。
 「はい。ここを出て行くときに疑った病名が当たってしまって」
 「相当大きな病気か?」
 「ええ。最悪の性感染症です。まさか日本で症例を見ることになるとは思いませんでした。アメリカで爆発的に流行してるんです。フィッツ・ヒュー・カーティス・シンドロームという女性特有の性感染症です。女性の生殖器から入ったクラミジアが骨盤内腔炎症から肝臓周囲部までをボロボロにするんです。特に横隔膜に入ると死に至る危険性があります。症状として典型的なのは呼吸時、特に息を吸った時に右側の脇腹に鋭い痛みが走る。マーフィー症候と言われますが。アメリカでは13歳の症例も診ました。性感染症ですから、性的接触がなければ起こるはずがない、つまり性行為の低年齢化、避妊知識のなさ、あったとしてもピルは使うとデブになるという間違った知識や、コンドームを使うと快感が得られないと言って、避妊しない性行為が流行してますから。日本でも人気タレントの婚前妊娠を”できちゃった婚”なんていういいことのような言い方をするから、避妊しないのが当然になってますよね。最初はハイティーンからロートゥエンティー、15~6歳から24~5歳特有のものだと言われていたんですが、驚くほどのスピードで低年齢化してしまって、アメリカでも国が頭を抱えてます。きょうの症例も14歳ですからね。なんとかしないと、このままでは日本でもパンデミック(爆発的流行)が起こると思います。治療法は、マクロライド系ステロイドの効果が認められていますが、マクロライド系ステロイドは免疫力の低下が著しいので、他の感染症、例えば風邪程度のものでもかなり重篤な状態を引き起こす可能性もありますし。性的接触は婚姻後に行うように、国として取り組んでもらわないと。最近は出会い系だとか合コンだとか、すぐに性的関係になってしまう危険な誘惑が多いですからね。身体の関係がないと恋ではないと言い切る女性までいる。まったく理解できませんよ」
 アメリカってキリスト教国でしょ
 戒律違反だよね、婚外男女の性交渉は
 「日曜に礼拝に参加したり、戒律を守ったりするのは、アメリカ全土の約12%未満だと言われてるんだ。形だけのキリスト教国だよ。厳格に戒律を守ると言う点では日本が一番のキリスト教国だと思うよ」
 「プチ家出だの、ネットカフェだの、真夜中の繁華街をうろつく少女は年々増えてると言うし、男にとっちゃ入れ食いだよな、ああいう女の子は。何が悪いんだか。恋のしかたを知らないやつが男も女も多すぎるんだよ。なあ、志村」
 ねえ、アネさん。
 なんで、わたしに振るの。
 まるでわたしがその中の一人だって言う言い方だよ。
 「わたしたちは婚前交渉はありませんし、今だって月に何回か・・・・・・とにかく、わたしと彼は精神的につながってますから、身体の関係なんかどうだっていいんです!
 「まあ、そう怒るなって。若い看護師たちも抱えてるんだし、気をつけないとな、佐橋寮長さんよ」
 「ウチの寮は厳しいですよ。彼氏ができて、付き合い方に問題がある場合、つまり性交渉までいった場合、事務部に報告して首を飛ばしますから。大体、佐橋がしたことがないことをするのが悪い! 看護師としての自覚を持つことを第一にしてますから、佐橋の面子にかけて厳しく取り締まってます」
 学校でもきちんとした教育をしてないんだろうね。受験科目を教えればそれでいい、みたいな風潮で。
 でも、受験科目は進学塾で教えてるわけだし、塾では教えないことを教えるのが本当の学校教育なんだと思うけど。
 親も恥ずかしいものと思わないで真正面から向き合って、教えなきゃ。
 マスコミには”できちゃった婚”なんていう言葉は使わないで欲しい。
 婚前妊娠なんて恥ずべきことだよ。
 正しい恋愛がわかれば、絶対に婚前交渉なんてできなくなる。

 きょう現在、性交渉の低年齢化は、歯止めが聞かない状態になっている。