きょうも来てます。
 自然的ひざカックン。
 メカニズム的には、筋肉に酸素が行かなくなる。つまり、血行不順が原因なんだけど、一発で改善する治療法はない。
 アネさんに言わせると、
 「イスに座ってるだけでも、ひざを曲げた姿勢になるために、血行は悪くなる。血栓があちこちにできて、大きくなると、車椅子生活になる可能性もあるぞ」
 わかってはいても、電子カルテの記入もあるし、スタッフ・ステーション常駐状態ではイスは欠かせない。
 午後に彼から頼まれたPET検査にも、彼は立会ってくれた。でも、ふたりとも自然的ひざカックン患者だよ。
 こんなに手こずったPET検査は初めてだった。患者さんの前で医師が変わりばんこにひざカックンするんだから、患者さんにすれば、この医者で大丈夫か、って印象を持つと思う。
 でも、なりたくてなってるわけじゃないんだよ。
 1秒でも早く開放されたい。
 ひざカックンで倒れて、床に頭を打ち付けたりしたら、打ち所が悪ければ、変なおじさんレベルになる。考えただけでぞっとするよ。
 でも、おかげで、PET検査の結果が良性か悪性かを患者さんに悟られることはなかったけど。
 内視カメラの映像だけで、完璧に悪性。
 患者さんには、明日にならないと臨床検査部から結果があがってこないと言ってある。
 明日、担当医である彼が、結果と余命宣告を行えばいい。
 余命宣告はするけれど、最終的にはオペで腫瘍を摘出することになるだろうから、患者さんを追い詰めるような余命宣告はいらないんだけど、規則だから。
 で、結局、佐橋、案積、2名の看護師は、必要意外、休憩室の小上がりで足を伸ばした壁に背中をもたれてろ、チャラ夫婦とガンバ夫婦、そしてわたしと彼は自室のベッドで足を伸ばしていろ、必要な時は呼ぶから、ってことで自室待機。
 血栓をみくびるな、夫婦でお互いのカテーテル手術になるか、その前に足が壊死するかだからな、って。
 ありがたいんだけど、一発で治る方法を教えて欲しいよ。
 出場したのが間違いだったんだ、と思う。
 でも、来年も出たい。
 たとえひざカックンになっても。
 音楽が好きな人にとっては、最高の舞台だからね。


 ゴール地点に着くまでは、爽快そのものだった。
 アフターコンサートが行われる地点に移動した頃に、かずかに足の裏がしびれている感覚に襲われた。
 でも、衝撃はそれを超えていた。
 「特別枠」の団体は、アフターコンサートの場所も同じところだった。
 アフターコンサート会場とはいっても、歩行者天国に演奏者用のパイプイスを並べただけ。
 前の団体が終わるまで、わたしたちは楽器を持ったまま、観客と対の位置、つまりバンドの後ろで立ったまま待機する。
 「特別枠」は二団体。つまり、わたしたちの前の時間枠は聾学校のコンサート。
 本来なら待ち時間は、マーチングの疲れを癒して、呼吸を整え、頭をコンサート・モードに切り替えるためのものだと力説していた彼が、聾学校の脅威に心を砕かれてしまっていた。
 「とんでもないモンスターを産んでしまった・・・・・・」
 他のメンバーもみな、自信を喪失したような状態になっている。
 健常者のバンドよりもしっかりとしたアンサンブル。
 クラシック・ホールでのコンサートを何度も開催しているわたしたちの団体の核であるオーケストラは、慣れからくる自信で、華やかさを第一に考えた音作りを目指した。アンサンブルよりもソロ。そしてバトンの神業的な動き。空へと放り投げたバトンを側転からバック転の連続で受け取る。しかも、どのバトン団体もできない、背筋をピンと伸ばした側転。
 音楽の基本をすっかり忘れてしまっていた。
 音楽の、バンドやオーケストラの基本はアンサンブルにある。
 聾学校はそれを忠実にこなした。
 厚みのあるハーモニーが、一層の迫力を生む。
 聾学校の持ち時間が終わった。
 アンコールの声が送られる。
 指揮者はあらかじめ、レパートリーが少ないことを告げ、1曲目を演奏した。
 再びアンコール。
 もう一曲演奏。
 6度目のアンコールで、指揮者は丁寧に観客に謝罪した。
 「レパートリーを出し尽くしました。あとの団体の時間に食い込んでしまっていますし、これ以上は演奏できませんので、申し訳ありませんがお許しください」
 素直だけど、ものすごく勇気のいる言葉だ。
 「何で5曲もアンコールするんだよ、初めてのコンサートのくせに」
 彼はつぶやいた。
 早期講和だと力説したのは誰だったのだろう。
 山本五十六にはまだなれないね。
 渡し舟に乗った五十六は船頭に言った。
 「わしもあんたと同じ船乗りじゃ。今からわしは船の中で逆立ちをする。船頭がもし、わしの逆立ちを倒さずに渡しきったら、船賃を10倍払おう」
 船頭は渡しきったが、船賃をもらうことを拒否した。一銭も受け取らなかった。
 五十六の船乗りとしての気骨に、船頭の船乗りとしての気骨を見せた。
 五十六が故郷に墓参りに帰ったときのエピソードだ。
 そのときの彼には音楽をやるものとしての気骨は微塵もなかった。

 入れ替えが始まる。
 「おい、どうだった?やっと、ここまできたよ。おまえのおかげだ。あの補聴器はまさに神様の贈り物だよ」
 彼に寄ってきた、指揮をしていた男性は言った。
 恐らく、教師なのだろう。
 「こいつ、学生時代の吹奏楽仲間なんだ。今は夫婦で聾学校の教師をやってる」
 彼は、そう紹介してくれた。
 「ウチの妻。去年の4月に結婚した。今は夫婦で同じ病棟の医師をやっている」
 「おめでとう。でも確か、結婚は一生しないって言ってたんじゃないのか?それを崩すような女神が現れたってとこか」
 わたしと同じ、ショート・ボブの女性がフルートを手にして寄ってきた。
 「久しぶりね。どうだった、わたしたちの団体は?」
 「おい、彼、去年の4月に結婚したんだって。一生結婚しないって言ってたよな。その決心を崩した女神様がこの女性だ」
 彼の吹奏楽仲間は言った。
 「えーっ、結婚したんだ。やっぱりいいものでしょ結婚生活って。こんな女神様を見つけて、って、もしかして志村?でしょう、医大へ進学した志村だよね。私だよ、佐緒里!」
 えーっ、佐緒里なの!
 ロングヘアーがご自慢の佐緒里だよね
 わたしの高校の同級生。
 髪型は違うけど、面影はなんとなく残っている。
 彼女は確か、教育大学へ進学したはずだ。
 「教師にロングは似合わないし、活動的じゃないからね、考えを変えたの。そっかぁー、あれっ、志村ってピアノオンリーじゃなかった?アルトサックスも吹くんだ」
 彼に教わったんだけど、初心者でね、まだ
 「志村もわたしの吹奏楽仲間だね。これから、よろしく。そうか、彼がグランブルーの代表だもんね。おまけにジャズマンとしても超一流だし。ってことは、これからも会う機会が多いってことか。ジャズマンと志村みたいな医師との接点って」
 「今は奴も医者だ。同じ病棟にいるんだと」
 「職場恋愛か。私たちと同じだね」
 すごいバンドだね
 彼の考案した補聴器のおかげみたいだけど
 「そう。でも、まさかここまでくるとはね。最初はPTAも、校長も教頭も乗り気じゃなくてね。祝う人のない出発だったの。でも今じゃ、校長と教頭は誇りに思ってくれてね、きょうはパーカッションで参加してくれたの。ノリノリのおじさんが二人いるでしょ。PTAは陰で支えてくれて、とても協力的なんだ。いつも、私たちがウチの子を変えてくれたってありがたがってくれるんだけど、彼の補聴器のおかげなんだよ、みんな。そうだ、志村、メルアドと携帯番号交換して」
 わたしは、佐緒里と赤外線で交換した。
 「志村、出番だよ、行かないと。わたしたちはあなたたちを見て、研究させてもらうね。ほら、いきな」
 彼女は背中を押してくれた。
 「暗くなる前に生徒を帰した方がいいと思うよ。最近は物騒だから」
 彼は言った。
 それがせめてもの嫌味だった。

 わたしたちの団体は、聾学校のためにすっかり気力を失っていた。
 彼は指揮者である、リーダーに曲順の入れ替えを命じた。
 最初に気勢をあげるつもりで、レナード・バーンスタイン作曲「ウエストサイド・ストーリー」から、「マンボ」
 曲中に「マンボ!」と叫ばなければならないが、メンバーは声を振り絞って立ち直ろうとした。
 次は、彼の指揮による「交響組曲宇宙戦艦ヤマト」から、「誕生~旅立ち」。
 誕生は自ら志願した若者たちがヤマトに乗り組んでいく姿を描いている。曲の最後にテーマ・ソングのイントロが何度か鳴って、聴く人を裏切り、最後にあの有名なメロディーが1コーラス鳴る。裏切る回数は指揮者が最初に指で示す。コンサートでは5回裏切り、6回目にテーマが鳴る場合もあるが、時間の関係で今回は3回目にテーマを鳴らした。
 「旅立ち」は帝国海軍超ド級戦艦大和の朽ち果てたカモフラージュが剥がれて、ガミラス戦艦を主砲で叩いた宇宙戦艦ヤマトがその全貌を現し、驚く乗組員たちに沖田艦長が言う。
 「そうだ、これがヤマトだ。我々の最後の希望、宇宙戦艦ヤマトだ」と言い放ち、発進を告げる。遊星爆弾ですべてを焼かれた大地から、可変翼を広げて飛び立っていくシーンのモチーフをアレンジしたもの。
 余談だけど、ビートルズのポール・マッカートニーが、ヤマトのこのモチーフをパクったと思われるほどそっくりな曲を、音楽を担当した『007/死ぬのは奴らだ』で使っている。
 これで、わたしたちのバンドはどうにか息を吹き返した。
 それからはアニメ『ちびまる子ちゃん』から「踊るポンポコリン」。
 彼が最も嫌う曲。
 リード・ボーカルが、彼がR&Bの神様だとあがめる2人だからね。
 それに、歌詞に「誰だって知っている キヨスクは駅の中 そんなの常識」
 これが嫌いだという。
 なぜって、もうキヨスク、つまり鉄道弘済会はJRには存在しない組織だから。
 彼にとっては、キヨスクはないことの方が常識なんだ。
 AKBを演奏すれば、税務署が頭の中でニヤついてるというし。
 木村拓哉さんのドラマ『HERO』のタイトル・テーマは、選曲が古い。
 アニメ『名探偵コナン』で機嫌を取り戻し、演奏の前に、彼が一人で曲紹介も兼ねて、コナンくんと蘭の声まねを披露した。
 これが似すぎていて、観客をかえっておとなしくしてしまった。
 アルト・サックスによるソロのメロディーは、自分が吹いたものじゃないからといって、No.1と呼ぶ、いわゆる副リーダーに譲った。
 彼は劇場版のEWIがメロディーを取るヴァージョンを演奏している。
 
 そうだ、なぜ彼は副リーダーをNo.1と呼ぶのか。
 これは、船における形式なんだよ。
 船には副長は存在しない。
 副長ではなくNo.1と呼ばれるんだ。
 船では船長よりも大きな権限を持つから。
 船長が思わしくない指示を与えたり、狂ったような行動に出た場合、船長を解任して自分が船を進めることができる。
 それ以上の権限を与えられているのは船医。
 No.1の解任をでき、船のすべての指揮権を持つことができるのが船医。
 でも、副長があくまでNo.1と呼ばれる。
 船医が全権を握る時は船にとって最も非常時であるから。

 さあ、いよいよラストの曲だ。
 彼が再び指揮を執る「吹奏楽と和太鼓のためのロンド・イン・ブーレスク」
 北海道が生んだ異能の天才作曲家、伊福部昭先生の作曲。彼は個人的に先生に管弦楽法という、クラシックのアレンジの方法論を習っていた時期がある。いわば、弟子の一人。恩師の曲を完璧に理解できているだろう。
 彼はまず、和太鼓担当のところにいき、何やら話してから指揮台に立った。
 9分弱の曲で、和太鼓はほとんど鳴りっぱなしで、和太鼓にとってはしんどい。
 実際に彼は、和太鼓担当に、リハーサル中に腕が壊れることを心配して、グランブルーの所属する病院の外科医である院長にペリトールを処方するように指示をして、父親に対しては、ペリトールを息子の腕に塗りマッサージする役を命じた。
 ブーレスクとは、悪ふざけ、ばかばかしいという意味がある。
 曲の中で、伊福部先生作曲の「ゴジラ」を始めとする東宝特撮SF映画のテーマが顔を出す。
 和太鼓は見事に激しく鳴った。
 曲が終わると、彼は和太鼓担当を観客に紹介し、喝采を促した。
 アンコールの声が止まない。
 アンコールは、T-スクェアの「宝島」。
 サンバっぽいアレンジになっている。
 吹奏楽では定番らしい。
 確かに、「TRUTH」だとテンポが速すぎるし、かなり高度なテクニックが要求される。
 演奏し終えると、指揮をしていたリーダーは言った。
 「申し訳ありません。アンコールはこれしか用意してませんでした。もし、よろしかったら、マーチングで使った2曲を続けて演奏して終わりにしたいのですが。夏のコンサートで、新しい曲をご披露したいと思います。では「ウルトラセヴン」と「スタートレック」を続けて。
 No.1が彼に訴えた。
 「院長が、時間の関係もあるから、アンコールは1曲でいいし、観客はそんなに立ち止まってくれないから、1曲だけ一応用意しておけ。使うことはないはずだって言うから。で、自分が緊張してブスコパン2リッターの点滴を何度も繰り返して」
 「注射嫌いが点滴をしただけでも進歩だよ。夏コンで取り返せ」
 ブスコパン。臭化ブチルスコポラミンの商品名。
 2リッターというと最も大きな量の点滴だ。
 あれを使ってしまうと、もう2度と臭化ブチルスコポラミンは使えない。
 使っても、身体に耐性ができてしまって効き目がなくなる。
 随分と大胆な選択だ。
 マーチングの2曲を演奏して、わたしたちの「北海道音楽大行進」は終わった。
 
 わたしたちの演奏を見ていた、北海道警察旭川方面本部音楽隊の指揮者が、彼の元へやってきた。
 「聾学校というのは耳が聴こえないから通学するところだよな。どうしてあんなアンサンブルやきれいなハーモニーが演奏できるんだ。聴こえないはずなのに」
 「ぼくが遊び半分に思いついた特殊な補聴器を、音響メーカーが創りあげたんですよ。補聴器をつけているうちは、まったく聴こえない子でも健聴者と同じように聴こえるんです。日本の技術力がそれを可能にした。まったくとんでもないライバルを生んでしまいました」
 「ウチにとっても脅威だよ。まずは札幌本店音楽隊よりも彼らを越えるほうが先だ」
 自分が生み出したモンスターに殺される。
 メアリー・シェリーのあまりにも有名な小説「フランケンシュタイン」のような結末だった。
 その後、彼は、ZONEの先輩バンドのライブで一暴れして、聾学校のことを振り切った。

 さあ、ペリトール・マッサージの時間だ。
 わたしはきのうと同じ、マイクロミニのデニムで、彼のマッサージを受ける。
 いつも、白衣のパンツの下につけているものだ。
 当たり前だよ。いくら夫婦とはいえ、ランジェリーを見られるのは恥ずかしい。
 その奥は見せ合っているのにね。

 マッサージに麺棒(そばを打つときに伸ばす棒)を使うのはどうか、彼に言ってみた。
 「確かに均等に、一気にマッサージできるかもね。でも、筋肉を断裂させてしまう可能性があるから、やめたほうがいいよ」
 だよね。
 もし、明日になっても、自然的ひざカックンが続くようなら、一週間は覚悟した方がいいと彼は言う。
 経験上だと言われると恐ろしさが増すね。
 もう、いい加減にして!。
 ひざカックンは。