今夜、また一時退院中の患者さんが病棟に戻ってくる。
日曜の夜に戻ってきて、病棟で1泊して、再び一時退院して戻ってきて木曜までの2泊3日でまた一時退院。
レンタルDVDの新作みたいだね。
わたしと彼は、患者さんの誰もいないスタッフステーションにただ、仕事もなく座っている。これでも勤務中だからね。
チャラとガンバは自室にいて、食事の時にお惣菜を買いに行くだけ。
医師が暇なのはいいことだ、と言う人々もいる。確かにそうだ。
だけど、これだけ暇だと、そういう考えに対して、違う!と言いたい。
誰か、この空白を埋める方法を教えて。
「おい、そこの2人さん、居室に引っ込むか、出かけてこい。私はこれから集中力を限界にまで高める必要がある。そこらでチョロチョロされたら集中できないから、頼むからスタッフステーションから消えてくれ。若いんだから、夏祭りを楽しんでこいよ。週末は札幌まで遠出しろ、チャラとガンバ夫婦と一緒に。きょうからよさこいソーランで日曜日は最高に盛り上がるだろう」
「ぼくは、はっきり言って、子供とよさこいソーランは嫌いです。他の土地の祭りをパクっただけのものでオリジナリティーがない。あんなのは祭りでもなんでもない、ただの狂乱です。それと人ごみが恐ろしくて、過去級を起こすので、精神科医に止められていますから」
わたしも彼と同じで、人ごみの中に入ると、頭が割れるように締め付けられるから、人ごみの中には・・・・・・
「社会性全般不安シンドロームってやつか。じゃあ、居室で待機」
「そうする?」
会社法では、上司の命令に従わない者は懲戒解雇の対象とすることができる
そうすべきかもね
外からごろごろとおかしな音が聴こえる。
「来たな」
彼は窓に走りよった。
「これはくる」
雷が落ちた。
「これだ!」
わたしだけでなく、アネさんまでが窓に駆け寄る。
「もう一度くるよ。UFOが」
また落ちた。
数秒遅れて、光の玉が空を走り回っていた。
「これがUFOの正体。空気中の電気が引き起こす現象だ」
本当にUFOに見える。
むちゃくちゃな飛び方といい、型といい、目撃談のUFOとまったく同じだ。
「なるほどな。空とぶ円盤の正体は雷の置き土産なのか。幽霊の 正体見たり、枯れ小花だな、これが」
「豪雨がきますよ。とは言っても短時間に一気に通り雨となって終わるでしょうけど」
おまえは気象予報士かっ!
アネさんが集中力を限界にまで高める必要があったのは、携帯ゲーム。
「脳を鍛える大人のトレーニング」
脳年齢を測定すると言うやつだ。
アネさんもわたしも80歳台が最高のスコアだったが、病棟にたった1人、実年齢を下回った人間がいる。おまけにそいつは言った。
「計算力が極端に悪いんですよ。ぼくはマイナス思考っていうんですか、あの、引き算しかできないっていう」
それは問題だって。
マイナス思考とは関係ないよ。
マイナス思考って、物事を何でも悪く考えることでしょ。
ネガティブってやつとおなじだ。
まずは正しい日本語を勉強しろ。
「昔から引き算しかできなくてね。ある日お母さんが言ったんですよ」
それが重大なことなんだ。
彼の行く末を心配して、何か言った。
お母さん、人間ができてるからね。
「引き算しかできないんなら、他の計算も勉強しなさい、ってね。あの一言があったからこそぼくは今まで生きてこれたんですよ」
それって、どこの家庭でも必ず言われるよ。
そんなにたいしたことじゃないから。
ウチでは1日に何度も言われてたからね。
「あの言葉、うれしかったなー」
まあ、人によっていろいろあるからね。
とりあえず居室で、今夜のリハーサルに備えよう、ね
リハーサルは一昨日までの楽勝ムードとは違い、全員が殺気立っていた。
聾学校の参加がよほどショックだったのだろう。
聾者が音楽を奏でる、それだけでも沿道の目はそちらに惹きつけられる。
負けることは先輩バンドとしてのプライドが許さない。
このバンドのメンバーは聾者に対する偏見がないから、正面から正々堂々と勝負することを望んでいても、世間はそうじゃない。
例えば、同じ路線バスに盲導犬を伴った盲者が乗ってきただけで、目的地までは行かずに途中下車してしまう連中が必ずしも少なくはない。
躁鬱病=気違い、というのが世間の常識なんだよ、いまだに。
特にお年寄りの偏見はすばらしいよ。
自分の価値観でしか物事を見ないんだから。
聾者のバンドが奇異な目でしか見られないことを、このバンドのメンバーは痛いほどよく知っている。自分が実際に痛みを受けたから、他人の傷の痛さもいいだけわかってる。
それだけに手を抜かずに真正面からぶつかって、音楽と音楽で判断して欲しいというのがメンバーの言い分で、だから、絶対に負けられない。
それを沿道に訴えるような演奏をするんだという。
でも、何かおかしい。
聾者のバンドだというけれど、特殊な補聴器だろうがなんだろうが装着していれば、健聴者とほとんど同じように聴こえてるわけでしょ。
ってことは、聾者ではなくて、このバンドと同じように、健聴者のバンドになるはずだよね。
なるほど、そうか。
このバンドのメンバーは、そこまで考えているんだ。
だから、単に先輩バンドとして恥を欠きたくはない一心でリハーサルも一切手を抜かない。
十代にして悟りを開いてる。
世の中がみんな彼らのような心を持ってくれたら、戦争はなくなるよ。
彼は、人間がいるうちは戦争は絶対に絶えることはない、というけど、それは彼らのような心を持った人々がごくわずかだから、という前提に立ってるんだと思う。
戦争が好きで言ってるんじゃない。絶対にそうだ。
じゃなきゃ、ピュアな音楽を産みだすことはできない。
「またサロンパスが増えたな」
彼はマーチングでは大太鼓、アフター・コンサートでは和太鼓を担当する男の子に声をかけた。
「本番では全部剥がすから、今だけは」
「サロンパスより冷感シップのほうが効くんじゃないかな。おーい、こらそこの外科医、ちょっと」
リハーサル場所の病院の院長を呼んだ。
「なんだよ、外科医って」
「外科医は外科医でしょう。院長先生と呼べば、副院長謙理事長がうるさいから」
「まあな。ところでなんだ、怪我でもしたか」
「いや、彼の腕」
院長は彼の腕をとって見回した。
「みごとなサロンパスだな、おい。まるで刺青だぞ」
「サロンパスより冷感シップのほうが効くんじゃないですかね」
「いや、それもやってはみたんだけど、効き目はあるよ。でも汗をかくからサージカル・テープガ剥がれるし、サポーターで押さえれば汗で滑ってずり落ちるし」
「筋肉痛ならサロンパスなんかでは効かないぞ。だからこんなにべたべた貼ることになる」
「本当はペリトールクリームがあれば」
「そうか。あれなら汗でどうにかなることはないか。よし、処方しよう。帰りに処方箋を渡すから、あのな、厚生病院の隣のドラッグストアは夜11時までやってるぞ。処方箋薬局も兼ねてるから、そこで受け取るか、明日の午前中にでもお気に入りの調剤薬局で受け取ってももいい。ちょっと硬めのクリームみたいな薬だから、塗って、よくマッサージしろ。プロのアスリートが使ってるんだから、効き目は抜群だ。それで効かなければ弛緩薬を注射だな」
「多分、クリームで効くから」
「そんなになるまでがんばらないで、手を抜けよ」
彼の言葉に男の子は言った。
「嫌だよ。ぼくは不登校児だ。不登校児には不登校児の意地がある。沿道やアフターコンサートで聾学校のバンドを見る客は音楽を聴くんじゃなくて、彼らをスカイツリーから見下ろすような目で見るんだ。ぼくらだって初めはそうだったでしょ。喘息持ちや自閉症や、いじめられっこの不登校児に何ができるって目で観られてきたからわかるんだ。彼らにはぼくらよりも冷たいよ、世間は。だから腕が壊れてもいいから、目をこっちに引きつけて、聾学校のバンドは音だけが聴こえる程度にするんだ。ぼくらが餌になって彼らを守る。そのためにパーカッションはいつもよりも派手な音を出すからね。腕が上がらなくなって食事が摂れなくなっても、ぼくはそれでいい」
男の子はきっぱりと言い切った。
自分の身体を張って、聾学校のバンドに対する世間の冷たい目やおもしろおかしな目から彼らを守るんだ。
中学生とは思えないね。
よし、わたしものった。
聾者だから、まともな演奏なんかできない。
世間の常識を一気に崩そうね。
大丈夫だよ。
このバンドのディレクターはベルリンの壁を遊び半分に崩したんだから。
結局、きょうも午後7時30分に退場。
午後8時になると一時退院の患者さんたちが戻ってくるから、それから消灯までの1時間は巡回診察に追われた。
佐橋看護師と安積看護師も一緒に退席して、診察を手伝ってくれた。
彼のチームには宇野看護師がいるから、消灯前には巡回しきれないだろうと思ったけど、安積看護師だよ。
どんどん先回りして血圧測定をしながら、患者さんから現時点での容態を聞き出す。
医師が診察を始める頃にはすべてのデータが揃っているから、診察時間が早い。
きょうは、わたしのチームの負けを認めよう。
でも、いつも安積看護師がいるわけじゃないからね。
すべての診察と電子カルテの記入が終わったら、それで勤務は終わり。
彼のiPhoneのメール着信音が鳴って、すぐに止んだ。
夫の携帯メールを読む妻が、最近は多いらしい。
読んでもいいよね、別に減るもんじゃなし。
まりこ?。
聴いたことがないけど、まりこ・・・・・・。
本文を読んでわかった。
AKBの篠田麻里子さまか。
選挙結果。
前回の4位から1つ落としてしまいました。応援していただきながら、申し訳ありません。
センターは大島ですので、よろしくお願いします。
そうか、大島といえば大島優子さんだろうね。
前田敦子さんがいなくなったら、大島さんが選挙では毎回センターになるって言ってたからね、彼が。
総選挙ってSKEとか、他の地域で劇場に出ている子たちも入るわけだから、200名をはるかに越えるわけでしょう。その中で5位は立派だよ。謝るようなことじゃない。
彼が居室に戻ってきた。
「もう、金曜の夜からの一時退院許可願い届出用紙が出てるよ。2泊3日だ」
だろうね
我が家に勝る場所はない、だっけ?
なるべく帰してあげようよ
それはそうと携帯のメール着信音が鳴ってたよ
「ぼくの?誰だろう。うさんくさいサプリメントを買ってくれってやつだろう、どうせ」
彼はタッチパネルを押した。
「まりこ。あーそうだ、きょうは解散総選挙だったんだ、AKBの」
解散だけ余慶だって。
そっちは政治でしょ。
「去年より1つ下がったか。下がったってことは、前回が4位だから、4に1を足さなきゃならないのか。引き算ならできるんだけど・・・・・・・電卓アプリがあったな」
4+1くらい暗算できるでしょうが。
「おお、5位か。200名超の中の5位は立派だよ。謝ることはない。謝るのなら、所得税を払ってください。レスはこんな感じかな。いや待てよ。ぼくには順位は関係ないよ。麻里子さまがいればそれでいい。これで送信しまーす。東京までだと2日から3日で届くな」
それは郵便のメールでしょ。
携帯は送信ボタンを押せばすぐ届くって。
他の病院に、医師としてではなく、プライヴェートで行って、ペリトールの処方を指示したり、AKBの総選挙の結果に夢中で返信したり、遊び半分の海賊放送で偽情報を流してベルリンの壁を崩壊させたり、よくやるよね。
だけど、自分たちが餌になって、世間の冷たい視線を浴びている子たちを守る、ってがんばっている子もいる。そのためには自分の腕が壊れて、食事が摂れなくなってもいいとまで言うんだから。
人生って本当に不思議なものだよ。
日曜の夜に戻ってきて、病棟で1泊して、再び一時退院して戻ってきて木曜までの2泊3日でまた一時退院。
レンタルDVDの新作みたいだね。
わたしと彼は、患者さんの誰もいないスタッフステーションにただ、仕事もなく座っている。これでも勤務中だからね。
チャラとガンバは自室にいて、食事の時にお惣菜を買いに行くだけ。
医師が暇なのはいいことだ、と言う人々もいる。確かにそうだ。
だけど、これだけ暇だと、そういう考えに対して、違う!と言いたい。
誰か、この空白を埋める方法を教えて。
「おい、そこの2人さん、居室に引っ込むか、出かけてこい。私はこれから集中力を限界にまで高める必要がある。そこらでチョロチョロされたら集中できないから、頼むからスタッフステーションから消えてくれ。若いんだから、夏祭りを楽しんでこいよ。週末は札幌まで遠出しろ、チャラとガンバ夫婦と一緒に。きょうからよさこいソーランで日曜日は最高に盛り上がるだろう」
「ぼくは、はっきり言って、子供とよさこいソーランは嫌いです。他の土地の祭りをパクっただけのものでオリジナリティーがない。あんなのは祭りでもなんでもない、ただの狂乱です。それと人ごみが恐ろしくて、過去級を起こすので、精神科医に止められていますから」
わたしも彼と同じで、人ごみの中に入ると、頭が割れるように締め付けられるから、人ごみの中には・・・・・・
「社会性全般不安シンドロームってやつか。じゃあ、居室で待機」
「そうする?」
会社法では、上司の命令に従わない者は懲戒解雇の対象とすることができる
そうすべきかもね
外からごろごろとおかしな音が聴こえる。
「来たな」
彼は窓に走りよった。
「これはくる」
雷が落ちた。
「これだ!」
わたしだけでなく、アネさんまでが窓に駆け寄る。
「もう一度くるよ。UFOが」
また落ちた。
数秒遅れて、光の玉が空を走り回っていた。
「これがUFOの正体。空気中の電気が引き起こす現象だ」
本当にUFOに見える。
むちゃくちゃな飛び方といい、型といい、目撃談のUFOとまったく同じだ。
「なるほどな。空とぶ円盤の正体は雷の置き土産なのか。幽霊の 正体見たり、枯れ小花だな、これが」
「豪雨がきますよ。とは言っても短時間に一気に通り雨となって終わるでしょうけど」
おまえは気象予報士かっ!
アネさんが集中力を限界にまで高める必要があったのは、携帯ゲーム。
「脳を鍛える大人のトレーニング」
脳年齢を測定すると言うやつだ。
アネさんもわたしも80歳台が最高のスコアだったが、病棟にたった1人、実年齢を下回った人間がいる。おまけにそいつは言った。
「計算力が極端に悪いんですよ。ぼくはマイナス思考っていうんですか、あの、引き算しかできないっていう」
それは問題だって。
マイナス思考とは関係ないよ。
マイナス思考って、物事を何でも悪く考えることでしょ。
ネガティブってやつとおなじだ。
まずは正しい日本語を勉強しろ。
「昔から引き算しかできなくてね。ある日お母さんが言ったんですよ」
それが重大なことなんだ。
彼の行く末を心配して、何か言った。
お母さん、人間ができてるからね。
「引き算しかできないんなら、他の計算も勉強しなさい、ってね。あの一言があったからこそぼくは今まで生きてこれたんですよ」
それって、どこの家庭でも必ず言われるよ。
そんなにたいしたことじゃないから。
ウチでは1日に何度も言われてたからね。
「あの言葉、うれしかったなー」
まあ、人によっていろいろあるからね。
とりあえず居室で、今夜のリハーサルに備えよう、ね
リハーサルは一昨日までの楽勝ムードとは違い、全員が殺気立っていた。
聾学校の参加がよほどショックだったのだろう。
聾者が音楽を奏でる、それだけでも沿道の目はそちらに惹きつけられる。
負けることは先輩バンドとしてのプライドが許さない。
このバンドのメンバーは聾者に対する偏見がないから、正面から正々堂々と勝負することを望んでいても、世間はそうじゃない。
例えば、同じ路線バスに盲導犬を伴った盲者が乗ってきただけで、目的地までは行かずに途中下車してしまう連中が必ずしも少なくはない。
躁鬱病=気違い、というのが世間の常識なんだよ、いまだに。
特にお年寄りの偏見はすばらしいよ。
自分の価値観でしか物事を見ないんだから。
聾者のバンドが奇異な目でしか見られないことを、このバンドのメンバーは痛いほどよく知っている。自分が実際に痛みを受けたから、他人の傷の痛さもいいだけわかってる。
それだけに手を抜かずに真正面からぶつかって、音楽と音楽で判断して欲しいというのがメンバーの言い分で、だから、絶対に負けられない。
それを沿道に訴えるような演奏をするんだという。
でも、何かおかしい。
聾者のバンドだというけれど、特殊な補聴器だろうがなんだろうが装着していれば、健聴者とほとんど同じように聴こえてるわけでしょ。
ってことは、聾者ではなくて、このバンドと同じように、健聴者のバンドになるはずだよね。
なるほど、そうか。
このバンドのメンバーは、そこまで考えているんだ。
だから、単に先輩バンドとして恥を欠きたくはない一心でリハーサルも一切手を抜かない。
十代にして悟りを開いてる。
世の中がみんな彼らのような心を持ってくれたら、戦争はなくなるよ。
彼は、人間がいるうちは戦争は絶対に絶えることはない、というけど、それは彼らのような心を持った人々がごくわずかだから、という前提に立ってるんだと思う。
戦争が好きで言ってるんじゃない。絶対にそうだ。
じゃなきゃ、ピュアな音楽を産みだすことはできない。
「またサロンパスが増えたな」
彼はマーチングでは大太鼓、アフター・コンサートでは和太鼓を担当する男の子に声をかけた。
「本番では全部剥がすから、今だけは」
「サロンパスより冷感シップのほうが効くんじゃないかな。おーい、こらそこの外科医、ちょっと」
リハーサル場所の病院の院長を呼んだ。
「なんだよ、外科医って」
「外科医は外科医でしょう。院長先生と呼べば、副院長謙理事長がうるさいから」
「まあな。ところでなんだ、怪我でもしたか」
「いや、彼の腕」
院長は彼の腕をとって見回した。
「みごとなサロンパスだな、おい。まるで刺青だぞ」
「サロンパスより冷感シップのほうが効くんじゃないですかね」
「いや、それもやってはみたんだけど、効き目はあるよ。でも汗をかくからサージカル・テープガ剥がれるし、サポーターで押さえれば汗で滑ってずり落ちるし」
「筋肉痛ならサロンパスなんかでは効かないぞ。だからこんなにべたべた貼ることになる」
「本当はペリトールクリームがあれば」
「そうか。あれなら汗でどうにかなることはないか。よし、処方しよう。帰りに処方箋を渡すから、あのな、厚生病院の隣のドラッグストアは夜11時までやってるぞ。処方箋薬局も兼ねてるから、そこで受け取るか、明日の午前中にでもお気に入りの調剤薬局で受け取ってももいい。ちょっと硬めのクリームみたいな薬だから、塗って、よくマッサージしろ。プロのアスリートが使ってるんだから、効き目は抜群だ。それで効かなければ弛緩薬を注射だな」
「多分、クリームで効くから」
「そんなになるまでがんばらないで、手を抜けよ」
彼の言葉に男の子は言った。
「嫌だよ。ぼくは不登校児だ。不登校児には不登校児の意地がある。沿道やアフターコンサートで聾学校のバンドを見る客は音楽を聴くんじゃなくて、彼らをスカイツリーから見下ろすような目で見るんだ。ぼくらだって初めはそうだったでしょ。喘息持ちや自閉症や、いじめられっこの不登校児に何ができるって目で観られてきたからわかるんだ。彼らにはぼくらよりも冷たいよ、世間は。だから腕が壊れてもいいから、目をこっちに引きつけて、聾学校のバンドは音だけが聴こえる程度にするんだ。ぼくらが餌になって彼らを守る。そのためにパーカッションはいつもよりも派手な音を出すからね。腕が上がらなくなって食事が摂れなくなっても、ぼくはそれでいい」
男の子はきっぱりと言い切った。
自分の身体を張って、聾学校のバンドに対する世間の冷たい目やおもしろおかしな目から彼らを守るんだ。
中学生とは思えないね。
よし、わたしものった。
聾者だから、まともな演奏なんかできない。
世間の常識を一気に崩そうね。
大丈夫だよ。
このバンドのディレクターはベルリンの壁を遊び半分に崩したんだから。
結局、きょうも午後7時30分に退場。
午後8時になると一時退院の患者さんたちが戻ってくるから、それから消灯までの1時間は巡回診察に追われた。
佐橋看護師と安積看護師も一緒に退席して、診察を手伝ってくれた。
彼のチームには宇野看護師がいるから、消灯前には巡回しきれないだろうと思ったけど、安積看護師だよ。
どんどん先回りして血圧測定をしながら、患者さんから現時点での容態を聞き出す。
医師が診察を始める頃にはすべてのデータが揃っているから、診察時間が早い。
きょうは、わたしのチームの負けを認めよう。
でも、いつも安積看護師がいるわけじゃないからね。
すべての診察と電子カルテの記入が終わったら、それで勤務は終わり。
彼のiPhoneのメール着信音が鳴って、すぐに止んだ。
夫の携帯メールを読む妻が、最近は多いらしい。
読んでもいいよね、別に減るもんじゃなし。
まりこ?。
聴いたことがないけど、まりこ・・・・・・。
本文を読んでわかった。
AKBの篠田麻里子さまか。
選挙結果。
前回の4位から1つ落としてしまいました。応援していただきながら、申し訳ありません。
センターは大島ですので、よろしくお願いします。
そうか、大島といえば大島優子さんだろうね。
前田敦子さんがいなくなったら、大島さんが選挙では毎回センターになるって言ってたからね、彼が。
総選挙ってSKEとか、他の地域で劇場に出ている子たちも入るわけだから、200名をはるかに越えるわけでしょう。その中で5位は立派だよ。謝るようなことじゃない。
彼が居室に戻ってきた。
「もう、金曜の夜からの一時退院許可願い届出用紙が出てるよ。2泊3日だ」
だろうね
我が家に勝る場所はない、だっけ?
なるべく帰してあげようよ
それはそうと携帯のメール着信音が鳴ってたよ
「ぼくの?誰だろう。うさんくさいサプリメントを買ってくれってやつだろう、どうせ」
彼はタッチパネルを押した。
「まりこ。あーそうだ、きょうは解散総選挙だったんだ、AKBの」
解散だけ余慶だって。
そっちは政治でしょ。
「去年より1つ下がったか。下がったってことは、前回が4位だから、4に1を足さなきゃならないのか。引き算ならできるんだけど・・・・・・・電卓アプリがあったな」
4+1くらい暗算できるでしょうが。
「おお、5位か。200名超の中の5位は立派だよ。謝ることはない。謝るのなら、所得税を払ってください。レスはこんな感じかな。いや待てよ。ぼくには順位は関係ないよ。麻里子さまがいればそれでいい。これで送信しまーす。東京までだと2日から3日で届くな」
それは郵便のメールでしょ。
携帯は送信ボタンを押せばすぐ届くって。
他の病院に、医師としてではなく、プライヴェートで行って、ペリトールの処方を指示したり、AKBの総選挙の結果に夢中で返信したり、遊び半分の海賊放送で偽情報を流してベルリンの壁を崩壊させたり、よくやるよね。
だけど、自分たちが餌になって、世間の冷たい視線を浴びている子たちを守る、ってがんばっている子もいる。そのためには自分の腕が壊れて、食事が摂れなくなってもいいとまで言うんだから。
人生って本当に不思議なものだよ。