例えば、目の前にAとBという予定があったとする。
 Aは一個人にとって、とても大切なことだ。
 Bはこの街にとって1年で一番大切な日だ。
 その両方がまったく同じ時間に重なってしまったとしたら、あなたはどちらを選ぶ?。
 普通は悩んでから決めるだろう。
 でも、ここに1秒も迷わずにBを選んだ者がいる。

 きょうから靖国神社の分社の戦没者慰霊式が執り行われる。
 遺族会に入っている彼は、大叔父の供養を断って、あっさりと音楽大行進のリハーサルを選んだ。
 いつも大切にしている、彼の自慢の大叔父の供養をあっさりと欠席してしまうとは。

 「6月5日に休暇をいただきたいと思いまして」
 彼はアネさんに申し出た。
 「慰霊祭の遺族会だろう。私もそうなんだ。毎年連絡の封書が来るけどふっ飛ばしてたんだけど、今年は出席ではがきを返信したよ。最近はなんか、先祖供養が気になってな。私も歳かな。ハンチョウも遺族会名簿に名前があるだろう」
 「はい。そうですか。で、階級は?」
 「祖父だけど、海軍中将だった」
 「中将殿でありますか。わたくしの大叔父は海軍少尉でありました」
 途端に彼の姿勢が変わった。
 軍人独特の背筋を伸びるだけ伸ばすあの姿勢だ。
 「そんなに前からつながっていたんだな。でも、ハンチョウ、その姿勢をくずせ。祖父と大叔父の話だ。わたしたちは今までと同じやり方でいい」
 「ハッ、それでは。去年も確か休暇願いをいただいたと思いますが」
 「私も休暇というか、式典だけの参加で、遺族会のドンちゃん騒ぎには参加しないから」
 「ぼくも、あれだけはどうも苦手で。慰霊式典の少し前に出かけて、式典が終わり次第戻るようにしたいんですが」
 「同じことを考えてたか。私も自分の届を今、書くところだから、2人も書いてくれ。印鑑3連発でいくから。それとも志村はそういう式典は嫌いか?夫の親族は妻にとっても親族だろう。たとえ遺族会名簿に名前がなくとも出席するのが礼儀だと思うんだけどな。嫌なら病棟のお留守番をしてもらう」
 病棟を出ても問題なければもちろん
 「問題も何も、病棟はもう少ししたら空になるから、2泊3日で。午後の巡回検診を一時退院のための診察とするからな。また印鑑を押す作業が延々と続くよ。覚悟しておけ。しかし、病院に戻ってたった1日でまた一時退院だと。先週金曜から連続にしてくれると担当医は助かるんだけどな。どこかのお役人のアホが、わけのわからない法律を作りやがるから、こっちは仕事が増える。ただ印鑑を押してるわけじゃないんだよ。カルテと診察とをすり合わせてみて、初めて印鑑を押せるんだ。よけいなものを省略しないで、すべきものをやれってんだ、ったく」
 言える。
 外泊届に押印するのって、精神的にものすごく疲れる作業だからね。
 医師の押印に目くら印はないから。
 うっかりと印鑑を押したために、ついこの間、命をひとつ失った。
 だから何度もデータを見て慎重すぎるくらいに緊張して押さないと。
 あの、斜里からドクターズ・ヘリで搬送した患者さんは
 「上の病棟に移ってもらう。元気で夏祭りにでも出かけたければ外出届が今日中に届くだろう9日いっぱいは代理担当医は私にしたから。志村は頼むから先輩を助けることに専念してやってくれ。病棟を一時的に移すと何かとトラブルもあるしな」
 アネさんはわたしと彼が書いた届用紙を重ね、押印欄がつながるようにさばいた。
 「ようし、全部押印欄の中心にきれいな印影を残すから、見てろ」
 朱肉に印鑑をこすりつけ、アネさんは上下左右をきちんと見定めて、大きく一息ついてから勢いで3枚押した。
 「どうだー・・・・・・あっ」
 えっ、もしかして失敗?。
 「1枚ミスった。ハンチョウのが欄からずれてはみ出した。ごめん、手汗でずれたんだ届け用紙が。もう一度書き直してくれるか、すまない」
 「はみだしても上下逆でもかまいませんよ。節約しましょう。印鑑が欄からはみ出したくらいで新しい用紙を使うのは非効率的です。それにシュレッダーの電気。この夏は節電が義務付けられてるでしょう。認めてもらったことに変わりはありません」
 「ほんとうにすまない。私のプライドも音を立てて崩れたよ。やっぱり私も歳なんだな。斜めになってるだろ、それでもいいか。昔は上下がわかるように印鑑の上の部分を削ってあったんだけどな」
 「あれは、印相が悪くなるからという理由で、やめたと言ってました。家業のハンコ屋を継いだ、高校のテニス部の後輩が」
 「そうか、印相なんていうのは怪しい訪問販売で、実印・銀行印・認め3本で50万円とかって奴だと思ってたけど、本当にあるんだな」
 「今は本象牙はまったくありませんから、人工象牙と牛の角で、牛の角でも3本で2万円台後半から3万円台前半。人工象牙なら1万円台でできるそうですよ訪問販売で本象牙を使ってると業者が言ったら、人工象牙です。もし本象牙を本当に使っているのなら、ワシントン条約違反で逮捕できますし、価格だけでも立派な詐欺ですから逮捕できます。ただ、その判断が難しいんですよ。だから疑問を持ったら断る、といってもずかずか家に上がりこんでしまうでしょうから、そんな時は警察の生活安全課に直通で電話をしてくれれば、即伺います。まずは迷惑防止条例違反で引っ張っていって、あがりこんだ家の方から、業者が行った行為についてうかかって、契約書を作成されていれば、容疑が詐欺に切り替わります。懲役3年で猶予なしにできます。もし、業者の目の前で警察に連絡するのが怖ければ、業者が引き上げたら直ちに警察か国民生活センターに連絡をくれれば対処できます。警察も110ではなくて各課直通の一般の電話番号ですから。まず、国民生活センターに相談すると、国民生活センターが業者にクーリング・オフを申し入れます。それで業者がはねつけたら、国民生活センターから警察に回りますから、警察へいきなり電話するのに抵抗があれば国民生活センターに連絡してもらえば、警察も動きますから。警察では今、事件を求めてます。個人のノルマがありますし、各課が対抗して署のトップ1を争っていて、管轄外の事件に立ち入って、人のシマを荒らしたって広島戦争ですよ。仁義なき戦いの。だから、例えばスピード違反車1台にパトカーから白バイまで20台で取り囲んで、俺の手柄だとかで揉めて、違反者の取り締まりを忘れて、隙に逃げられることもすくなくないですから。消防ともやりあうしね。消防は少しでも小規模な火災で鎮火することに全力を傾けますが、警察は火事になった家の家主さんを第一に考えますから、全焼させることを家主さんに薦めます。保険金が全焼でないと極めて小額か、まったく降りないケースが増えてますから、半鐘でもリフォームは最低限必要でしょうけど、足が出ます。全焼すると保険金は満額降ります。警察で現場検証をして作成した書類が必要ですから、警察としては満額出るような書類を作成しますから。消防はありのままを書くことしかしませんから、警察に任せてもらえば、消火時に現場でポンプ車のホースをパトカーで踏んで放水を止めたり、消火栓からホースを引き抜いたり、燃えてるところから家主さんのお手伝いをさせていただきます」
 「ドラマの中だけじゃないんだ」
 アネさんは笑った。
 笑い事じゃないよ。
 放水を阻止したり、消火栓からホースを抜くことは犯罪だからね。
 まだ、あるでしょ。
 消防と警察、どっちが先に現場検証に入るかを巡って殴りあい。
 警察は、保険を満額下ろすために、証拠品を破壊して回る。
 こんな連中に街の治安を任せていいのかと思うね。

 「どうだ、音楽大行進は?」
 アネさん。
 今からでもオーケストラに入ってくれる人材を探してます
 でも、時期から言って経験者ですから、むずかしくて
 「ハンチョウのとこの安積が看護市長に出場したいと申し出たから、許可を出した。間をうまく使って睡眠をとるから、勤務には支障ないようにする自信があるんだと。あいつって、ベテランみたいだよな、言動が。とんでもない細かいところにまで気配りが行くし。佐橋や紺野と対等に働けるよ。あれは一等前後賞ものだね。ああ、そういえば、ちょっと待てよ、他にも確か」
 アネさんは病棟スタッフの履歴をめくりだした。
 「あったぞ。佐橋はバトンとチアだ。バトンじゃなくて楽器か?」
 楽器隊の先頭にバトン隊がついてますから、欲しいです
 へへっ、ウチのチームにもいるんだよ。
 残念だな、引き分けで。
 
 佐橋看護師を休憩室から呼び出した。
 ことのいきさつを話すと、看護師長のOKが出れば、出場したいという。
 「毎年、ケーブルTVで総集編を放送するじゃないですか。あれを観てると、バトンは基本技を組み合わせているだけなんですよ。チームによってその組み合わせが違うんです。ADCBにするかACBDにするかとかの違いで、一般の人にはまったく違うように見えるんです。錯覚なんですよ。基本技は日本全国共通だから、佐橋がきょうの夜からやることは、組み合わせを憶えるだけですから、佐橋で役に立つのなら何でもどうぞ。1回出てみたかったんですけど、ウチの中学も高校もバトンは先導しないスタイルで吹奏楽部だけが出てたので、佐橋は処女ですが、いいですか?」
 悪かったら話さないよ
 今夜の練習から頼める?
 「今からでも」
 今はリハーサルはやってないんだよね
 「あー、ねー、そうでした」
 やる気十万馬力だからね、佐橋看護師は。
 だから、担当外の患者さんにまで人気があるんだ。
 安積看護師と2人入ったとしたら、200名。
 きれいな数字だね。
 数だけいればいいってもんじゃないから。
 これで締め切っていい。
 「チアもやってたんだって」
 彼は訊いた。
 「やってました、高校時代3年間だけですけどね」
 「チアって、テストの平均が95点以上で、クラスでトップ、学年でもトップテン以内じゃないと入部資格がないんだっけ、どこの高校も」
 「そうですね。うん、確かに厳しい入部資格はあるし、平均が95点を割ったら即、退部させられますから」
 「それで3年間続けたということは、相当頭が切れるってことだ。すごいね。看護師にしておくのがもったいない」
 看護学校の入試もかなり高得点だったでしょ
 「いやぁー、それほどでも」
 佐橋さんの頃はまだ入試がかなり難しかったから
 看護師不足でハードルを下げたら、医者を泣かすような看護師ができるようになったんだから
 「もう、毎日泣きっぱなしだよ。技術的には立派なんだけど、いらんボケがね。自分のチームの点滴の血管探しの最中に他のチームからの応援要請があって、自分のチームをほったらかして、そっち行っちゃうし。おかげで患者さんの夕食時間にかかって、冷えたおみおつけに冷えたご飯の夕食にしてしまって、ぼくが平謝りだ。子供の頃からどんくさい子だったから、正直、彼女は道を間違えたと思う。実家を継いで、コンビニでレジ打ちをすべきだったんだ。いや、あの店は中国や韓国からの観光客相手だから、中国語4種類にハングルが必要になるから、それさえ難しい」
 「中国語って4種類もあるんですか?」
 佐橋看護師の率直な疑問。
 きちんと答えてやってね。
 じゃないとT-FALで後頭部のポイントをいくよ。
 「中国語って1つの原語みたいに言われるけど、中国語という言語は存在しない。4種類の言語をまとめて、日本ではそういってるけれど、海外ではきちんと分けてるんだ。公用語は北京語で、その他に上海語、台北語、四川語がある。地方によって同じ単語でもまったく意味が違う場合が多いんだ。それで、政府は北京語以外を公衆の面前で使わないこと、という刑罰つきの命令を庶民に出したくらいなんだ」
 「刑罰って?」
 「強制労働もしくは公開処刑」
 「処刑って殺されるってことですよ」
 「そう。共産主義の国では決して珍しくない。北朝鮮では毎日のように公開処刑があって、それをTVで中継する。日本では連続殺人でも起こさなければ死刑は適用されない。平和な国に生まれたことに感謝だよ」
 「ですね。佐橋は幸せ者だ。そうだ、そろそろ一時退院届を集めてきますね。でも、たった1日の病棟暮らしで、また自宅へ戻る生活って騒々しいですよね。身体に悪い。これからはスローライフですよ」
 スタッフはみんなそう思ってる。
 でも、これは指針ではなくて規則なんだよ。
 規則ということは、罰則規定がある。
 病棟閉鎖。
 つまり、末期肺癌患者さんを全員投げ出せってこと。
 当然、オペも治療もできないから、亡くなる患者さんがほとんどだろうね。
 
 
 佐橋看護師はバトンチームの練習室へ、安積看護師はパーカッションに加わった。
 看護学校の同期がいると安積看護師は言っていた。
 それがオーケストラのリーダーと副長。
 3人揃うときゃっきゃやっていた。
 病棟ではクールでも、やっぱり普通の女の子だね。
 
 パート練習に副長がいなかった。
 「No.1はどこへ行った?」
 彼は探し始めた。
 廊下で見つけたらしい。
 つれて戻ってきた。
 手持ちのリードが全部ハズレで音が出せないという。
 「しょうがないね。これをプレゼントする」
 彼はパッケージに入ったリードを1枚渡した。
 このリードがすごいんだよね。
 人工繊維をコンピューターでカットしてあるからハズレがない。
 リードって木管楽器奏者の永遠の悩みの種だから。
 10枚入りのを20箱買っても1枚も当たりがない場合が多い。
 ベテランになれば、その中の何枚かを専用のナイフで削って使えるようにするけれど、一般的にはとにかく当たりが出るまで買い続けるしかない。
 プラスティック製のリードもあって、それは絶対当たるけど、音が硬くて、何人もの同じ楽器パートがそろう吹奏楽などでは他の同じパートの人々の音をぶち壊す。
 自然素材のリードと音質が同じで、しかもハズレないリードは、彼が渡したリードしかない。
 彼は副長を部屋の隅に連れて行き、なにやら注意を与えて連れ戻ってきた。
 「いい音が出てるね」同じパートの他の連中は次々に彼女を褒める。
 「代表にもらったんだけど、人工繊維でハズレがないんだよね。すごく吹きやすいよ。自然素材のハーフ下の番号を使うの。自然素材と違ってへたらないから。人間は吹き続けたらへたるでしょ。だから、へたった状態でまともな音が出るようにするために、ハーフ下げる」
 わたしも彼に説明されて、使ってる。
 1枚と、自然素材10枚が同じ値段だけど、1箱から当たりが出る確率って天文学的数字だからね。それを考えると特だから。
 副長の話を聴いた連中は彼にねだり始めた。
 「わかった。全員に1枚ずつプレゼントするよ。その代わり本番はおかしな音は出すな。約束できるか?」
 みんなは1枚ずつ、リードをもらった。
 その話が瞬く間に全てのクラリネットとサックス・パートに広がってしまい、彼は明日、クラリネットと他のサックス・パートにもプレゼントをすると約束した。
 
 病棟のわたしたちの居室には、このリードがクラリネットからバリトン・サックスに至るまで箱詰めにされたものがメーカーから送られてきている。
 要するに、プロのサックス吹きである彼の意見を求めるために送ってくるってわけ。
 プロに認めさせたら、メーカーは莫大な宣伝になるからね。
 約束したすべての人たちに配ってもまだあまるから大丈夫。
 その1枚がへたったら、後は自分で買ってもらうんだから。
 ちなみに、自然素材のリードって2週間くらいでへたるんだけど、このリードは半年近く使えるという。
 「これ自体の音がとびきり美音なわけじゃないんだ。精神的な面も加味されて美音が出る。リード選びのわずらわしさから開放されるからだよ」
 金管パートは音の大きさで勝負するらしいけど、木管はしなやかさで見せる。
 このリードがそうさせてくれるんだ。

 佐橋看護師が練習終わりに、わたしに言った。
 「いやー、久しぶりにバトンを振ったら、肩こりがすっかり消えましたよ。これは身体にいいな。寮でも振ろうっと。ところで、佐橋のスタイルはどうですかね。ケーブルTVで放映されるから、カメラ映りが心配で。レオタードはきわどいハイレグにしてみましょうか」
 こらっ、女の子がコマネチ!をするんじゃない。
 世界の北野さん、とんでもないギャグを流行らせてくれたよね・・・・・・。