きょうの午後から、来週土曜に行われる「北海道音楽大行進」のリハーサルに入った。
ただしきのうアネさんに接触した、吹奏楽の元OB,OGの団体は彼と話し合った結果、おことわりした。
じゃあ、どこの団体で出るのか。それはこの後の話だよ。
喘息という病気を抱えた子供たちは、あらゆる面で孤立することが多い。
原因は体育の時間はいつも見学と、担当医からきつく言われて、学校に診断書を提出させられるからだ。
普通の子には、それが単なるさぼりにしか見えない。
学校の先生もよくわからないから説明をしない。
喘息は死につながる、油断のできない病気なんだよ。
実際にウチの彼は一度死んでる。
咳が間をおかずに出て、呼吸を乱す。乱れるだけではなく止めるまで持っていくことがある。
心停止。
心臓喘息とも言われ、死亡診断書に書けば、それで通る。
そんな病を吹奏楽を使って軽度にしてやろうという専門医が現れた。
それも北海道に、だ。
そしてその手法をいち早く取り入れて喘息の子の吹奏楽団を結成したのが、同じ街で個人病院を経営する、アネさんの先輩。
過去に何度か共演したこともある、グラン・ブルー・ドリームス・オーケストラ。
今ではアスペルガー・シンドロームや健常児までを取り込んで演奏活動を行っている。
彼らは毎年、アフター・コンサートという、4・1kmをマーチングしてきた団体が、歩行者天国でコンサートを行う行事にだけ出演をしていた。
それが、PTAの決断で、今年はマーチングにも参加することにした。
マーチングに出場するためには、吹奏楽連盟に対して出場料を支払わなければならない。
バンドの規模によって額は違うけど、オーケストラは最大規模だから、十万円以上の出場料を支払わなければならない。
それらはすべてPTAの持ち寄りで支払ったと言う。
オファーがあったのがきのうの夜食の時間だった。
とにかく初めての経験なので何が起こるかわからない。
医師免許を持つ彼とわたしに、団体の中に入ってほしい。
彼もわたしも二つ返事でOKした。
彼はオーケストラの指導をしている人間だからね。
最近は1ヶ月に一度くらいしか顔を出さないけれど。
わたしの音楽力なんて吹奏楽においてはしれている。どこの団体で出ようが変わることはない。
アネさんへの電話で、頼まれた。
アネさんを困らせたくないし、オーケストラ・ディレクターの肩書きを持つ人間が他の団体で出場しちゃまずいでしょ。
アネさんはいつものアネさんでいて欲しい。
彼は最初にオファーを入れてきた団体を、あっさりと断った。
きょうは本来なら、朝からリハーサルがあったのだが、オーケストラを抱える病院で、彼のお母さんの命日であることを覚えていて、墓参を終わらせてからリハーサルに参加して欲しいと言ってくれたので、甘えさせてもらうことにした。
命日は毎月通りだよ。患者さんが一人もいない病棟の留守番にチャラ夫婦とガンバ夫婦を残して我先についてきた。
麻酔科長は土日は休日なのに、朝から病棟へ来て座っている。
アネさんは、病棟で墓参するから、ゆっくりと休んでくれ、と丁重にお断りしたが、本人は言った。
「ぼくは行かなきゃ行けない義務がある。彼とはファミリーだから」
ファミリー?。
先月まではスタッフだったのに、ファミリーになってるよ。
こうして麻酔科長は墓参に同行した。
今までは水野オペ室長は旦那さんと二人でこっそりと墓参していたのだが、きょうは旦那に迎えに来てもらって、みんなと同行するという。
車列を並べて、一路墓地のある街へと向かった。
墓地はすっかり雪がなくなり地面も硬くなっていた。
彼の読経の中、一列に並んだ参列者がお線香を立て、お香をつまんではお線香の周囲に立てていく。
きょうの深夜勤務に就かなければならない一子さんも、睡眠時間を削って参加した。
「彼のお母さんがいなかったら、わたしの緩和ケアは完成しなかったんだから、当然でしょ」
確かに、いわゆる実験台なわけで、引き受けてくれる患者さんはいなかった。それを、彼がどう話したのか知らないけれど、承諾書に自筆でサインをくれた。そして彼のお母さんが痛みの度合いを簡潔にメモにまとめてくれて、それを元に現在の「緩和ケアシート」と呼ばれる、痛みの度合いを1から0・5ずつに分けたスケール上に記入してもらい、患者さんの痛みにあった痛み止めの投与が行われるというシステムができた。
子のシステムによって、多くの患者さんが痛みのない癌ライフを送ることができるようになった。
一番危険な抗癌剤ゲフィニチブの治験にも、自筆で承諾してくれた。
死亡率が3割だと製薬メーカーは薬剤に関するデータを配った。
カプセルを飲むだけなら、こんな簡単で楽な治療法はないと、厚労省の指導もあって、国立病院だから受け入れた。でも、それは真っ赤な嘘だったことが最近になって暴露された。
薬を売るために製薬メーカーがデータを偽造したのだ。本当の死亡率は副作用によるもので9割。腫瘍縮小効果も100%あると言ったものがゼロだった。
彼の元には病院から300万円と製薬メーカーから300万円の合わせて600万円が渡された。
人の命がたった600万円で済まされるなんて信じられないことで受け入れがたい。
でも、正式なデータに基づいたうえで、ごく一部の患者さんには、副作用による死亡率などを説明した上で、承諾書を取って使っている。
一番最後はウチの変なおじさんのお焼香。
ところが、このバカが突然大きなくしゃみをして、5本のろうそく全てを一瞬にして消してしまった。
慌ててウチの母親がつけたのだけど、はっきりと言いたい。
おまえは二度と参加するな。
墓参を終えて、駐車場までの道のりを戻る時の妹の、父親を見る目つきも同じことを語っていた。
納骨堂はきょうも立ち入り禁止だった。
葬儀の最中だったのだ。
1階が葬議場で二階には納骨堂と遺族控え室がある。
その控え室があるために、関係者以外は立ち入りを禁じられる。
しかたなく、町とJAの共同出資による研修宿泊施設のレストランで軽く昼食を取り、麻酔科長はハスカップ・ワインというお土産を買って帰路に就いた。
彼が麻酔科長に説明したところによると、ハスカップというのは高山植物で、日本語でコケ桃と言われる、フィンランドのイチゴより酸味がきつい。それをワインにしたもので、かなり喉に突き刺さる感じがあるので、必ず何かお通しとあわせて欲しいという。
今になってわかったことだけど、同じものをアネさんと看護師長、副師長も買っていた。
あの3人にとって酒は、自動車におけるガソリンだからね。
一旦、病棟に戻って、着替えてから、楽器を持ってリハーサルに出かけた。
わたしのパートは彼と同じアルトサックス。
それだけで安心だ。
沿道の客からは指までは見えないから音を出さないで、演奏している振りだけしてればいい、と彼は言っていた。
4・1kmという行程で最初から最後まで演奏を続けることができるのは、警察・消防・自衛隊だけだとも言った。
ところが配られた譜面を見て驚いた。
わたしが想像していたような難しいものではなかった。
バイエルの1番、右手の練習程度のもので、いざ吹いてみると、突っかからないで最後まで吹ける。
彼にささやくと、
「これが吹奏楽なんだよ。この簡単なフレーズが集合体になって初めてピアノ1台分の音楽になるんだ。音を聴かせてもらったけど、パーフェクトだ。ぼくが吹いている振りをしたらいいよと言ったのは、4・1kmという距離を行進しながら吹くのは正直、キツイからなんだ。君を指導している者としては、生徒の進度は常に把握していないとならないから、きみなら十分こなせると判断したんだ。ただ、注意点はひとつ」
だよね。
100点なんて出ないよ。
「4・1km歩くと、足に来る。それが2日後に決まってくるから、月曜は回診中にひざカックンか激しい筋肉痛で歩くことが困難になる。十数年出場していても、この解決策はほとんどない。ただ。ペリトールを塗布してよくマッサージすれば、ある程度は軽減できるけどね」
ペリトール。プロ・スポーツのアスリート御用達のすぽーつ・マッサージ・クリーム。
なるほど、それは病棟の薬剤師に言えば、手配してくれるだろう。
個人練習が終われば、次はアルトサックス全員の練習。続いてサックス・パートの練習ときて、夕食後は全体練習。
なんとか付いていける。
これもヤマハでピアノを続けた結果かな。
譜面が読めるだけで、楽器が違ってもフィンガリング(運指)さえ憶えていれば、なんとかなる。
わたしは何度もこのオーケストラと共演した。
だから大抵のメンバーは覚えているが、きょうは見たことのない顔の連中がやけに多い。
「言い忘れてた。札幌から応援を呼んだみたいだ。吹奏楽で喘息は軽減できるという論文を発表し、見事に実践した医師の率いる吹奏楽バンドが応援に来てくれているんだ。紹介しておこう」
わたしは彼についていった。
シルバーグレイの髪の、すらっとした男性が練習を終えて、後片付けをしている。
「先生、紹介がまだだったので、紹介しておきます。国立病院でともに末期癌病棟で医師として働いている、ぼくの妻です」
男性は笑顔で言った。
「妻って、普段は言い慣れてないね。顔に出てる」
妻とか夫って、結婚して1年以上経っても照れるんだよね。
普段は友達感覚だから。
「そうですか。末期癌病棟というと呼吸器外科医ですね。ぼくは呼吸器内科ですが、内科と外科の違いですからお見知りおきを。出場なさるんですね。すばらしいことです。医師自ら実践してみるということは何にも勝る的確なアドバイスができますからね、病気に対しても。国立病院というと新しい院長に藤田先生が就任されたところですね」
直属の部下になります
4F病棟の
藤田をご存知ですか?
「ええ、もちろん。すばらしい論文をいくつも発表されているし、そのどれもが裏づけが徹底している。すばらしい医師ですよ。裏付けを徹底させるためには、現場にいないとできないことです」
先生の、吹奏楽で喘息を軽減させるという論文にも、かなり興味を持っているようです
「そうですか。それはうれしいな。ああ、ちょうどいい」
かばんの中をごそごそとして、ファイルを取り出した。
「お恥ずかしいですが、論文と、発表後のデータをまとめたものですが、病棟の方々で読んでみてください。あいにく、ぼくは名刺というものを持たない主義なので。表紙に連絡先を入れておきますから、読んでみて何か疑問とか感想があれば教えていただけませんか。藤田先生にご意見がいただけるとうれしいですから」
わたしはかなり分厚いA4封筒を受け取った。
「必ず、藤田に渡しますから」
「これも何かの縁です。ウチの病院は呼吸器内科ですが、それでも肺癌を発見する場合もあります。そんな時に何らかの意見交換を行える関係に病院同士がなれたらありがたい」
わたしはとりあえずメモに住所と連絡先を書いて渡した。
「ありがとうございます。札幌の肺癌患者さんが頼れるのは現時点では北大病院しかない。ですが、大学病院というのは塀が高くて、いつも満床で、そのうえ、紹介状を書いても平気で断ってくる。患者さんの資産を見てるんですね。医師の選択した治療のレセプトを支払えるかどうかで患者さんをより分けてしまう。正直、癌センターがああなったのは本当に困っています。政治が病院を仕分けする時代が来るとは思いませんでした。彼らは医療については何もわかっていないのに、目立つものから切り落とされるのは心外ですよ。いやな時代になりました。金持ちは生きていてくれ、貧乏人は死ねという態度はどうしても許せない」
わたしたちの病院の考え方もまったく同じです
憲法で、日本人であればどんな境遇の患者さんも等しく治療を受けることのできる権利が保障されているにもかかわらず、実際はそれが遵守されていない時代です
彼はハーバードに学んで、ニューヨークの病院で研修を受けたために、厚労省指針違反を常に起こしています。指針通りに行うと、点数の出ない抗癌剤をただ投与し続けて、死を看取ることしかできません。でも、彼は最終ステージからでもオペを行います。それを藤田が後押しをして認めるんです。プラセボで金儲けをしたくないというのが藤田の方針ですから
「それが当たり前でなければいけないんですよ。ぼくも賛成です。点数の出ない治療でとても支払えないような高額な医療費を取って設ける。盗人猛々しいにもほどがある。治療は病院のためのものでも医師のためのものでもない。患者さんのためのものですよ。それを常に頭に置いた治療こそ医師のすべきことじゃないですか。指針違反で処罰されるなら、ぼくは賛同者をとにかくできる限り集めて、弁護士費用も着手金からすべて支払います。万が一の時は国と闘ってください。同じ考え方の医師もたくさんいます。1人が声を上げれば、彼らも立つでしょう。国の言いなりで患者さんを殺すために、ぼくらは医学を勉強したんじゃない。人を助けるためだったはずです。それを忘れた医師はすぐにでも辞職すべきです。正しいのは国じゃない、彼のほうですよ」
バンドのメンバーに呼ばれた医師はかばんを手にした。
「また、明日お会いしましょう。本番の天候がよくなるように祈ってますよ。彼らのデビューですからね。それでは、また明日」
札幌へお帰りですか?
「ええ、通いでやっています。ホテルの滞在も考えたんですが、PTAの負担を軽くするためには通いの方がいいんです。きょうから合同練習が始まったんですが、一週間のホテル代と通いの場合だと、高速料金の方が安いんですよ。それに2時間もかからない。バスの中で子供たちは互いに交流して絆を深めていきますから、通いが適当かと。バスは病院の患者さんの送迎用のバスです。土日が空くもので利用して」
先生があえて札幌からこの行事に参加しようと思われたのは?
「ご存知でしょうが、もうすぐ札幌の街はよさこいソーランで半狂乱になる。元はといえば土佐の高知からのパクリでしょう。子供たちにそれを正当化させたくないんですよ。いつもオリジナリティーを大切にして欲しい。それがひとつ。そして何よりの理由は、彼らに、やればできるという自信を植え付けてやりたいんです。彼らは日常生活の中では狡猾ないじめの対象にされている。たかが体育の時間を見学にするだけで。その境遇を跳ね除ける勇気を与えてやりたいんですよ。幸い、この病院のオーケストラも趣旨は同じだったので、姉妹提携を結んでお互いにあれこれ相談しながらやっています。そうしたらわずかですが、子供たちに変化が見えてきた。だから、この由緒ある大舞台で、さらに変えてやりたい。この行事はこの街だけのオリジナリティーですからね」
そう言い残して、医師は練習場を後にした。
彼がこの病院の、アネさんの大学の先輩である副院長謙理事長に怒られていた。
「ちょっと、院長室で2人きりで話をしない? 覚書を見ながら」
覚書というのは、彼がアネさんの下で医師を続けながら、他の同じような科目の病院でオーケストラを指導するために入り込むにおいて、医師と看護師の引き抜き行為に当たる言動は一切行わないという文章にアネさんと彼、そしてこの病院の副院長が自筆でサインをしたもの。
それを彼は破ってしまった。
オーケストラのリーダーと副長の2人の看護師に、ここより自分の病院の看護師の給与のほうが高いけど、ファッションとか携帯とかで悩むことがなくなるよ、と宣伝かたがた話した。
それがヘッドハント行為に当たると判断された。
ボケでは済まされない。
アネさんに恥を欠かせる行為だ。
院長が間に入ってなんとか丸く収めたが、それは院長としてではなくて、彼のラジコン友達としてのことだ。
わたしは恥ずかしくて、逃げるようにこっそりと練習会場を後にした。
病棟に帰ってから彼に訊いた。
やっちやいけないことをしたんだよね
「別に引き抜こうというわけじゃなくて、世の中にはピンキリいろいろあるんだと教えてただけ。教え好きだから、ぼくは」
明日はやめてよね
アネさんの顔を潰すことになるから
彼は誓いを立てた。
さてっと、譜面をさらっておこうか、EWIで。
もちろんノーマルのもので。
アイルトン・セナ仕様のは使えないよ、まだまだ。
もっと上達してkらじゃないと。
きょうの夕食から明日の夕食まで断食。
彼は夜食を作ったけど、佐橋看護師と3人で話の輪に加わったけれど、箸を持てないで。
話が何よりの食事だけどね。
アネさんは、札幌の医師にもらった資料で有頂天。
何でも肺癌のオペ後のリハビリに管楽器を取り入れることができないかを模索してるんだって。
わたしならEWIを薦める。
吹く息の強さを自由にコントロールできる。肺活量に合わせたセッティングをすればいいだけ。
明日が本番前の、全員でのおそらく最後の練習日となる。
4・1kmというのは中学の遠足以来の距離だ。
わたしの心配はアルトサックスを吹くことから、それだけの距離を歩けるかに変わっていた。
車が当たり前の生活がいけないんだよね。
ガソリンがめちゃくちゃ高騰してるから、歩けばいいのに。
本番の途中で、もう歩けませんは言えないよ。
「病院の宣伝をしてきて欲しい」という、アネさんの期待を裏切ることになるから。
ただしきのうアネさんに接触した、吹奏楽の元OB,OGの団体は彼と話し合った結果、おことわりした。
じゃあ、どこの団体で出るのか。それはこの後の話だよ。
喘息という病気を抱えた子供たちは、あらゆる面で孤立することが多い。
原因は体育の時間はいつも見学と、担当医からきつく言われて、学校に診断書を提出させられるからだ。
普通の子には、それが単なるさぼりにしか見えない。
学校の先生もよくわからないから説明をしない。
喘息は死につながる、油断のできない病気なんだよ。
実際にウチの彼は一度死んでる。
咳が間をおかずに出て、呼吸を乱す。乱れるだけではなく止めるまで持っていくことがある。
心停止。
心臓喘息とも言われ、死亡診断書に書けば、それで通る。
そんな病を吹奏楽を使って軽度にしてやろうという専門医が現れた。
それも北海道に、だ。
そしてその手法をいち早く取り入れて喘息の子の吹奏楽団を結成したのが、同じ街で個人病院を経営する、アネさんの先輩。
過去に何度か共演したこともある、グラン・ブルー・ドリームス・オーケストラ。
今ではアスペルガー・シンドロームや健常児までを取り込んで演奏活動を行っている。
彼らは毎年、アフター・コンサートという、4・1kmをマーチングしてきた団体が、歩行者天国でコンサートを行う行事にだけ出演をしていた。
それが、PTAの決断で、今年はマーチングにも参加することにした。
マーチングに出場するためには、吹奏楽連盟に対して出場料を支払わなければならない。
バンドの規模によって額は違うけど、オーケストラは最大規模だから、十万円以上の出場料を支払わなければならない。
それらはすべてPTAの持ち寄りで支払ったと言う。
オファーがあったのがきのうの夜食の時間だった。
とにかく初めての経験なので何が起こるかわからない。
医師免許を持つ彼とわたしに、団体の中に入ってほしい。
彼もわたしも二つ返事でOKした。
彼はオーケストラの指導をしている人間だからね。
最近は1ヶ月に一度くらいしか顔を出さないけれど。
わたしの音楽力なんて吹奏楽においてはしれている。どこの団体で出ようが変わることはない。
アネさんへの電話で、頼まれた。
アネさんを困らせたくないし、オーケストラ・ディレクターの肩書きを持つ人間が他の団体で出場しちゃまずいでしょ。
アネさんはいつものアネさんでいて欲しい。
彼は最初にオファーを入れてきた団体を、あっさりと断った。
きょうは本来なら、朝からリハーサルがあったのだが、オーケストラを抱える病院で、彼のお母さんの命日であることを覚えていて、墓参を終わらせてからリハーサルに参加して欲しいと言ってくれたので、甘えさせてもらうことにした。
命日は毎月通りだよ。患者さんが一人もいない病棟の留守番にチャラ夫婦とガンバ夫婦を残して我先についてきた。
麻酔科長は土日は休日なのに、朝から病棟へ来て座っている。
アネさんは、病棟で墓参するから、ゆっくりと休んでくれ、と丁重にお断りしたが、本人は言った。
「ぼくは行かなきゃ行けない義務がある。彼とはファミリーだから」
ファミリー?。
先月まではスタッフだったのに、ファミリーになってるよ。
こうして麻酔科長は墓参に同行した。
今までは水野オペ室長は旦那さんと二人でこっそりと墓参していたのだが、きょうは旦那に迎えに来てもらって、みんなと同行するという。
車列を並べて、一路墓地のある街へと向かった。
墓地はすっかり雪がなくなり地面も硬くなっていた。
彼の読経の中、一列に並んだ参列者がお線香を立て、お香をつまんではお線香の周囲に立てていく。
きょうの深夜勤務に就かなければならない一子さんも、睡眠時間を削って参加した。
「彼のお母さんがいなかったら、わたしの緩和ケアは完成しなかったんだから、当然でしょ」
確かに、いわゆる実験台なわけで、引き受けてくれる患者さんはいなかった。それを、彼がどう話したのか知らないけれど、承諾書に自筆でサインをくれた。そして彼のお母さんが痛みの度合いを簡潔にメモにまとめてくれて、それを元に現在の「緩和ケアシート」と呼ばれる、痛みの度合いを1から0・5ずつに分けたスケール上に記入してもらい、患者さんの痛みにあった痛み止めの投与が行われるというシステムができた。
子のシステムによって、多くの患者さんが痛みのない癌ライフを送ることができるようになった。
一番危険な抗癌剤ゲフィニチブの治験にも、自筆で承諾してくれた。
死亡率が3割だと製薬メーカーは薬剤に関するデータを配った。
カプセルを飲むだけなら、こんな簡単で楽な治療法はないと、厚労省の指導もあって、国立病院だから受け入れた。でも、それは真っ赤な嘘だったことが最近になって暴露された。
薬を売るために製薬メーカーがデータを偽造したのだ。本当の死亡率は副作用によるもので9割。腫瘍縮小効果も100%あると言ったものがゼロだった。
彼の元には病院から300万円と製薬メーカーから300万円の合わせて600万円が渡された。
人の命がたった600万円で済まされるなんて信じられないことで受け入れがたい。
でも、正式なデータに基づいたうえで、ごく一部の患者さんには、副作用による死亡率などを説明した上で、承諾書を取って使っている。
一番最後はウチの変なおじさんのお焼香。
ところが、このバカが突然大きなくしゃみをして、5本のろうそく全てを一瞬にして消してしまった。
慌ててウチの母親がつけたのだけど、はっきりと言いたい。
おまえは二度と参加するな。
墓参を終えて、駐車場までの道のりを戻る時の妹の、父親を見る目つきも同じことを語っていた。
納骨堂はきょうも立ち入り禁止だった。
葬儀の最中だったのだ。
1階が葬議場で二階には納骨堂と遺族控え室がある。
その控え室があるために、関係者以外は立ち入りを禁じられる。
しかたなく、町とJAの共同出資による研修宿泊施設のレストランで軽く昼食を取り、麻酔科長はハスカップ・ワインというお土産を買って帰路に就いた。
彼が麻酔科長に説明したところによると、ハスカップというのは高山植物で、日本語でコケ桃と言われる、フィンランドのイチゴより酸味がきつい。それをワインにしたもので、かなり喉に突き刺さる感じがあるので、必ず何かお通しとあわせて欲しいという。
今になってわかったことだけど、同じものをアネさんと看護師長、副師長も買っていた。
あの3人にとって酒は、自動車におけるガソリンだからね。
一旦、病棟に戻って、着替えてから、楽器を持ってリハーサルに出かけた。
わたしのパートは彼と同じアルトサックス。
それだけで安心だ。
沿道の客からは指までは見えないから音を出さないで、演奏している振りだけしてればいい、と彼は言っていた。
4・1kmという行程で最初から最後まで演奏を続けることができるのは、警察・消防・自衛隊だけだとも言った。
ところが配られた譜面を見て驚いた。
わたしが想像していたような難しいものではなかった。
バイエルの1番、右手の練習程度のもので、いざ吹いてみると、突っかからないで最後まで吹ける。
彼にささやくと、
「これが吹奏楽なんだよ。この簡単なフレーズが集合体になって初めてピアノ1台分の音楽になるんだ。音を聴かせてもらったけど、パーフェクトだ。ぼくが吹いている振りをしたらいいよと言ったのは、4・1kmという距離を行進しながら吹くのは正直、キツイからなんだ。君を指導している者としては、生徒の進度は常に把握していないとならないから、きみなら十分こなせると判断したんだ。ただ、注意点はひとつ」
だよね。
100点なんて出ないよ。
「4・1km歩くと、足に来る。それが2日後に決まってくるから、月曜は回診中にひざカックンか激しい筋肉痛で歩くことが困難になる。十数年出場していても、この解決策はほとんどない。ただ。ペリトールを塗布してよくマッサージすれば、ある程度は軽減できるけどね」
ペリトール。プロ・スポーツのアスリート御用達のすぽーつ・マッサージ・クリーム。
なるほど、それは病棟の薬剤師に言えば、手配してくれるだろう。
個人練習が終われば、次はアルトサックス全員の練習。続いてサックス・パートの練習ときて、夕食後は全体練習。
なんとか付いていける。
これもヤマハでピアノを続けた結果かな。
譜面が読めるだけで、楽器が違ってもフィンガリング(運指)さえ憶えていれば、なんとかなる。
わたしは何度もこのオーケストラと共演した。
だから大抵のメンバーは覚えているが、きょうは見たことのない顔の連中がやけに多い。
「言い忘れてた。札幌から応援を呼んだみたいだ。吹奏楽で喘息は軽減できるという論文を発表し、見事に実践した医師の率いる吹奏楽バンドが応援に来てくれているんだ。紹介しておこう」
わたしは彼についていった。
シルバーグレイの髪の、すらっとした男性が練習を終えて、後片付けをしている。
「先生、紹介がまだだったので、紹介しておきます。国立病院でともに末期癌病棟で医師として働いている、ぼくの妻です」
男性は笑顔で言った。
「妻って、普段は言い慣れてないね。顔に出てる」
妻とか夫って、結婚して1年以上経っても照れるんだよね。
普段は友達感覚だから。
「そうですか。末期癌病棟というと呼吸器外科医ですね。ぼくは呼吸器内科ですが、内科と外科の違いですからお見知りおきを。出場なさるんですね。すばらしいことです。医師自ら実践してみるということは何にも勝る的確なアドバイスができますからね、病気に対しても。国立病院というと新しい院長に藤田先生が就任されたところですね」
直属の部下になります
4F病棟の
藤田をご存知ですか?
「ええ、もちろん。すばらしい論文をいくつも発表されているし、そのどれもが裏づけが徹底している。すばらしい医師ですよ。裏付けを徹底させるためには、現場にいないとできないことです」
先生の、吹奏楽で喘息を軽減させるという論文にも、かなり興味を持っているようです
「そうですか。それはうれしいな。ああ、ちょうどいい」
かばんの中をごそごそとして、ファイルを取り出した。
「お恥ずかしいですが、論文と、発表後のデータをまとめたものですが、病棟の方々で読んでみてください。あいにく、ぼくは名刺というものを持たない主義なので。表紙に連絡先を入れておきますから、読んでみて何か疑問とか感想があれば教えていただけませんか。藤田先生にご意見がいただけるとうれしいですから」
わたしはかなり分厚いA4封筒を受け取った。
「必ず、藤田に渡しますから」
「これも何かの縁です。ウチの病院は呼吸器内科ですが、それでも肺癌を発見する場合もあります。そんな時に何らかの意見交換を行える関係に病院同士がなれたらありがたい」
わたしはとりあえずメモに住所と連絡先を書いて渡した。
「ありがとうございます。札幌の肺癌患者さんが頼れるのは現時点では北大病院しかない。ですが、大学病院というのは塀が高くて、いつも満床で、そのうえ、紹介状を書いても平気で断ってくる。患者さんの資産を見てるんですね。医師の選択した治療のレセプトを支払えるかどうかで患者さんをより分けてしまう。正直、癌センターがああなったのは本当に困っています。政治が病院を仕分けする時代が来るとは思いませんでした。彼らは医療については何もわかっていないのに、目立つものから切り落とされるのは心外ですよ。いやな時代になりました。金持ちは生きていてくれ、貧乏人は死ねという態度はどうしても許せない」
わたしたちの病院の考え方もまったく同じです
憲法で、日本人であればどんな境遇の患者さんも等しく治療を受けることのできる権利が保障されているにもかかわらず、実際はそれが遵守されていない時代です
彼はハーバードに学んで、ニューヨークの病院で研修を受けたために、厚労省指針違反を常に起こしています。指針通りに行うと、点数の出ない抗癌剤をただ投与し続けて、死を看取ることしかできません。でも、彼は最終ステージからでもオペを行います。それを藤田が後押しをして認めるんです。プラセボで金儲けをしたくないというのが藤田の方針ですから
「それが当たり前でなければいけないんですよ。ぼくも賛成です。点数の出ない治療でとても支払えないような高額な医療費を取って設ける。盗人猛々しいにもほどがある。治療は病院のためのものでも医師のためのものでもない。患者さんのためのものですよ。それを常に頭に置いた治療こそ医師のすべきことじゃないですか。指針違反で処罰されるなら、ぼくは賛同者をとにかくできる限り集めて、弁護士費用も着手金からすべて支払います。万が一の時は国と闘ってください。同じ考え方の医師もたくさんいます。1人が声を上げれば、彼らも立つでしょう。国の言いなりで患者さんを殺すために、ぼくらは医学を勉強したんじゃない。人を助けるためだったはずです。それを忘れた医師はすぐにでも辞職すべきです。正しいのは国じゃない、彼のほうですよ」
バンドのメンバーに呼ばれた医師はかばんを手にした。
「また、明日お会いしましょう。本番の天候がよくなるように祈ってますよ。彼らのデビューですからね。それでは、また明日」
札幌へお帰りですか?
「ええ、通いでやっています。ホテルの滞在も考えたんですが、PTAの負担を軽くするためには通いの方がいいんです。きょうから合同練習が始まったんですが、一週間のホテル代と通いの場合だと、高速料金の方が安いんですよ。それに2時間もかからない。バスの中で子供たちは互いに交流して絆を深めていきますから、通いが適当かと。バスは病院の患者さんの送迎用のバスです。土日が空くもので利用して」
先生があえて札幌からこの行事に参加しようと思われたのは?
「ご存知でしょうが、もうすぐ札幌の街はよさこいソーランで半狂乱になる。元はといえば土佐の高知からのパクリでしょう。子供たちにそれを正当化させたくないんですよ。いつもオリジナリティーを大切にして欲しい。それがひとつ。そして何よりの理由は、彼らに、やればできるという自信を植え付けてやりたいんです。彼らは日常生活の中では狡猾ないじめの対象にされている。たかが体育の時間を見学にするだけで。その境遇を跳ね除ける勇気を与えてやりたいんですよ。幸い、この病院のオーケストラも趣旨は同じだったので、姉妹提携を結んでお互いにあれこれ相談しながらやっています。そうしたらわずかですが、子供たちに変化が見えてきた。だから、この由緒ある大舞台で、さらに変えてやりたい。この行事はこの街だけのオリジナリティーですからね」
そう言い残して、医師は練習場を後にした。
彼がこの病院の、アネさんの大学の先輩である副院長謙理事長に怒られていた。
「ちょっと、院長室で2人きりで話をしない? 覚書を見ながら」
覚書というのは、彼がアネさんの下で医師を続けながら、他の同じような科目の病院でオーケストラを指導するために入り込むにおいて、医師と看護師の引き抜き行為に当たる言動は一切行わないという文章にアネさんと彼、そしてこの病院の副院長が自筆でサインをしたもの。
それを彼は破ってしまった。
オーケストラのリーダーと副長の2人の看護師に、ここより自分の病院の看護師の給与のほうが高いけど、ファッションとか携帯とかで悩むことがなくなるよ、と宣伝かたがた話した。
それがヘッドハント行為に当たると判断された。
ボケでは済まされない。
アネさんに恥を欠かせる行為だ。
院長が間に入ってなんとか丸く収めたが、それは院長としてではなくて、彼のラジコン友達としてのことだ。
わたしは恥ずかしくて、逃げるようにこっそりと練習会場を後にした。
病棟に帰ってから彼に訊いた。
やっちやいけないことをしたんだよね
「別に引き抜こうというわけじゃなくて、世の中にはピンキリいろいろあるんだと教えてただけ。教え好きだから、ぼくは」
明日はやめてよね
アネさんの顔を潰すことになるから
彼は誓いを立てた。
さてっと、譜面をさらっておこうか、EWIで。
もちろんノーマルのもので。
アイルトン・セナ仕様のは使えないよ、まだまだ。
もっと上達してkらじゃないと。
きょうの夕食から明日の夕食まで断食。
彼は夜食を作ったけど、佐橋看護師と3人で話の輪に加わったけれど、箸を持てないで。
話が何よりの食事だけどね。
アネさんは、札幌の医師にもらった資料で有頂天。
何でも肺癌のオペ後のリハビリに管楽器を取り入れることができないかを模索してるんだって。
わたしならEWIを薦める。
吹く息の強さを自由にコントロールできる。肺活量に合わせたセッティングをすればいいだけ。
明日が本番前の、全員でのおそらく最後の練習日となる。
4・1kmというのは中学の遠足以来の距離だ。
わたしの心配はアルトサックスを吹くことから、それだけの距離を歩けるかに変わっていた。
車が当たり前の生活がいけないんだよね。
ガソリンがめちゃくちゃ高騰してるから、歩けばいいのに。
本番の途中で、もう歩けませんは言えないよ。
「病院の宣伝をしてきて欲しい」という、アネさんの期待を裏切ることになるから。