きょうは彼との結婚記念日だった。
わたしと彼は、毎月1日を結婚(入籍)記念日にあてている。
正真正銘の記念日は4月1日。
ほんとうならば、1年に1度あるのが結婚記念日だろう。
そう思う人も少なくないと思う。
それが当たり前だから、まちがっていないよ。
じゃあ、どうしてわたしと彼が、毎月1日を結婚記念日としているのか。
答えは簡単。
医師だから。
医者と言う生き物はおかしなもので、患者さんと向き合うと、それだけに集中してしまってプライベートなんかどこかへ置き去りにしてしまう。
でも、結婚と言うのは人生のうちでものすごい転機だから、忘れたくはない。
それならいっそのこと月は無視して日にちだけで結婚記念日にしたらどうだ。
アネさんのその発言から始まったことで、2人ともその言葉に甘えた。
毎月1日の勤務終わりから、わたしたちの記念日は始まる。
記念日と言っても別に特別な料理やパーティーをするわけではない。
ウインドウショッピングをしておどけてみたり、ソフトクリームをなめてみたり、食事はしゃれたレストランなどではなく、ガストでもラーメン屋でもいい。
ただひとつ、心からのプレゼントを交換し合う。
高いからいい、とか安物だから心がないなんてことはない。
できるだけ実用性のあるもの。贈った相手がいつまでも大切に使ってくれるもの。
時として同じものが重なる場合がある。
例えばきょう。
お互いにパーカー3枚。
夏に1歩ずつ近づいてはいるものの、北海道は日によって気温の乱高下が激しい。
夏日になれば次の日は1桁気温となる。
そんなときにパーカーは欠かせない。
夜食の食材を買いに行く時も、エレベーターで行ってしまった病院食の代用を飼いに行く時も、とても機能的だ。
きょうはイオンのセールで、お互いのパーカーを選んで、それを贈った。
わたしはてっきり自分のパーカーを選んでいるものだと思っていた。
とにかくパーカーを語らせたらうるさいからね。
車を運転しながら、歩道を歩くパーカーの人を見かけると、着こなしがなってない、と怒り出す。
その人はごくノーマルな着方で、決しておかしくはないけど、彼は他人と同じ着方であることに対して言いたいことがある。
彼のパーカーの着こなしのテーマは、他人とは違う、オリジナリティー。
そんな着こなしでも周囲から浮かない着こなしを見せる。
彼のパーカーとの付き合いは高校時代のテニス部。
オフコートウェアにしていたのが始まりで、そろパーカーは、当時、彼がスタッフとしてついていた早見優さんから誕生日に贈られたものだという。
きょうは車のシートの後ろの荷物スペースにサックスのハードケースを積み込んだ。
きょうは久しぶりにジャズ・バーで彼の4ビートジャズが聴ける。
それがたまらなくうれしかった。
最近の彼は、できの悪い生徒にアルトサックスを仕込むことで手一杯になって、おまけにEWIまで教えながら、ZONEの新曲と取り組む日々が続いていて、ジャズを演奏する機会を失っていた。
ところで、ZONEの新曲は?
「ああ、見本版が届いてる。聴いてみる?」
カーコンポに入れてあるの?
「入ってると思うよ。入れた記憶がある」
彼はカーコンポを捜査した。
「あった。急ぎになって、ちょっと不満が残るんだけどね」
急ぎ?
「あー。ゴルフのサン・クロレラクラシック・カップのテーマになったから。毎年ウチの事務所でテーマを製作するんだけど、今年は再活動してるZONEに回ってきてね。会長の思いつき。こっちはCDなんか考えないで、東日本大震災のチャリティー・イベントなんかに出演してるから、新しいきょくがあったらいいね、程度で呑気に製作してたらいきなりで。カップリングは「SCERCRET BASE」を思い出させるようなナンバーにしてみた。そうしたらいきなり今年のサン・クロレラはZONEでいくから、って。続いて超高性能地上デジタルチューナーを取り付けることのできる、ゲーム&ブルーレイ再生機のメーカーさんが勝手にCDにすると決めて、急げっ!だ。6月6日緊急発売だよ」
タワーレコードで予約しないと
「しなくても買えるって。初回限定盤をね。AKBと違って所得税にやさしいから」
気分的にしたいの。そして5日の夜に取りに来るの
帰って看護師に伝えないと
ZONEファンが多いから
だけどZONEってこのままずっと活動すればいいじゃない
今年の大晦日までなんて言わないで、無期限に
「ありがと。まあ、スタッフも気が向けば続けるし、やめたほうがいいとなればやめる。そのくらいのスタンスの方がいいものができるから。この曲からMIYUとMAIKOのデュオになったからね、ZONEは。新しい展開を模索しながらこのままいってみるよ」
タワーレコードで予約を済ませてから、いつものショップでパーカーを選んだ。
「ったく、あんたはセールの時しか現れないね」
「いや、きょうは結婚記念日だから」
「はがきを見たからだろう」
「見たかもしれないし、見てないかもしれない」
「本当に全然成長しないね。もう2ヶ月で45だろう」
「結婚している45歳だよ、正式に言うと」
「勝手にしろ!」
あの、カード
今朝、届いたんで使ってもいいですか?
「あー無事に届いたんだ。よかった」
彼はすでにパーカーを見ている。
ハンガーを取って自分に合わせてみてから、値札を見ては戻す作業の繰り返し。
わたしはファッションに関してはデニム以外はわからないから、彼の戻した中から3枚選んだ。
「パーカーって言えばテニス部時代を思い出すよね。オフコートウェアにしたのはあんたが一番先だった。みんなはウィンドブレイカーでさ。いつだったか、サーブが相手のコートに落ちて、あの硬いクレーコートにめり込んだことがあったよね。そしてその穴を開けたあんただけでなく私まで穴を生めてコートにローラーをかけさせられた。それで通学電車に遅れて、酷い目にあった」
「なんでめり込んだんだろう」
「それだけの回転がかかってたから。あんたのテニスは変わってるんだよ」
「まあ人によっていろいろと」
「デラとのシングルマッチも、実は手を抜いていたんだよね。時効だからすべてを話したら?」
「前後左右よく動いたよね、あの人。確かに7割くらいかな。その後で吹奏楽局だから、テニスで体力を使うと、あとがキツイから」
「デラは真剣だったんだよ。他の部員がどれだけ八つ当たりをされたか」
「ぼくも授業の時にいいだけやられた」
「夢中になってボールを追いかけてたのに、いつの間にか医者か。わからないよね、世の中は」
「わからないのは、あの相撲部屋の親方みたいな総理だ。あれはメタボリックだよ、絶対」
それぞれがプレゼントを買ってから、2Fでソフトクリームをなめて、1Fでアネさんの晩酌用とわたしたちの間食用の中巻きを買って、イオンを後にした。
「立体パーキングは面倒だから、ちょっと歩きになるけどあっちの平パーにするよ」
平パーというのは、彼の国の言葉で、平地の入り口に監視員がいる駐車場。
彼はしっかりとハードケースを抱えて車を降り、精神科のすぐそばのビルの地下のジャズ・バーの扉を開けた。
「あれっ、偶然にメンバーが揃ってる」
「お前の来る時はなぜか揃うんだよ。やってくか」
「はい。彼女にソフトドリンクと、何か気の利いたものを」
彼はアルトを組み立てると、ステージに向かった。
店のいたる席から彼よりははるかに年上の人々が立ち上がり、ステージに向かう。
彼の耳元で何かをささやいた人がドラムについた。
いきなり彼の高速フレーズが飛び出した。
あとで彼から聴いたのだけれど、曲は「ドナ・リー」。
アルト・サックスの鬼才と呼ばれた伝説のサックス奏者、チャーリー・ヤードバーズ・パーカーの曲で、テンポは208。ビ・バップと言われる、それまでのダンスのためのジャズであったスイング・スタイルに飽きたジャズマンたちが譜面を捨て、一から十まですべて即興で行う新しい音楽を創造した。それが現代のジャズの主流である4ビート・ジャズの基盤となった。
どこかでかすかに聴いたような記憶があるんだけど、なかなか思い出せなくて、彼が高速のままアドリブに入った時に、シンバルの音が響いて、記憶が蘇った。
映画で聴いていたんだ。
クリント・イーストウッドがメガホンを取った『バード』。
チャーリー・ヤードバーズ・パーカーの伝記映画。
ちょっと難解だけど1人の天才サックス奏者ともう1人、仲間のトランペット奏者デイジー・ガレツピーが、当時流行していたスイングからの脱皮を画策して譜面に頼らないまったく新しいスタイルのジャズを演奏しだしたが、受け入れてもらえず、空回りの日々が続いた。
やがてチャーリーは胃潰瘍にかかり、痛みを和らげるための薬であるコデイン(塩酸ジヒドロコデイン)で痛みを和らげると同時に中毒症状に陥って、あらゆる幻覚に悩まされる。塩酸ジヒドロコデインは薬として、風邪や喘息などに用いられていた時代もあったが、麻薬の一種のため、幻覚を見て人を殺したり、習慣的になると家族の名前さえ忘れ、自分の妻が自分を殺そうとしているような激しい幻覚に襲われるため、現在では薬剤としての使用にいくつ者制限がかけられ、今では激しい咳の治療薬として、2種類販売されているが、14日を越える服用は禁じられていて、薬剤師のいる薬局でもほとんど見かけなくなった。
彼がすごく大切にしているDVDで観たんだけど、クラシックのみが正しいという倫理観を叩き込まれていたわたしには、音楽などどうでもよかった。ただ、チャーリーの生きた時代を考えると、胃潰瘍ではなく、完全な末期の胃癌だと思う。その時代にはまだ癌という病名は存在していなかったのだから。
やがて、トランペットとのユニゾンで曲はメロディーを取り戻し、終わった。
曲が変わった。
この曲ははっきりと憶えている。
「モナ・リザ」。
ナット・キング・コールという偉大な歌手のバラード。
彼はいくつかの英語を、相手によって使い分ける。
中にものすごくきれいな発音があってうらやましいと思っていた。
わたしの英語は受験のためのものであって、教科書で英語を覚えた学校の教師と進学塾の講師に植え付けられたものだ。いわゆる日本人英語で、アメリカやイギリスなどの英語圏ではまったく通じないもので、彼の英語に憧れていた。
ある日、とうとうわたしは彼に訊いた。
どうしてもあのきれいな発音を自分のものにするためだ。恥ずかしさなんか、ない。
すると、彼は1枚のCDを差し出した。
「この歌手の物まねをしてごらん。何の先入観も持たないで、ただ、真似るだけ。歌詞カードを見ながら真似ること。どんな英語の教材よりも、きれいな発音で話すことができるようになる」
わたしは彼に訊いてもらいながら、彼の言うようにしていた。
やがて、彼が、もう十分だよ、と言って、わたしの念願だった、ネイティブの中でも最高にきれいな英語習得作戦は終わった。
そんなことがあったことを忘れかけていた頃、彼と、彼の足跡をたどるニューヨークへの旅の時に、入国管理官の女性に驚かされた。
彼女は何度もわたしのパスポートとわたしの顔を見ながら、言った。
「あなた、本当に日本人なの。イギリス人よりクリアーな英語を話すけど、日本人でこんな英語を話す人はいないと思っていたわ。本当に日本人なのね」
ちょっと入国審査にもたついたけど、彼女はわたしの英語がイギリス人より美しいと言った。つまりはほめられたんだ。
その頃、彼はマシンガンを構えた警備員たちに囲まれてフリーズ状態にあった。
入国審査でパスポートを提示すると、本人確認作業として、必ず最初に名前を訊かれる。
パスポートが本人のものであるかを確認するためなのだろう。
彼はわたしに日本語で叫んだ。
「大失敗だ!思わずアメリカ時代のペン・ネームを言ってしまった。曲を書く時の奴。アメリカではそれが本名みたいなものだったから、つい。ぼくが撃たれたら、骨は日本へもって帰ってくれ」
これは計算したボケではない。
天延だ。
それから30分以上経って、やっと彼は解放された。
「イギリス人より美しい英語」
この言葉がずっと耳を離れないまま帰国して、思い出した。
あのCDの通りの発音で話していたことを。
慌ててCDを手に取った。
1500円。
1500円で、何万円もする人気プロゴルファーの習得したという教材や、何十万円もする駅前留学以上の効果をあげたなんて。
基本は口を大きく開けること。彼が言ったのはそれだけだ。
おかげで、今では自分の英語に多少の自信を持つことができた。
曲は、この世のものとは思えないような、美しいバラードに変わっていた。
これも知っている。
「ジプシー」。
チャーリー・ヤードバーズ・パーカーが幻覚で意識が朦朧としたままレコーディングスタジオにやってきて録音した曲。譜面どおりに演奏しても、ありきたりなバラードにしか聞こえない。
でも、彼はもちろん素面で、譜面の奥のその奥にあるものをつかみながら演奏しているのだろう。
きょうは若い女の子がいなくて内心ほっとした。
最近はジャズ・バーに入り浸る若い女の子が急増している。
「危ないにおいがしてなんか、かっこいい」
薄暗くて、女の子同士では入りにくい店ばかりだけどね、ジャズ・バーって。
わたしも、彼がいるから入ることができるけど、女性同士とか一人でとなると絶対無理。
EXEILEとかの方が、かっこいいでしょ、とわたしが訊くと、彼女たちは笑う。
「あんなのはガキの子守唄だよ。あれがかっこよく見えるなら眼科で検査してもらった方がいいと思う」
なんでこんな現象が起こるのか、マスターもただ驚くばかりだと言う。
EXEILEってものすごく売れてるみたいだけどね。
タワーレコードの邦楽部門のベスト3には必ず入ってるよ。
トップは彼の貯金を根こそぎ国に献上させるAKBグループだけど。
所得税の納付書を見て、わたしは悪寒が来た。
55600000万円。
銀行の窓口で、税務署に納付されるものは必ず信用金庫で支払わなければならないんだけど、所得税って、住民税と違って一括納付しなければならない。
彼は印税の振込先を都市銀行にしてるから、そこから引き出して、納付書が届いた次の日に信用金庫に厳禁と納付書を持ち込んだ。
納付書って大体27,8日に送られてきて、翌月1日が期限なの。1日でも過ぎると延滞金が派生する。だから納付書がきたらおとなしく直ちに支払うこと。
わたしは正直言って抵抗があった。
今の国に渡したら、政治家と官僚のお小遣いになるのは見えてるしね。
でも納税は国民の義務だから。
銀行でお札を数えるのに慣れているカウンターの女の子が、数えるのに20分。
何度も手で数えてから、最後は機械に入れて数える。
最初から機械に入れたらいいのに、まったく。
頭は死んだら使えないんだよ。
それで、銀行の名前がでかでかと入ったタオルを1枚くれて終わり。
わたしには50000000円もの現金を一括で納付することなんてできないね。
給与から目一杯天引きされて、そのうえに市民税だけであっぷあっぷ。
6月末に市民税の納付書が来るだろうけど、月割りか一括かでまだ悩んでる。
彼は市長に、一括納付の奴を贈ってくれと頼んだ。
市長は管轄外だから市役所の納税課へ言ってくれと答えた。
でも、彼は行く時間がないと突っぱねた。
こっちがまだ仕事中に市役所は閉まる。
ノー残業を合言葉に、残業を廃止したから、午後5時を過ぎると、ガードマンしかいなくなる。でも婚姻届は受理できるけど、そういう話は聴いてくれない。
彼は市長に、友達だろ、を繰り返し、伝えておくという言葉を引き出した。
「月割りのほうが支払いやすいよ。でも、支払い期限ぎりぎりに急患が入って緊急オペになんてなったら、支払えなくて延滞利息がつくし、翌日には督促状が来る。もういやなんだよ、督促状は、母親のことでいい加減いやな思いをしてるから。一括で納付すると1割安くなるの。それで白くまくんセヴンイレヴンプレミアムアイスが買えるから。だいたい信用金庫が遠すぎるんだよ、ここは。税金だけはATMで支払えないし。めんどうだから一括でいい。ぼくは白くまくんがいい」
彼はAKBとつきあいたくない。
でも事務所は儲かるから仕事を引き受ける。
難しいよね。
「ジプシー」を演奏し終えた彼がステージから降りてきた。
「きょうはこの辺で。リードが寿命でね。マスター、トマトジュース」
彼の目の前に1リッターのペットボトルとグラスが置かれた。
「セルフ・サービス。サービスも節電か」
彼はペットボトルからグラスに注ぐと一気に飲み干した。
「くわーっ、人生、この時のためにあるんだよねー」
どこかで聴いた台詞。
『新世紀エヴァンゲリオン』の葛城ミサトさん。
あれは缶ビールだったか。
ペットボトルを飲み干した彼は、
「さあ、そろそろ還りましょうか。オペが近いよ。休みはまたすぐくる」
駐車場までの道で、彼はふと立ち止まった。
歩行者天国で、夏祭りの看板をいじっている人がいる。
警官として注意するのだろうか。
「ちょっとそこのお兄さん、何やってるのよ、こんな時間に?」
看板の裏から顔を出したのは市長。
「何やってるのかはみたらわかるだろうが」
「看板をどうにかしてる」
「外してるの。午後9時以降は夏祭りの看板をはずすの。そうすると自転車通行可能になるから。朝6時にまた歩行者以外立ち入り禁止の看板を掲げるの。おまえもやらないか、朝の運動は身体にいいぞ」
「医者に向かって身体にいいぞとはよく言った。ぼくはガテンじゃないから、朝運動すると一日調子が悪くなるから無理だな。しかしもう夏祭りかよ」
「毎年6月1日からと決まってる。音楽大行進もあるだろう。あれも今は夏祭りの行事の一つだ」
「今年は何日?」
「6月9日。おまえ出るんじゃないの?」
どうなんだろう。何も聴いてない。一回は断った。緊急搬送があったり、担当の患者さんの容態が変わる可能性があるから」
「そうだよな。一分一秒が命取りだからな。それでこそ医者だよ」
「がんばってくれって出演者に伝えてくれよ」
音楽大行進。
吹奏楽が街の大通りを演奏しながら行進する。
下は保育所から警察、消防の音楽隊に自衛隊の音楽隊、各学校の吹奏楽部。そのおB,OGの団体。彼は航行の時からずっと連続出場を続けていた。去年もアネさんのOKが出て出場した。それを今年は患者さん優先に切り替えOBやOGで作られた団体からの出場依頼をを断った。
ちょうど、わたしの担当患者さんが、一事態委員中に容態が悪くなって、往診の甲斐もなく亡くなった夜だったからかもしれない。
「がんばれよ、ガテンのお兄さん。それじゃ、さよなら。あっ、歩行者以外立ち入り禁止ってことは救急車もダメなのか?」
「それは別だ」
「パトカーは?」
「時と場合によるな。実行委員長の判断だ」
「普通車はいいんだな」
「ダメにきまってるだろ」
「実行委員長の判断じゃないのか」
「普通車は誰がなんと言おうとダメだ」
「じゃあ、音楽大行進はだめだな。終点に車を置いて、バスで出発点の公園前まで以降と思ってたんだけど。出発点に臨時の駐車場ができるぞ。各団体のバスを置く場所を確保しないとな」
「4km行進して、同じ道を戻るとなると8kmか。やっぱりダメだ、ガテン系じゃないから」
「好きにしろ」
「それはそうと、この前の高額医療扶助制度のお世話になる患者さん、手続きがスムースに行ったと、ソーシャルワーカーが喜んでた。ありがとう」
「そうか、役に立ててよかった。何かあったらとにかく社会福祉部へ電話でいいから連絡をくれ。それと、もらったイチゴ、最高だよ。そのビタミンCでこうして動いても疲れない」
「怪我をしないように気をつけてやれよ。じゃあ、さいなら」
市長が夏祭りの看板を取り付けたり外したりか。
おかしな街だ。
自分の部屋に戻ると、ほっとする。
心が開放された気分とでも言おうか。
外の世界で遊ぶのはとても楽しいよ。楽しいけど、いつ救急搬送が、いつ自分の担当患者さんの容態が変わるとも限らない。それを伝える電話を絶えず気にしてるからね。
部屋の扉をノック。
出ると、アネさんだった。
「悪いな、いつも避けの魚を用意してくれて。イカのあぶりが合うんだよ。きのうのあわびの肝もよかったけど、あれだけのものは手に入らないだろう」
「そうですね。タイミングなんですけど、居酒屋に負けたり、いろいろと。また近いうちに手に入れますよ」
「ところでな、午後7時頃かな。あのー吹奏族とか言う団体から、ハンチョウと志村に9日の音楽大行進に出てくれないかとわざわざ訪ねてきたから、土曜日だし問題ないから出場すると伝えておいたから。これが譜面だと。ふたりで病院を宣伝してきてくれ、頼んだぞ」
アネさんは彼のベッドテーブルの上に封筒を載せて、部屋を出て行った。
わたしは無理だよ
「病院の宣伝なら仕方ないよ。世間ではここに入れられたら二度と出てこられない。近くを通っただけで結核が移ると言われてるんだよ。イメージアップに一役買おう。アネさんの頼みは断れないよ。会社法では上司の命令に逆らった場合は懲戒解雇できるとある。ここも会社だ」
今から無理だって、初心者で譜面についていくのだけで、音楽にならないから
「それは簡単なこと。吹いているまねだけでいいんだ。沿道の客から離れてるから指までは見えない。毎年、団体の人数を増やして大きく見せるために管楽器を触ったことのない連中を雇うんだ。弁当と打ち上げで。時間はまだ8日ある。きみならやれる。ちょっと気になる患者さんがいるから、様子を見てくるから、悪い。くつろいでいて」
どーすんの。
確かにこの病院の評判はよくないよ。この病院への紹介状を渡されたら、まず1ヶ月以上悩んでから、やっと、それもおっかなびっくりこの病院に来るからね。
元は結核の療養所だったから、近くを通ると結核が移るって言われてもしかたない。
でも今は道北地区の肺癌の治療技術の要点病院とされてるんだから、病院の世界では。
彼が台車に荷物を積んで戻ってきた。
患者さんじゃなかった?
「ごめん。実はこれ。いいものを見せよう。この箱を開けてごらん」
開けなくてもEWIだって書いてあるし
この前のライブのあとメーカーに点検を依頼したのが戻ってきたんでしょ
「この前使った奴はそのソフトケースとMacの隣のスタンドに立ててあるよ。いいから、あけてみて」
わたしは彼の言葉に従って箱を開けた。
えっ・・・・・・。
「面白いだろう」
マルボロカラーのEWI。
箱から出して梱包材を外すと先端にオレンジで1の文字が描かれている。
マルボロカラーで、オレンジの1と言えば、91年シーズンでアイルトン・セナがドライバーズ・ポイントを、チームはコンストラクターズ・ポイントを取った、あのマクラーレン・ホンダMP6/4.ナンバー1はセナだよ。
「T-スクェア二代目センターの本田くんはベネトンカラーのEWIを使っていた。これはメーカーとぼくからの記念日のプレゼントだ。USBタイプと音源内蔵タイプ両方同じデザインなんだ。ボディーの横を見てごらん。パイロット・ネームが刻まれてる」
確かにボディーの横にT・Shimuraと黒い文字で刻まれている。
音源内臓タイプもまったく同じだ。
このEWIを操るということは、わたしはアイルトン・セナなわけか。
隔月刊雑誌「THE SAX」を読んで、彼のくれた教則本で乗りこなして見せるよ、絶対。
じゃないと、天国のセナに申し訳が立たない。
サコちゃんは、もしかしてウィリアムズ・ルノーカラーとか、じゃ・・・・・・
「ぼくもマルボロカラーが増えたんだ。ただしナンバーはレッドの2.ゲルハルト・ベルガーだ。ナイジェル・マンセルを阻止しながら、自分のポイントを狙いに行くってとこかな」
またもやサプライズ・プレゼントで記念日は幕を閉じた。
わたしと彼は、毎月1日を結婚(入籍)記念日にあてている。
正真正銘の記念日は4月1日。
ほんとうならば、1年に1度あるのが結婚記念日だろう。
そう思う人も少なくないと思う。
それが当たり前だから、まちがっていないよ。
じゃあ、どうしてわたしと彼が、毎月1日を結婚記念日としているのか。
答えは簡単。
医師だから。
医者と言う生き物はおかしなもので、患者さんと向き合うと、それだけに集中してしまってプライベートなんかどこかへ置き去りにしてしまう。
でも、結婚と言うのは人生のうちでものすごい転機だから、忘れたくはない。
それならいっそのこと月は無視して日にちだけで結婚記念日にしたらどうだ。
アネさんのその発言から始まったことで、2人ともその言葉に甘えた。
毎月1日の勤務終わりから、わたしたちの記念日は始まる。
記念日と言っても別に特別な料理やパーティーをするわけではない。
ウインドウショッピングをしておどけてみたり、ソフトクリームをなめてみたり、食事はしゃれたレストランなどではなく、ガストでもラーメン屋でもいい。
ただひとつ、心からのプレゼントを交換し合う。
高いからいい、とか安物だから心がないなんてことはない。
できるだけ実用性のあるもの。贈った相手がいつまでも大切に使ってくれるもの。
時として同じものが重なる場合がある。
例えばきょう。
お互いにパーカー3枚。
夏に1歩ずつ近づいてはいるものの、北海道は日によって気温の乱高下が激しい。
夏日になれば次の日は1桁気温となる。
そんなときにパーカーは欠かせない。
夜食の食材を買いに行く時も、エレベーターで行ってしまった病院食の代用を飼いに行く時も、とても機能的だ。
きょうはイオンのセールで、お互いのパーカーを選んで、それを贈った。
わたしはてっきり自分のパーカーを選んでいるものだと思っていた。
とにかくパーカーを語らせたらうるさいからね。
車を運転しながら、歩道を歩くパーカーの人を見かけると、着こなしがなってない、と怒り出す。
その人はごくノーマルな着方で、決しておかしくはないけど、彼は他人と同じ着方であることに対して言いたいことがある。
彼のパーカーの着こなしのテーマは、他人とは違う、オリジナリティー。
そんな着こなしでも周囲から浮かない着こなしを見せる。
彼のパーカーとの付き合いは高校時代のテニス部。
オフコートウェアにしていたのが始まりで、そろパーカーは、当時、彼がスタッフとしてついていた早見優さんから誕生日に贈られたものだという。
きょうは車のシートの後ろの荷物スペースにサックスのハードケースを積み込んだ。
きょうは久しぶりにジャズ・バーで彼の4ビートジャズが聴ける。
それがたまらなくうれしかった。
最近の彼は、できの悪い生徒にアルトサックスを仕込むことで手一杯になって、おまけにEWIまで教えながら、ZONEの新曲と取り組む日々が続いていて、ジャズを演奏する機会を失っていた。
ところで、ZONEの新曲は?
「ああ、見本版が届いてる。聴いてみる?」
カーコンポに入れてあるの?
「入ってると思うよ。入れた記憶がある」
彼はカーコンポを捜査した。
「あった。急ぎになって、ちょっと不満が残るんだけどね」
急ぎ?
「あー。ゴルフのサン・クロレラクラシック・カップのテーマになったから。毎年ウチの事務所でテーマを製作するんだけど、今年は再活動してるZONEに回ってきてね。会長の思いつき。こっちはCDなんか考えないで、東日本大震災のチャリティー・イベントなんかに出演してるから、新しいきょくがあったらいいね、程度で呑気に製作してたらいきなりで。カップリングは「SCERCRET BASE」を思い出させるようなナンバーにしてみた。そうしたらいきなり今年のサン・クロレラはZONEでいくから、って。続いて超高性能地上デジタルチューナーを取り付けることのできる、ゲーム&ブルーレイ再生機のメーカーさんが勝手にCDにすると決めて、急げっ!だ。6月6日緊急発売だよ」
タワーレコードで予約しないと
「しなくても買えるって。初回限定盤をね。AKBと違って所得税にやさしいから」
気分的にしたいの。そして5日の夜に取りに来るの
帰って看護師に伝えないと
ZONEファンが多いから
だけどZONEってこのままずっと活動すればいいじゃない
今年の大晦日までなんて言わないで、無期限に
「ありがと。まあ、スタッフも気が向けば続けるし、やめたほうがいいとなればやめる。そのくらいのスタンスの方がいいものができるから。この曲からMIYUとMAIKOのデュオになったからね、ZONEは。新しい展開を模索しながらこのままいってみるよ」
タワーレコードで予約を済ませてから、いつものショップでパーカーを選んだ。
「ったく、あんたはセールの時しか現れないね」
「いや、きょうは結婚記念日だから」
「はがきを見たからだろう」
「見たかもしれないし、見てないかもしれない」
「本当に全然成長しないね。もう2ヶ月で45だろう」
「結婚している45歳だよ、正式に言うと」
「勝手にしろ!」
あの、カード
今朝、届いたんで使ってもいいですか?
「あー無事に届いたんだ。よかった」
彼はすでにパーカーを見ている。
ハンガーを取って自分に合わせてみてから、値札を見ては戻す作業の繰り返し。
わたしはファッションに関してはデニム以外はわからないから、彼の戻した中から3枚選んだ。
「パーカーって言えばテニス部時代を思い出すよね。オフコートウェアにしたのはあんたが一番先だった。みんなはウィンドブレイカーでさ。いつだったか、サーブが相手のコートに落ちて、あの硬いクレーコートにめり込んだことがあったよね。そしてその穴を開けたあんただけでなく私まで穴を生めてコートにローラーをかけさせられた。それで通学電車に遅れて、酷い目にあった」
「なんでめり込んだんだろう」
「それだけの回転がかかってたから。あんたのテニスは変わってるんだよ」
「まあ人によっていろいろと」
「デラとのシングルマッチも、実は手を抜いていたんだよね。時効だからすべてを話したら?」
「前後左右よく動いたよね、あの人。確かに7割くらいかな。その後で吹奏楽局だから、テニスで体力を使うと、あとがキツイから」
「デラは真剣だったんだよ。他の部員がどれだけ八つ当たりをされたか」
「ぼくも授業の時にいいだけやられた」
「夢中になってボールを追いかけてたのに、いつの間にか医者か。わからないよね、世の中は」
「わからないのは、あの相撲部屋の親方みたいな総理だ。あれはメタボリックだよ、絶対」
それぞれがプレゼントを買ってから、2Fでソフトクリームをなめて、1Fでアネさんの晩酌用とわたしたちの間食用の中巻きを買って、イオンを後にした。
「立体パーキングは面倒だから、ちょっと歩きになるけどあっちの平パーにするよ」
平パーというのは、彼の国の言葉で、平地の入り口に監視員がいる駐車場。
彼はしっかりとハードケースを抱えて車を降り、精神科のすぐそばのビルの地下のジャズ・バーの扉を開けた。
「あれっ、偶然にメンバーが揃ってる」
「お前の来る時はなぜか揃うんだよ。やってくか」
「はい。彼女にソフトドリンクと、何か気の利いたものを」
彼はアルトを組み立てると、ステージに向かった。
店のいたる席から彼よりははるかに年上の人々が立ち上がり、ステージに向かう。
彼の耳元で何かをささやいた人がドラムについた。
いきなり彼の高速フレーズが飛び出した。
あとで彼から聴いたのだけれど、曲は「ドナ・リー」。
アルト・サックスの鬼才と呼ばれた伝説のサックス奏者、チャーリー・ヤードバーズ・パーカーの曲で、テンポは208。ビ・バップと言われる、それまでのダンスのためのジャズであったスイング・スタイルに飽きたジャズマンたちが譜面を捨て、一から十まですべて即興で行う新しい音楽を創造した。それが現代のジャズの主流である4ビート・ジャズの基盤となった。
どこかでかすかに聴いたような記憶があるんだけど、なかなか思い出せなくて、彼が高速のままアドリブに入った時に、シンバルの音が響いて、記憶が蘇った。
映画で聴いていたんだ。
クリント・イーストウッドがメガホンを取った『バード』。
チャーリー・ヤードバーズ・パーカーの伝記映画。
ちょっと難解だけど1人の天才サックス奏者ともう1人、仲間のトランペット奏者デイジー・ガレツピーが、当時流行していたスイングからの脱皮を画策して譜面に頼らないまったく新しいスタイルのジャズを演奏しだしたが、受け入れてもらえず、空回りの日々が続いた。
やがてチャーリーは胃潰瘍にかかり、痛みを和らげるための薬であるコデイン(塩酸ジヒドロコデイン)で痛みを和らげると同時に中毒症状に陥って、あらゆる幻覚に悩まされる。塩酸ジヒドロコデインは薬として、風邪や喘息などに用いられていた時代もあったが、麻薬の一種のため、幻覚を見て人を殺したり、習慣的になると家族の名前さえ忘れ、自分の妻が自分を殺そうとしているような激しい幻覚に襲われるため、現在では薬剤としての使用にいくつ者制限がかけられ、今では激しい咳の治療薬として、2種類販売されているが、14日を越える服用は禁じられていて、薬剤師のいる薬局でもほとんど見かけなくなった。
彼がすごく大切にしているDVDで観たんだけど、クラシックのみが正しいという倫理観を叩き込まれていたわたしには、音楽などどうでもよかった。ただ、チャーリーの生きた時代を考えると、胃潰瘍ではなく、完全な末期の胃癌だと思う。その時代にはまだ癌という病名は存在していなかったのだから。
やがて、トランペットとのユニゾンで曲はメロディーを取り戻し、終わった。
曲が変わった。
この曲ははっきりと憶えている。
「モナ・リザ」。
ナット・キング・コールという偉大な歌手のバラード。
彼はいくつかの英語を、相手によって使い分ける。
中にものすごくきれいな発音があってうらやましいと思っていた。
わたしの英語は受験のためのものであって、教科書で英語を覚えた学校の教師と進学塾の講師に植え付けられたものだ。いわゆる日本人英語で、アメリカやイギリスなどの英語圏ではまったく通じないもので、彼の英語に憧れていた。
ある日、とうとうわたしは彼に訊いた。
どうしてもあのきれいな発音を自分のものにするためだ。恥ずかしさなんか、ない。
すると、彼は1枚のCDを差し出した。
「この歌手の物まねをしてごらん。何の先入観も持たないで、ただ、真似るだけ。歌詞カードを見ながら真似ること。どんな英語の教材よりも、きれいな発音で話すことができるようになる」
わたしは彼に訊いてもらいながら、彼の言うようにしていた。
やがて、彼が、もう十分だよ、と言って、わたしの念願だった、ネイティブの中でも最高にきれいな英語習得作戦は終わった。
そんなことがあったことを忘れかけていた頃、彼と、彼の足跡をたどるニューヨークへの旅の時に、入国管理官の女性に驚かされた。
彼女は何度もわたしのパスポートとわたしの顔を見ながら、言った。
「あなた、本当に日本人なの。イギリス人よりクリアーな英語を話すけど、日本人でこんな英語を話す人はいないと思っていたわ。本当に日本人なのね」
ちょっと入国審査にもたついたけど、彼女はわたしの英語がイギリス人より美しいと言った。つまりはほめられたんだ。
その頃、彼はマシンガンを構えた警備員たちに囲まれてフリーズ状態にあった。
入国審査でパスポートを提示すると、本人確認作業として、必ず最初に名前を訊かれる。
パスポートが本人のものであるかを確認するためなのだろう。
彼はわたしに日本語で叫んだ。
「大失敗だ!思わずアメリカ時代のペン・ネームを言ってしまった。曲を書く時の奴。アメリカではそれが本名みたいなものだったから、つい。ぼくが撃たれたら、骨は日本へもって帰ってくれ」
これは計算したボケではない。
天延だ。
それから30分以上経って、やっと彼は解放された。
「イギリス人より美しい英語」
この言葉がずっと耳を離れないまま帰国して、思い出した。
あのCDの通りの発音で話していたことを。
慌ててCDを手に取った。
1500円。
1500円で、何万円もする人気プロゴルファーの習得したという教材や、何十万円もする駅前留学以上の効果をあげたなんて。
基本は口を大きく開けること。彼が言ったのはそれだけだ。
おかげで、今では自分の英語に多少の自信を持つことができた。
曲は、この世のものとは思えないような、美しいバラードに変わっていた。
これも知っている。
「ジプシー」。
チャーリー・ヤードバーズ・パーカーが幻覚で意識が朦朧としたままレコーディングスタジオにやってきて録音した曲。譜面どおりに演奏しても、ありきたりなバラードにしか聞こえない。
でも、彼はもちろん素面で、譜面の奥のその奥にあるものをつかみながら演奏しているのだろう。
きょうは若い女の子がいなくて内心ほっとした。
最近はジャズ・バーに入り浸る若い女の子が急増している。
「危ないにおいがしてなんか、かっこいい」
薄暗くて、女の子同士では入りにくい店ばかりだけどね、ジャズ・バーって。
わたしも、彼がいるから入ることができるけど、女性同士とか一人でとなると絶対無理。
EXEILEとかの方が、かっこいいでしょ、とわたしが訊くと、彼女たちは笑う。
「あんなのはガキの子守唄だよ。あれがかっこよく見えるなら眼科で検査してもらった方がいいと思う」
なんでこんな現象が起こるのか、マスターもただ驚くばかりだと言う。
EXEILEってものすごく売れてるみたいだけどね。
タワーレコードの邦楽部門のベスト3には必ず入ってるよ。
トップは彼の貯金を根こそぎ国に献上させるAKBグループだけど。
所得税の納付書を見て、わたしは悪寒が来た。
55600000万円。
銀行の窓口で、税務署に納付されるものは必ず信用金庫で支払わなければならないんだけど、所得税って、住民税と違って一括納付しなければならない。
彼は印税の振込先を都市銀行にしてるから、そこから引き出して、納付書が届いた次の日に信用金庫に厳禁と納付書を持ち込んだ。
納付書って大体27,8日に送られてきて、翌月1日が期限なの。1日でも過ぎると延滞金が派生する。だから納付書がきたらおとなしく直ちに支払うこと。
わたしは正直言って抵抗があった。
今の国に渡したら、政治家と官僚のお小遣いになるのは見えてるしね。
でも納税は国民の義務だから。
銀行でお札を数えるのに慣れているカウンターの女の子が、数えるのに20分。
何度も手で数えてから、最後は機械に入れて数える。
最初から機械に入れたらいいのに、まったく。
頭は死んだら使えないんだよ。
それで、銀行の名前がでかでかと入ったタオルを1枚くれて終わり。
わたしには50000000円もの現金を一括で納付することなんてできないね。
給与から目一杯天引きされて、そのうえに市民税だけであっぷあっぷ。
6月末に市民税の納付書が来るだろうけど、月割りか一括かでまだ悩んでる。
彼は市長に、一括納付の奴を贈ってくれと頼んだ。
市長は管轄外だから市役所の納税課へ言ってくれと答えた。
でも、彼は行く時間がないと突っぱねた。
こっちがまだ仕事中に市役所は閉まる。
ノー残業を合言葉に、残業を廃止したから、午後5時を過ぎると、ガードマンしかいなくなる。でも婚姻届は受理できるけど、そういう話は聴いてくれない。
彼は市長に、友達だろ、を繰り返し、伝えておくという言葉を引き出した。
「月割りのほうが支払いやすいよ。でも、支払い期限ぎりぎりに急患が入って緊急オペになんてなったら、支払えなくて延滞利息がつくし、翌日には督促状が来る。もういやなんだよ、督促状は、母親のことでいい加減いやな思いをしてるから。一括で納付すると1割安くなるの。それで白くまくんセヴンイレヴンプレミアムアイスが買えるから。だいたい信用金庫が遠すぎるんだよ、ここは。税金だけはATMで支払えないし。めんどうだから一括でいい。ぼくは白くまくんがいい」
彼はAKBとつきあいたくない。
でも事務所は儲かるから仕事を引き受ける。
難しいよね。
「ジプシー」を演奏し終えた彼がステージから降りてきた。
「きょうはこの辺で。リードが寿命でね。マスター、トマトジュース」
彼の目の前に1リッターのペットボトルとグラスが置かれた。
「セルフ・サービス。サービスも節電か」
彼はペットボトルからグラスに注ぐと一気に飲み干した。
「くわーっ、人生、この時のためにあるんだよねー」
どこかで聴いた台詞。
『新世紀エヴァンゲリオン』の葛城ミサトさん。
あれは缶ビールだったか。
ペットボトルを飲み干した彼は、
「さあ、そろそろ還りましょうか。オペが近いよ。休みはまたすぐくる」
駐車場までの道で、彼はふと立ち止まった。
歩行者天国で、夏祭りの看板をいじっている人がいる。
警官として注意するのだろうか。
「ちょっとそこのお兄さん、何やってるのよ、こんな時間に?」
看板の裏から顔を出したのは市長。
「何やってるのかはみたらわかるだろうが」
「看板をどうにかしてる」
「外してるの。午後9時以降は夏祭りの看板をはずすの。そうすると自転車通行可能になるから。朝6時にまた歩行者以外立ち入り禁止の看板を掲げるの。おまえもやらないか、朝の運動は身体にいいぞ」
「医者に向かって身体にいいぞとはよく言った。ぼくはガテンじゃないから、朝運動すると一日調子が悪くなるから無理だな。しかしもう夏祭りかよ」
「毎年6月1日からと決まってる。音楽大行進もあるだろう。あれも今は夏祭りの行事の一つだ」
「今年は何日?」
「6月9日。おまえ出るんじゃないの?」
どうなんだろう。何も聴いてない。一回は断った。緊急搬送があったり、担当の患者さんの容態が変わる可能性があるから」
「そうだよな。一分一秒が命取りだからな。それでこそ医者だよ」
「がんばってくれって出演者に伝えてくれよ」
音楽大行進。
吹奏楽が街の大通りを演奏しながら行進する。
下は保育所から警察、消防の音楽隊に自衛隊の音楽隊、各学校の吹奏楽部。そのおB,OGの団体。彼は航行の時からずっと連続出場を続けていた。去年もアネさんのOKが出て出場した。それを今年は患者さん優先に切り替えOBやOGで作られた団体からの出場依頼をを断った。
ちょうど、わたしの担当患者さんが、一事態委員中に容態が悪くなって、往診の甲斐もなく亡くなった夜だったからかもしれない。
「がんばれよ、ガテンのお兄さん。それじゃ、さよなら。あっ、歩行者以外立ち入り禁止ってことは救急車もダメなのか?」
「それは別だ」
「パトカーは?」
「時と場合によるな。実行委員長の判断だ」
「普通車はいいんだな」
「ダメにきまってるだろ」
「実行委員長の判断じゃないのか」
「普通車は誰がなんと言おうとダメだ」
「じゃあ、音楽大行進はだめだな。終点に車を置いて、バスで出発点の公園前まで以降と思ってたんだけど。出発点に臨時の駐車場ができるぞ。各団体のバスを置く場所を確保しないとな」
「4km行進して、同じ道を戻るとなると8kmか。やっぱりダメだ、ガテン系じゃないから」
「好きにしろ」
「それはそうと、この前の高額医療扶助制度のお世話になる患者さん、手続きがスムースに行ったと、ソーシャルワーカーが喜んでた。ありがとう」
「そうか、役に立ててよかった。何かあったらとにかく社会福祉部へ電話でいいから連絡をくれ。それと、もらったイチゴ、最高だよ。そのビタミンCでこうして動いても疲れない」
「怪我をしないように気をつけてやれよ。じゃあ、さいなら」
市長が夏祭りの看板を取り付けたり外したりか。
おかしな街だ。
自分の部屋に戻ると、ほっとする。
心が開放された気分とでも言おうか。
外の世界で遊ぶのはとても楽しいよ。楽しいけど、いつ救急搬送が、いつ自分の担当患者さんの容態が変わるとも限らない。それを伝える電話を絶えず気にしてるからね。
部屋の扉をノック。
出ると、アネさんだった。
「悪いな、いつも避けの魚を用意してくれて。イカのあぶりが合うんだよ。きのうのあわびの肝もよかったけど、あれだけのものは手に入らないだろう」
「そうですね。タイミングなんですけど、居酒屋に負けたり、いろいろと。また近いうちに手に入れますよ」
「ところでな、午後7時頃かな。あのー吹奏族とか言う団体から、ハンチョウと志村に9日の音楽大行進に出てくれないかとわざわざ訪ねてきたから、土曜日だし問題ないから出場すると伝えておいたから。これが譜面だと。ふたりで病院を宣伝してきてくれ、頼んだぞ」
アネさんは彼のベッドテーブルの上に封筒を載せて、部屋を出て行った。
わたしは無理だよ
「病院の宣伝なら仕方ないよ。世間ではここに入れられたら二度と出てこられない。近くを通っただけで結核が移ると言われてるんだよ。イメージアップに一役買おう。アネさんの頼みは断れないよ。会社法では上司の命令に逆らった場合は懲戒解雇できるとある。ここも会社だ」
今から無理だって、初心者で譜面についていくのだけで、音楽にならないから
「それは簡単なこと。吹いているまねだけでいいんだ。沿道の客から離れてるから指までは見えない。毎年、団体の人数を増やして大きく見せるために管楽器を触ったことのない連中を雇うんだ。弁当と打ち上げで。時間はまだ8日ある。きみならやれる。ちょっと気になる患者さんがいるから、様子を見てくるから、悪い。くつろいでいて」
どーすんの。
確かにこの病院の評判はよくないよ。この病院への紹介状を渡されたら、まず1ヶ月以上悩んでから、やっと、それもおっかなびっくりこの病院に来るからね。
元は結核の療養所だったから、近くを通ると結核が移るって言われてもしかたない。
でも今は道北地区の肺癌の治療技術の要点病院とされてるんだから、病院の世界では。
彼が台車に荷物を積んで戻ってきた。
患者さんじゃなかった?
「ごめん。実はこれ。いいものを見せよう。この箱を開けてごらん」
開けなくてもEWIだって書いてあるし
この前のライブのあとメーカーに点検を依頼したのが戻ってきたんでしょ
「この前使った奴はそのソフトケースとMacの隣のスタンドに立ててあるよ。いいから、あけてみて」
わたしは彼の言葉に従って箱を開けた。
えっ・・・・・・。
「面白いだろう」
マルボロカラーのEWI。
箱から出して梱包材を外すと先端にオレンジで1の文字が描かれている。
マルボロカラーで、オレンジの1と言えば、91年シーズンでアイルトン・セナがドライバーズ・ポイントを、チームはコンストラクターズ・ポイントを取った、あのマクラーレン・ホンダMP6/4.ナンバー1はセナだよ。
「T-スクェア二代目センターの本田くんはベネトンカラーのEWIを使っていた。これはメーカーとぼくからの記念日のプレゼントだ。USBタイプと音源内蔵タイプ両方同じデザインなんだ。ボディーの横を見てごらん。パイロット・ネームが刻まれてる」
確かにボディーの横にT・Shimuraと黒い文字で刻まれている。
音源内臓タイプもまったく同じだ。
このEWIを操るということは、わたしはアイルトン・セナなわけか。
隔月刊雑誌「THE SAX」を読んで、彼のくれた教則本で乗りこなして見せるよ、絶対。
じゃないと、天国のセナに申し訳が立たない。
サコちゃんは、もしかしてウィリアムズ・ルノーカラーとか、じゃ・・・・・・
「ぼくもマルボロカラーが増えたんだ。ただしナンバーはレッドの2.ゲルハルト・ベルガーだ。ナイジェル・マンセルを阻止しながら、自分のポイントを狙いに行くってとこかな」
またもやサプライズ・プレゼントで記念日は幕を閉じた。