きょうほど精神的にぼろぼろになった日はない。
 例えば十数時間のオペの前立ちをしたとしても、こんなにズタズタにはならない。


 きょうは4F病棟の女性スタッフすべてに、子宮頸がんワクチンの摂取があった。
 わたしは紺野看護師と2人で巡回を行っていた。
 「おい、紺野と志村、巡回を早く終えてスタッフ・ステーションに戻れ!」
 スタッフステーションの中からアネさんが叫んだ。
 
 わたしたちは患者さんの、いつもの世間話には付き合わずにスタッフステーションへ戻った。
 ナベちゃんが、人間静脈&血管探知機の看護師に注射をされている。
 彼はイスをくるくる回しながら、看護師長と話していた。
 「師長も受けるべきですよ。低年齢化が著しいんですから。特に症例の9割弱が20代と30代ですから、20代は受けておいて損はないですよ。費用は全額病院持ちなんですから」
 「私のどこが20代だっていうの?」
 「えっ、ご冗談を。ぼくはてっきり25,6歳だと」
 看護師長は笑いながら、彼のところへやってきて背中を思い切り叩いた。
 「アネさんは永遠の20歳ですもんね」
 「そうだ。ハンチョウ、よくわかったな。安田講堂で、30mしか飛ばない警察の高圧放水車に負けたところで私のすべてが止まったんだ。だから私も受ける」
 アネさんはケタケタと笑った。
 「おう、紺野ちゃん、次は順番だからな」
 何の?。
 「この病院ではサーバリックスなんですか。2価HPVのHPV16とHPV18型。イギリスのグラクソ・スミス・クラインか。皇室の結びつきが強いから。でも、ガータジルを使う病院もあるってことだ」
 「ないよ」
 アネさんは言った。
 「あれは不思議なんだよ。医師会では厚労省の許認可があるとしているけど、厚労省では認可していないと回答している。だから、使用している病院もあれば、厚労省で推薦しているサーバリックスだけを使用する病院もあるんだ。ガータジルを投与した女子中学生が死亡する事故があって、サーバリックスのほうが安全だという神話が増えたんだ」
 なるほど、子宮頸がんワクチンの季節か。
 わたしには無関係だよ。
 去年から。
 子宮がないんだから。
 「ぼくがアメリカにいた時は毎年ガータジルを受けてましたけどね。ハーバードの医学部では義務とされていました。日本円で5万円っていうのがつらいですけど、義務なら仕方ないでしょう」
 「男性で子宮頸がんワクチンを義務化するって?」
 「ガータジルはHPV6、HPV11、HPV16、HPV18型の4価HPVワクチンであるだけでなく、尖圭コンジロームと肛門癌に効果が認められているので、肛門癌ワクチンとしての扱いです。それが効いたのかどうかわかりませんが、大腸まで癌がいったのにそこから先へは進みませんでした。だけど、サーバリックスもガータジルも危険性という点では変わらないと思うけどな。どっちもアジュバンド(免疫増加剤)が添加されてるんだし、アジュバンドの長期的な副作用についてはまったくわかっていない。アメリカでは9歳からのワクチン投与が望ましいとされていて、特に若年層には、HPV6とHPV11がプラスされた4価のHPVワクチンのガータジルを投与します。まあ、何が違うって言えば、接種痕の晴れがサーバリックスのほうが酷いってくらいで、短期的に出る副作用の発赤、悪心、嘔吐、下痢、腹痛などの胃腸症状。おまけに血管迷走神経性失神はどちらにもある。大きな違いはガータジルは9歳からの投与もOKだけど、サーバリックスは10歳以上とされている点だけで。アジュバンドはサーバリクスが最新だけど、水溶性のものと油性のものを混合抽出しただけで、水溶性の特徴である人間の脳に与えるダメージ、例えば脳炎のような症状などは残されたままで、油性の特質である、人体の性質として、有効成分を包み込むことによっておきる血腫や肉腫の形成もいまだになにも解明されていない。去年は確か、血管迷走神経性失神と胃腸症状に苦しんだ看護師が数名出ましたね。投与後一時間はイスに座らせ休ませれば、それらは防げます。胃腸症状が出たら、同じグラクソ・スミス・クラインの臭化ブチルスコポラミンで、嘔吐にはプリンへランで対応しましょう」
 「あれはやっぱり単なるめまいじゃなくて血管迷走神経性失神だったのか。よし、ハンチョウのプラン通りにする。何組かに分けよう。今回は志村で最後。あとは明日だ」
 わたしは受けません
 「だめだぞ、義務だ」
 わたしは適用範囲外です
 何のために受けるんですか
 わたしには子宮はないんですよ、もう!
 「あっ、志村、ごめんな。悪かった。摘出したのは私だ。本当にごめんな許してもらえなくてもいい。ただひたすら謝るのみだ」
 いいんです
 わたしもつい
 配膳カートがきましたね
 看護師がやる配膳を彼としてきます
 「私もいく」
 「私も20代なら配膳をしないと」
 アネさんと看護師長も加わり、4人で患者さんの元へ昼食を配った。
 病室と名前のカードがついているため誰にでもできる単純作業だ。
 そして最後は自分たちのを降ろして、エレベーター付近にカートを停める。
 今度は食べたら食器を集めて回らなければならない。
 気の利いた患者さんだと自分でカートに戻してくれるのだけど、上げ膳据え膳は少なくない。
 家庭ではそんなことはさせてくれないだろうから、入院中くらいはね。
 
 昼食を彼と摂りながら正直な彼の気持ちを訊いた。
 ほんとうに子供はいらないの?
 「ストレートだね。できても作らない。ぼくは冗談じゃなく子供が嫌いなんだ。火事の時は足手まとい、離婚の時は悩みの種、いつも一家の問題児、そんなお荷物みたいな、そんな宅急便みたいな、そんな子供たちが嫌いなんだ。それはジョークとして、ぼくは離婚家庭の子供で母子家庭で育った。だからいじめという形でいつも疎外されてきた。みんな汚物を見るような目でぼくを見るんだ。今でこそシングルマザーだなんてかっこいい言葉ができているけど、ぼくの頃は違ったし、シングルマザーと言う側は流行みたいな口ぶりだけど、言われる側のつらさも苦しみもなにもわかっちゃいない。絵に描いた家族なんて机上の空論だよ。間に子供がはいるだけで全てが崩れるんだ。離婚の時の一番の犠牲者は子供。何の罪もないのに、親権の取り合いで両腕をあっちこっち引き回される。子供の立場で言わせてもらえば、産まないでくれればよかったよ。だから絶対に子供はいらない。離婚の原因の第一段階は、子供ができると、それまでは夫に愛情を注いでくれた妻が母親になって、子供一途になる。夫はほったらかしだ。人間は両方を同時に気にできるほど器用にできてはいない。夫は疎外された気分になって、外に愛情を求める。浮気だ。そして引くに引けないところまでは一直線だ。そして家庭が音を立てて崩れる。経験した者にしかわからないんだよ。ぼくは絵に描いたような家庭を作る自信がない。絵に描いた家庭がどんなものかを知らないからね。ただ、きみと寄り添って生きることはできる。だからそうしよう」
 わかった
 じゃあ、以後、子供の話はしない
 「うん」
 正直に言って、わたしは彼の遺伝子を何とかして残したい。
 とは言っても、大ボケのほうはいらない。
 医師としての腕、不可能なオペを可能にするあの腕を次の世代に残したい。
 
 「あー、しまった、大事なことを忘れてた」
 彼はMacに向かい、プリンターから3枚の用紙を出力して、病室を出て行った。
 わたしは、つけっぱなしのディスプレイを覗いた。
 タイトルの下に彼の名前が入っている。
 英語の小論文か。
 「製薬会社が外部に隠し通すHPVワクチンの長期的副作用について」
 悪いとは重いながら、先を読んでしまった。
 HPVワクチン投与者の約10%に不妊症がみられる!。
 不妊治療を行っている患者さんの約10%がHPVワクチン投与者である。
 マウスによる実験結果で、HPVワクチンを投与したものと、しないものを比較した場合、HPVワクチンを投与したマウスにのみ、自然妊娠の兆候が見られない。さらにHPVワクチンを投与したマウスに人工授精を施したが、子宮内の胎児が腐敗してしまった。
 さらに、アジュバンドをワクチンから遠心分離し、ワクチンのみを投与したマウスとアジュバンドのみを投与したマウスに人工授精を施したが、アジュバンドを投与したマウスは7ヵ月後に脳炎症状を引き起こし死んでしまった。解剖して胎児を取り出すと、やはり腐敗していた。
 ワクチンのみを投与したマウスは人工授精1年後も胎児が育っていないことが確認された。
 以上のことから見て、人間の脆弱性はマウスの五倍であるから、HPVワクチン投与後は十分な観察が必要とされる。パッチテスト後の投与が望ましい。

 子供を産める体を維持するためのワクチンが子供を埋めない体を作り出す。
 
 これが公になれば、厚労省は全力で彼を潰しにかかるだろう。

 部屋のドアがスライドした。
 わたしはびくっとしてとっさの言い訳を考えた。
 「見て悪いものじゃないよ。だったら、電源を落としてから出て行く」
 これ、ほんとに
 「ああ、アネさんも噂としては知っていたよ。ただ、もう数名に投与してしまったし、厚労省の命令はいくらでも無視するけど、しばらく考えさせて欲しいって。ぼくらはカンファレンスのことを考えた方がいいみたいだ。今週の出席医師はぼくときみになってた。アネさんのデスクの上のペーパーを見てしまったんだ」

 カンファレンス。
 ある実際の症例をテーマに看護師が意見を交し合う討論会。毎回医師2名と、臨床心理士1名が出席しなくてはならない。
 「ウチの安積が初めて出席するからよろしくね」
 新人らしくない新人さんでもカンファレンスはうまくいかないと思うけど、何事も経験だから
 この言葉を言ってしまったことを、わたしは後悔した。

 ウチのチームは佐橋看護師だったから、おそらく彼女の一人舞台になるだろうと予想していた。いつもは彼女の知識力が場を制する。医師並みの知識を持ってるからね。
 ところがきょうは違った。
 安積看護師だ。
 とにかく彼に矢継ぎ早に疑問を投げかける。
 それはまるでゴジラ×機龍(メカゴジラ)の戦いのようだった。
 彼との論戦に夢中になり、わたしは眼中にない。
 世紀の決戦を楽しませてもらおう。
 「志村先生」
 嘘。
 今度はわたしに向かって、彼と同じ質問を浴びせかける。
 何とか答えると、今度は答えに対する質問をぶつけてくる。
 整然とした答えを聴くまで、質問はやまない。
 佐橋看護師も唖然として見ている。
 看護師にいじめられるダメ医師の構図。
 それでも、時間の助けがあって、なんとか乗り切った。
 でも、もうボロボロだよ。
 すっかり燃え尽きた。

 「彼女、いい看護師になりますよ」
 佐橋看護師が言った。
 「2人をあそこまで追い詰めたのは、この病棟で彼女だけですから」
 「今度はカンファレンスのマナーを教えておくから」
 「それはルール違反です。お互いに言いたいことをぶつけ合って症例の患者さんに適した看護と患者さんに適した治療をできるようにするためのカンファレンスですから」
 「だとしたら、できすぎた看護師だよ、安積は。佐橋さんと同じ」
 「何言ってるんですか。照れるじゃないですか、もう」
 佐橋看護師は彼を思い切り突き飛ばした。
 彼は思い切り面会棟のドアにぶつかった。
 彼女の唯一の弱点。それは力の加減ができないこと。
 ベッドごと患者さんを持ち上げるだけの力を抑えることができない。
 わたしは注意はしない。
 完璧な人間なんて気持ち悪いでしょ。


 「・・・・・・」
 えっ?
 「ラーメン食べたくなった。ブログ書いてるの?」
 ・・・・・・
 「ウチの安積がごめん。ぼくがおごるから、とんとろチャーシューメンの店に行かないか。今からでも十分間に合う。オーダーストップは午前2時30分だからね」
 「ぼくが助け舟を出そうとすれば制止するし、今度の時までに対策を練っておくから」
 いいよ、そんなの
 彼女には病棟一の看護師になってほしいから
 未熟なのはわたしの方
 じゃあ、大盛りをゴチになります
 「行こう!」