午後3時、彼の執刀するオペが始まりました。
 
 開始時間が何時だろうと、彼はオペが終わるまで食事をしないんです。
 機能性ドリンクで水分を摂るだけ。
 食べると眠気が出る可能性があるってことなんですけどね。
 そこまでストイックになれるんです。

 手順書では肋骨の両側の間を切開して、そこから腫瘍を取り出すとなっているんですけど、果たして、7cmにまで肥大している腫瘍をそこから取り出せるかどうか。
 原型を崩してしまえば、腫瘍が他の部位に散って、至る所から癌が出てくる可能性もあるし、それは絶対に許されないことですから、

 いよいよ切開が入りました。
 いつものように片手が入るくらいしか切開しないんですよ。
 左利きなので、そこから左手を入れて、内視カメラを見て、実際の腫瘍の位置を確認。
 骨浸潤(腫瘍が骨にとりついて、骨を溶かす症状)が何箇所かをCTで確認。
 3箇所。ここもきれいに腫瘍を削ぎ取らなければならないけど、メスでは難しいから、何か考えないと。
 彼の手が腫瘍を剥がしにかかって、一旦止まりました。
 「メスをお願いします」
 わたしがメスを渡すと、左手に握り、内視カメラだけを見て片手だけを切開部に入れて接合部をメスで器用に剥がします。
 全部剥がし終えて、「ふー」と一息。
 「浸潤部入ります。ルーターをお願いします。ビットはやすりで」
 ルーター?。
 オペ室長が彼に小さなルーターを渡しました。
 電池式で電池ボックスから伸びたコードの先にアイスキャンデーのような円柱のやすりがつけられたものです。
 やはり左手に握り切開部に入れます。
 「浸潤部にカメラをお願いします」
 わたし。まかせなさい。
 「よし、その位置を確保」
 内視カメラだけは誰にも負けないからね。
 彼は浸潤部に残っているかもしれない腫瘍の残骸を剥がすためにルーターで骨ごと削るんだ。
 骨は腫瘍が消えればまた元の形にもどるから。
 骨折がくっつくのと同じ原理でね。
 削りすぎて折れないように慎重に表面をなでるようにして削っていきます。
 3箇所を削ったところで、
 「甘子お願いします」
 室長が監視を渡すと、両肋骨の間に差し込み、開きます。
 基本的なX型だから、ハンドルを開けば、肋骨についている部分が開く。つまり肋骨の両側が開く仕組み。
 なるほど、肋骨を一時的に広げてそこから、出した出した。
 きれいに原型を留めてる。成功だよ。
 「シャーレをお願いします」
 わたしは差し出した。
 腫瘍が乗った。って7cmにもなるとけっこう重たいね。
 「カメラで確認をお願いします」
 はいはい。
 ゆっくりカメラを操作して彼が確認できるようにします。
 「よし。大丈夫ですね。取り残しなしでいいでしょう。それではこれでオペを終了します。ありがとうございました」
 彼はいつものようにスタッフ一人一人に頭を下げて回った。わたしはカメラを患者さんの鼻から抜き、彼は家族に説明をするためにオペ室を後にした。
 午後5時45分。
 きょうもまた病院食はお預けだね。
 ドンキの握り寿司だ。
 問屋さんが直接テナントに入っているおかげで、ネタがいい。
 コープは、午前1時頃に作って全店舗に朝5時に配送して、午前10時の開店とともに店に出される。だから午後6時を回った頃には、ネタの鮮度が落ちてふちなんか干からびてる。
 ドンキは売り場で作って2時間おきに商品を取り替えていくから、新鮮なネタが食べられる。ちょうど、午後6時が入れ替えの時間だからね。

 きょうのオペはちょっと特殊だった。
 家族の同意書がとれないままにオペを強行した。
 オペって、保険適用外治療の中で、最高に高額だから、家族としてもオペを望むんだけど、支払いができない。だからオペはいらないって。
 まだ21歳の女の子だよ。
 これからいろんな夢もあるだろうし、恋愛もしたいと思う。
 オペをしなければ、それらを犠牲にして短い生涯を閉じなければならない。
 それを彼は強行した。
 アネさんが、親との話し合いはまかせろ、どうにでもできるって。
 だから家族に説明するのも気が重たいと思うよ。
 オペ室の片づけをすべて終えて出て行くと、家族が患者さんのストレッチャーに付き添って病室まで、エレベーターで昇っていった。
 安積看護師がオペを見学したいと申し出て、深夜勤なのにオペ室についていた。そして、宇野看護師を4Fから呼び出し、2人でストレッチャーを押していった。
 やる気もあそこまでいくとすごいよね
 さすがは誰かさんの娘だけある
 「ドラマと一緒にしないでくれる。病棟にそんな噂が広がったら、ぼくの信用はゼロになるから」
 冗談
 でも、彼女はいい看護師になるよ
 「この前、巡回の時に訊いたんだ。彼氏は、って。彼女は即座に答えたね。彼氏がいたら看護師はできません。仕事中に考えるでしょう。それじゃあいい仕事はできませんから。わたしは彼氏も結婚もNOだと結論を出したから、看護学校に入ったんです」
 すごいね
 わたしも、恋愛も結婚もあきらめて医師になるって決めて医学部へ入ったけど、しちゃいました、結婚
 「世の中いろいろあるさ。彼女だって、まだ新人だから余裕がないのかもしれない。でも年月を重ねたら、人の考えなんて変わるものだから」
 ねえ、きょうのオペは純粋に医師として必要性を感じたから行ったの?
 「他に何があるの」
 21歳の乙女の胸をはだけて行ったわけでしょう
 男性的興味ってこともあるかなと思って
 「ぼくはきみ以外は女性として見えてないから。男性的興味でオペを決めるようになったら、医師は辞めるよ」
 その言葉、おぼえとく
 
 病室に入ると家族が付き添っていた。
 麻酔科長も来た。
 さらにアネさんと事務長も。
 患者さんの目が覚めた。
 「麻酔科長の計算ジャスト。特殊能力だなここまでくると」
 彼はつぶやいた。
 「わたし、誰だかわかる?」
 安積看護師は呼びかけた。
 「安積さん・・・・・・でしょ」
 「当たり。気分はどう?」
 「わたし、もうオペは?」
 「終わったよ。これが証拠」
 彼女は腫瘍の入った瓶を見せた。
 「7cmを越えてたんだって。それを形を崩さないで摘出したんだよ。身体がものすごく軽くなると思うよ。オペは大成功。あとは夢を実現するだけだね。絶対この病棟に戻ってきてよ。後輩になるけど同じ年齢だからタメでいいから」
 「事務長、あれ」
 アネさんが言うと事務長はA4サイズの封筒を彼女に渡した。
 「日本赤十字看護学院」
 看護学校?
 「願書は後日お渡ししますから、パンフレットの内容を、暇な時にめくってください」
 患者さん、看護師になりたいの。
 あー、得意のやつだ。
 「保険適用外治療はタダにするから、この病棟で働いてくれ」って。
 彼にも使った手。
 成功すると味を占めるからね。
 それで親を納得させたんだ。
 アネさんらしいよ。

 完全に麻酔が覚めて、危険は去ったので、家族だけにして病室を出た。
 「あいかわらずすごいですね。計算どおりじゃないですか」
 彼は麻酔科長に言った。
 「うん、仕事だから」
 「この特殊能力があるから退職できないんですよ」
 「今度はわざと失敗する?それもできないよね」
 「ダメだよ、科長。病院の廊下でぶっ倒れて息が絶えるまでここから出られないからな」
 アネさんは言った。
 「やっぱりね。そうだと思った」
 「腕を買われてるんですよ、うらやましい」
 彼はこっそりと言った。
 「いやー、あのね、ウチのカミさんがね、口を聞いてくれないのよ。退職金が万度のときに辞めるって言ってたから。それができないとわかると、完全に無視。帰り道に、このままふらっと遠いところへ行ってしまいたいと思うことが多くなってきたんだ、最近」
 「ダメですよ。明日はオペデビューの医師がいるんですから。ぼくはとことん彼女に尽くしますから、科長もお願いします」
 「わかってるよ。じゃあ、帰るわ。息苦しいけど」
 麻酔科長は階段をとぼとぼ降りていきました。

 「アネさん、また例の手を使ったんですね」
 彼は言った。
 「例の手でも猫の手でも使うぞ。医師は不足だわ、看護師はそれに輪をかけて足りないわ。今は正攻法でいっても医師も看護師も集まらないの。集めるためにはどんな手でも使うぞ」
 「でも、彼女が看護師になりたいだなんて、担当医でも知りませんでした」
 「安積が聞き出したんだよ。同じ年齢だっていうから、何でも気軽に話すんだろうな。すごい新人看護師だよ、彼女。将来性がある。ハンチョウのチームに預けて正解だった」
 「いえ、そんなことは」
 完全にアネさんの手玉だね。
 「あっ、これ、同意書。紙カルテに閉じてくれ。ちゃんと担当医のサインも入れてだよ」
 彼は同意書を受け取り、サインをしてから紙カルテに閉じこみました。
 「私、深夜勤なんで、寮でもう一眠りしてきます」
 安積看護師は軽く頭を下げてから階段を降りていった。
 スタッフ・ステーションの外を、病院食を手にした宇野看護師が通った。
 「どうした、引継ぎは終わったんだろう」
 彼は声をかけた。
 「オペの患者さんの夕食ですよ」
 「ぼくらのは?」
 「えっ、ああ、行っちゃいました」
 彼はデスクに突っ伏した。
 「あのボケ・・・・・・・実家、実家・・・・・・言っちゃだめだ、言っちゃダメだ、くそっレジ打ち・・・・・・だめだ」
 いいって、ドンキでお寿司買ってこよう
 「わたしもそうする。事務長と話してて食いそびれた」
 アネさんも看護師をスカウトするのに夢中で食事を忘れたんだ。
 病室帰りの宇野看護師を彼は捕まえた。
 「早く寮へ戻ってレジ打ちをしな、いや、明日に備えなさい」
 「レジ打ちね。言いたいことはわかるよ、兄貴。でも、思考能力がばらばらみたいだから、志村先生のお父さんに診察してもらえば」
 「うるさい!」
 宇野看護師は走って階段を駆け下りていった。
 準夜に入るナベちゃんが笑う。
 「あの子、小さい頃から変わってたからね。性格って一生直らないっていうけど、ほんとだね、あんちゃん」
 「あいつは特別。実家のコンビニでレジ打ちをしてればいいのに、なんであんなやつが看護師になれたんだか」
 「街で一番大きい酒屋さんだったのにね。ワインに手を出して、セイコーマートと競合して価格競争で負けたんだよね。お酒を出す店も不景気で片っ端から夜逃げをするし。幸いウチは競争相手がいないから、兄貴が継いでなんとかやってるけど」
 「渡辺商店といえば右に出るものはいないから。おじさん、元気なの、加藤の。このごろ仕事をする機会がなくて」
 「元気すぎて、なんか正月に久しぶりに帰ってきて、ウチの親と大喧嘩したとか」
 ナベちゃんのお父さんは老舗の穀物店の次男。
 長男は、ウチの彼のお母さんの高校時代のクラスメイトで、演劇と合唱に夢中で、大学を出たら、そのままフジテレビに就職して、婿養子に入り、『昆虫物語みなしごハッチ』『けろっこデメタン』『科学忍者隊ガッチャマン』そして『妖怪人間べム』などのヒットアニメをプロデューサーとして手がけ、その後、退社して制作会社を作り、たくさんのアニメやドラマを作っている。彼の裏の顔を恐ろしいほど正確に描いた『ジョーカーー許されざる捜査官ー』などの製作も行っていて、彼にも随分と仕事を回してくれた。
 長男なのに家を出て婿養子に入ったのが今でも後を引きずって、次男なのに家を継がされたナベちゃんの両親と揉めているという。
 わたしはナベちゃんの叔父さんの仕事についてほとんど知らなかった。でも、彼がDVDを観せてくれて、いろいろ教えてくれた。『ガッチャマン』は実はフジテレビで5年にわたって放映されたアクションドラマ『忍者部隊月光』のリメイクであったことも、『妖怪人間ベム』は日本でシナリオを書き、製作作業はすべて韓国で行った初の逆輸入アニメだったこと。
 『ジョーカー』はリアルタイムでほんのわずか観て、彼のDVDで全てを観ていた。観ると彼の顔色が変わるのが不思議だったけど、後でその理由を知った。

 「向かいのやまとスーパー。あれ、いい加減に取り壊した方がいいのにね。壁が崩れて危険だよ」
 「羽賀のおじさまも亡くなったしね。もうあの当時の商店街の面影は全然なくて。人手がすごかったのにね」

 「さてと、夕食を買ってきますか。宇野にはやられるよ、いつも」
 「技術的には最高点だけどね。行動にちょっと」
 彼とナベちゃんは顔を見合わせて笑った。

 やっぱり、ドンキだね。彼の目にかなったよ。
 ネタの活きが満点だって。
 
 後は、上にAKB劇場があれば満点だって。
 「ちゃんねーまわせばAKB」
 こらっ、まわしちゃダメ。
 輪姦は犯罪。
 特殊捜査二課第八班に捕まるよ。

 さあ、明日はわたしか。
 がんばらないで行くんだよね。

 きょうの彼の私服は、ネイビーのヴィクテムのプルオーバーパーカーにGDCのシャツイン、そしてチノ。パーカーの上に着丈の長めのGジャンでアームホール細めのものを着ると違った着こなしになるとか。2万円のパーカーに1万8千円のシャツ、アレクサンダリーチャンのチノが1万9千円。
 ドンキとつりあわないけどね。