日曜礼拝帰りの彼の態度は、とても不可思議なものだった。
いつもなら、カーコンポで賛美歌を鳴らし、病院への道を走るのだが、きょうはカーコンポも鳴らさずに、じっと前だけを見ていた。
口はしっかりと結ばれていた。
きょうの礼拝から、佐橋看護師が加わった。
彼女は初めての教会で、自分で自分が信じられない、という不可思議な体験をしてしまった。
その事実のみを、彼女はわたしたちに話してくれた。
礼拝の途中で、耳元にささやく男性がいるのだけれど、耳元にささやけるほどの距離に男性の姿はない。
男性が語った内容は、
「あなたの心にはものすごく深刻な悩みがありますね。その悩みは、すべて私が預かります。ですから、あなたはあなたを待つ人々のために、素敵な笑顔を見せてあげてください。次の日曜にお会いした時のあなたの笑顔を楽しみにしています」
確かに彼女の耳元でささやけるような位置に男性は列席してはいなかった。
紺野看護師が礼拝堂の椅子の、左壁側端に座り、隣に佐橋看護師、その隣がわたし、そして一番中央通路側に彼。
通路をはさんで、翔子、ウチの母親、そして変なおじさん。
前後を見ても、男性はたった1人、彼の真ん前に腰掛けているだけだった。
後ろの席は全員女性。
彼の前の男性がささやいたとしたら、紺野看護師も、ささやいているその姿を見ていなければ不自然だし、礼拝の途中、男性が立ち上がったのは、献金を礼拝堂奥の中央に置かれた台に置いたときだけ。
佐橋看護師にはどの男性も声を、それも一欠けらのパンと、コーヒーに入れるポーションタイプのクリームの容器と同じ大きさの容器に入れられた水を口にする、聖餐と呼ばれる儀式の最中に、パンと水を配る役は決められていて、この教会では、すべてが女性。
佐橋看護師に男性が近寄ったのは、礼拝の前と後の、彼と変なおじさんだけ。
彼女ははっきりと、パンと水を口にした直後だと言っている。
常識の中で生きている人々にとっては信じられないことだろう。
彼でさえ、
「極めて非科学的な出来事だね。でも、佐橋さんの耳に聴こえているのなら、それは事実に間違いない」
非科学的。
DNAコンピュータ、マイクロマシン、ナノマシン。
常に最先端の科学と戯れてきた彼にとっては、科学で割り切れることしか信じられないのだろう。
でも、わたしのように、物心がついた頃にはすでに洗礼を終え、キリスト教教育を嫌と言うほど受けてきた人間にとっては、佐橋看護師の身に起きたことを解説することはたやすい。
男性の声、それは、わたしたち一般のプロテスタントと天の大神を結びつける存在であるイエス・キリストの声に他ならない。
教会ではよくあることなんだ。
きょうの礼拝に参加した人々の中にも、悩みや苦しみ、病気などを、
「私がすべてお預かりします。あなたはすべてを忘れていいんですよ」
という、男性の声をはっきりと聴いた、それも聖餐の儀式の最中だった、という人々は少なくはない。
また、無言でも、長いこと頭を離れなかった悩みの根源が、翌日の朝に急転し、一気に解決していた、とか、癌でも、末期で余命を1ヶ月と宣告された女性が、5cmを超えていたはずの腫瘍が、二週間後の検査では、きれいに消えてしまった。
驚いた病院ではすべての検査機器の点検をメーカーに依頼してみたが、機械は正常だった。
メンテナンスを終えた機械で再度検査を行ったが、結果は前回と同じで、提携を結んでいる病院で、同じ検査を受けてもらったが、結果に変わりはなく、癌の腫瘍が突然消えた、という不可思議なカルテとして、わたしの勤務する病棟に残されている。
その患者さんこそ、水野手術室長。
旦那さんと二人、通う教会はちがっても、同じプロテスタントなのだ。
「ぼくの話を聴いてくれる?」
病室に戻ってからも黙り込んでいた彼が突然、口を開いた。
「佐橋さんに声をかけたのはイエス・キリストだと思うんだ。断定してもいいよ。
裏づけはね。ぼくもイエスの声を聴いて、姿も見てる。
ぼくが気管支喘息をほんのわずか、吸入だけでセーブできる状態なのは知ってるよね。以前は単なる気管支喘息だけではなくて、心臓喘息も合併していたんだ。
発作が起きたらどうなるかを専門家に話すのは失礼だから、話さないけど、ある日、心臓喘息の人が発作の時に飲み込む薬を飲み込んでも効かなくて、母親が救急車を呼んで、ぼくを主治医の元に搬送した。ここからすぐの、呼吸器と精神科で有名な病院だけど。院長は呼吸器内科では、スーパードクターと言われる人だけど、あらゆる処置を試みても症状は改善されないで、とうとう、心停止状態が5分以上経過したから、院長は母親に、ぼくの死亡宣告をした。院長はすぐに死亡診断書を記入しだすし、母親は地元の町に遺体を戻すために葬儀屋の手配を病院の公衆電話で行った。
その頃、ぼくは自分が死んだことに気がついてなかった。すると、どこからか男性の声がした。
「きみには、まだやってもらわなければならないことがある。私を手伝って、たくさんの人々を救ってもらわなければならないのだ」
声のするほうを探したよ。不思議なもので360度見渡すことができた。
でも誰もいない。
すると今度は長髪にひげ面の薄汚れた布を纏った男性が、目の前に現れた。
彼は言った。
「先ほどの声は私だ。もう一度繰り返す。きみには、まだやってもらわなければならないことがある。私を手伝って、たくさんの人々を救ってもらわなければならないのだ。きみを受け止め、手伝ってくれる女性もすでに用意してある。そのためにきみは死ぬことが許されないのだ。心を解放しなさい。将来、私を手伝ってもらうために、私は今、きみを救う。心を開放しなさい」
ぼくは訊いた。
「あなたは誰ですか?」
彼は答えた。
「きみが大切に何度も読み返している本の中に、私の姿がある」
そういい残して男性は消えた。
それからまもなく、ぼくは診察台の上にゆっくりと上体を起こした。その刹那に、ぼくの身体から心拍計を取り外していた看護師が狂ったかのような声を張り上げて飛びのいて、診察室の床に座り込んでしまった。
院長が何事だと言って飛んできて、ぼくを見るなり、見てはならないものを見てしまったような顔をして、ぼくの胸に恐る恐る聴診器を当てて、つぶやいた。
「彼は・・・・・・生きてる・・・・・・ありえないが・・・・・・生きてる」
葬儀屋を呼んで診察室に戻ってきた母親はなんていったと思う?。
「あんたっ、今度は死んだ振りなの? 葬儀屋さんを呼んでしまったのに、どうするの? キャンセル料金とか払わせられるのよ。あんたが自分で払いなさいね。こんなバカなまねをしたんだから、それくらいの罰は当然ですっ!ふざけるなっ!!」
あの人にはかなわないよ。一人息子が心停止を起こしてるって時に、葬儀屋を呼んだからキャンセル料金をおまえが払え、だって。ふざけてんのはどっちだ。アンフェアなのはどっちだ、くそっ。今でも想い出すと腹が立つ。
きょうのぼくを見て、きみはおかしいなと思ったろう。
佐橋さんの話は非科学的だとする根拠を探してると思っていただろう。
この体験はぼくがまだ中学2年生の2月7日に起こった。
前日の夜には、ホテルニュージャパンの大火災があり、日があけるとJALのジェット機が羽田空港手前で、心身症の機長の発作のために逆噴射して羽田沖に不時着した。
単に偶然続いた出来事を、TVではわけのわからない評論家を自認する人間たちが、これはこの世の終わりの始まりだと、ノストラダムスと無理やりこじつけ、人々の不安を煽っていた時だ。
きょうのぼくはおかしくないよ。
佐橋さんの話は非科学的だとする根拠を探していたわけでもない。
ただ、あの時ぼくに起こったことは、これでまぎれもない真実なのだと思えるようになった。
佐橋さんにそうしてもらえたんだ。
イエスの言葉が本当なら、ぼくが医者になったのは間違いじゃなかったということになる。
いや、ぼくを医者の方向へとリードしてくれたんだろう。
医者がぼくの天命なんだ。
そうなった以上は、この病棟の、いやこの病院のすべての患者さんを、意地でも助けるよ。イエスとの約束だ。ぼくだけに課された律法だと言ってもいい」
イエスは、わたしにこんなことは言わなかったよ。
わたしは医者が天命ではないんだ。
イエスって意外と冷たいんだ。
そして人を選ぶ。
人見知りは大人になるまでに直さないと、社会に出られないぞ。
母親であるマリア様の教育方針について、話し合わなければいけないことがあるね。
うん、えっ。待って、わたしも聴いたことがある。あの言葉って。
「きみにやってもらうことがある。
ある男性を用意した。彼にはわたしの手伝いとして、数多くの人々を救ってもらわなければならない。
きみにやってもらうのは、その男性を受け止め、彼のパートナーとして共に数多くの人々を救ってもらうことだ。男性とは時期が来れば必ず出会うことにしてあるから、今は何も考えないで前に進んでいきなさい。男性とは、燃えさかる街で出会うことになるだろう」
そうか、その男性がサコちゃんで、公私ともにパートナーとして、オペの時は前立ちとして彼を助けて、一緒に数多くの人々を救いなさい、ってことか。
燃えさかる街で出会う。これは大震災直後の神戸市長田区。
これはもう、厚生労働省指針なんて守っていられないね。
官僚は信じないけど、わたしはイエスを信じてるから。
だって、イエスはわたしの悩みや苦しみや病気をすべて、わたしは自分で何とかするからと言ったのに、それでもいいから私に預けなさいと言ってすべて背負って十字架に打ちつけられたんだよ。
官僚はそんなことをしてくれないもん。
あいつらは返って悩みを増やすだけだ。
そうか・・・・・・サコちゃんにだけ、とても強い、見えない力で惹きつけられたのは、イエスが道をつけてくれたんだ。
そして、彼のお母さんの姿を借りて、結び合わせの最終工程を行った。
今ではもう信じる人もほとんどいなくなった運命か。
この運命だけは信じるよ、わたし。
突然、彼の携帯が鳴った。
慌てて窓際に立ち、出る。
「もしもし?ハロー。おい、元気かヒッキー。人間生活はどうだ、楽しんでるか?」
おー、彼の妹分の宇多田ヒカルさんね。
「・・・・・・うん、・・・・・・うん・・・・・・やるよ。今年がちょうど20周年記念だからな。豪華に、と思ったんだけど、故障修理中の知り合いアーティストばっかりで、なかなか。
でも、かえって静かに20周年を迎えるのもいいかなと思ったりもしてさ。
・・・・・・元気だよ。そっちは?・・・・・・よかった。安心した。うん・・・・・・たぶんな。事務所が仕事取ってくれないんだよ。「はやぶさ」プロジェクトって知ってる?・・・・・・うん、正解。MUSE-Cとくるとは思わなかったな。偉いぞ。伊達に大学の後輩じゃないな、中退したけど。・・・・・・うん、ああ。また音楽生活したくなったら声をかけてよ。・・・・・・うん? なんでもないなら言うな。うん、またな。えっ・・・・・・あのねー、絶対にそれはないから。あなたと違って律法を破って、教会を追われたりしないよ。はい、またね」
ぼくはくま?
「くるまじゃないよ。まだ、ウチみたいに離婚してないのか、って。あのバカ。あんなのがコロンビア大の後輩だよ。最もバカだから中退したんだろうけど。コロンビア大といえばそうだ、もう一人の後輩に頼んでおくことがあったんだ。日曜なら繋がるかな?」
彼はすばやくアドレスを探し出し、ボタンを押した。
何もわざわざ窓際でかけなくとも。
カッコつけてんじゃねーぞ。
何と言ってもいいよ。
彼はガラ携帯じゃなくて、PHSなの、ウィルコムの。
だから、窓に張り付くみたいにしないと、電波が届かなかったり、通話の途中で突然切れたり、ものすごいの。
NTTドコモも突然途切れたり、ガラ携帯ではあんまり評判が良くないでしょう。
突然、FOMAから撤退したり。
それより性能が悪いんだよね。
でも、普通の携帯だと、料金的にPHSより高いから、生活保護を受給している場合、許可になるのはPHSかプリペイドなの。
本当はすぐにでもしっかりとした携帯にしたいと言ってるんだけど、契約が来年の9月末までだから、中途解約を、違約金を払ってでもできるのか、受け付けてもらえないのか、HPでも詳しい説明はないし、ショップに行って訊いてみると言いながら、わたしたちがフリーになる時間にはショップが閉店した後だったりしてなかなかね。
iphone4sに、ふたりでしようか、って言ってるんだけど、ソフトバンクって、ものすごく審査が難しいのね、そろえなければいけない書類が多くて。
でも、auは少ない書類で済むから、加入するとすればauかな。
一番安いプランだと通話料込みで8千円弱。基本料金が6735円で+通話料だから、あんまり自分から電話するようなことは無いわたしたちなら、7千円台で納まると思う。
PHSって月に3300円だから、倍にはなるけどね。でも通話中にいきなり切れたら相手に対して失礼でしょう。
暇な時に考えて、行動に出るのがいいと思うけどね。
「もしもし、あの、あっそうそう、ぼくです。元気?・・・・・・あーあれね、知らないはずは絶対ないよ。日本でどのくらい報道されたかは知らないけど、アメリカ国内のぼくのいた基地でも訓示があったからね。恐らく全米の基地すべてで訓示されてる。とにかく軍にとっては最も恥ずべきことだし、教育システム自体が問われることだから。
とにかくああいうとぼけた人間には1日も早く職を辞して欲しいね。
本人にその気が無ければ無理やり引き摺り下ろす。
国民は反発しないよ、野党にも。
与党の中からも相当な数の問責辞任を問う声が上がっているし、風は野党の追い風だ。
いや、それで、話が変わるけど、ごめんね。お父さんも元気?最近はマスコミでも見かけなくなったから、具合でも悪いのかと思って。・・・・・・そう、それは安心した。まだ党員ではあるんだよね。・・・・・・あー、そして趣味に夢中なんだ。うん、いいじゃない。”なんと美しいお顔とスタイルなのかしら。毎日鏡を見て微笑んでいた日々。あれから40年。あら、何よこのシミやしわは。目じりも垂れて。あらっ、鏡がゆがんでしまったのかしら、と不思議がる中高年。・・・・・・いいと思うけどね。ただ、集会や会議を欠席するほど夢中になるのはちょっとね。ほんとうはこのまま趣味に没頭させてあげたいんだけどね。イ・ムチジは当然行くだろうね」
イ・ムチジ・・・・・・合奏団?。
そうだよ、暮れから日本ツアーがあるんだよ。
Sが38000円。
生のイ・ムチジが聴けるなら安い。
ところで電話の向うは、政治家みたいだね。
知らないはずは絶対に無い、っていうのは、防衛長官の発言でしょ。
アメリカ海兵隊沖縄基地の隊員による、日本人少女暴行事件。確か阪神大震災の起きた年だったよね。
「そのうちに、お父さんにアポイントメントを入れて、聴いてもらわないといけない話があるんだ。ここを離れられないから、電話という失礼な形になるんだけど。うん。ありがとう。・・・・・・いやー、そうでもないって。うるさいなー、こいつ、と思われてるよ。それじゃあ、日曜にごめんね。石波さんに会ったら、農業にばかりこだわらないで、たまには軍事の話をしなさいって、ぼくが怒ってたって伝えてください。それじゃあ、また。うん、おかげさまで。友達夫婦だね。おまえも、そろそろ決めないと。お父さんが心配してるだろう。親に心配をかけるな。ぼくの実体験。孝行をしたい時には親はなし。お父さんにはまだもうひと働きしてもらわないとね。じゃあ、また。何が、すっかり一人前になって。ニュースや国会中継を観ていても別人みたいに鋭く輝いてる。在任中のお父さんにそっくりだよ。頼もしい。それじゃあ、突然、電話してごめんね。失礼します」
彼は電話を切った。
「小泉新次郎くんだよ。コロンビア大の後輩。彼と比べたら、ぼくがコロンビア大の卒業生に名を連ねていいのかなと思うけど。はっきりいって、ぼくはお父さんに再登板をお願いしようと思ってる。国民にとっては痛烈な痛みを伴うことになるのはわかってる。でも、痛みを伴わないと何もできない。バットにボールを当てたら手のひらに痛みが伝わる。飛んでくるボールを捕ろうと思えば、グローブをはめていても物凄い痛みがある。その痛みに耐えるから、野球はできる。テニスだって、パワーボールを返球すれば肘の上まで痛みが伝わる。でも、それに耐えるからこそテニスのゲームは成立するんだ。あんなとぼけた、どじょうがどうとか言ってる相撲部屋は即刻潰す。老齢医療みたいな、あんな無駄なものは即刻廃止。ただ、シップ薬をもらいに病院にきているようなのは病院でも受け入れちゃだめだよ。彼らはシップが欲しくて病院にくるんじゃないの。仲間と漬物や弁当・おやつを持ち寄って食べながら世間話をしたいだけだから。そういう奴は健康ランドかデイ・サービスでやれ。シップが欲しいならドラッグストアに行けば、病院の処方薬より効き目のいいのがたくさんあるから。ドラッグストアのオリジナルブランドだと安いし、症状によって店員さんがいいのを選んでくれる。ドラッグストアの店員って誰でもなれるわけじゃなくて、薬種商っていう、薬の成分の基本的なことについての試験をパスしてライセンスを取得しないと使ってくれないから。今の薬事法っておもしろくて、処方薬より良く効く市販薬が売られてるんだよ」
お年寄りに不満があるわけ?
「あんまり周囲が大切にしすぎるんだよ。だから病気になる。昔みたいに家族の中にそういえばいたな、程度に扱うと、何でも自分でやらなきゃいけないから、鍛えられて元気を保てるんだよ。大切にして仕事を取り上げるから、病院にしか居場所がなくなるんだ。ある意味かわいそうだね」
確かに言われてみれば、整形外科外来なんて、廊下にレジャーマットを敷いて宴会をしているお年寄りが多いね。病気を治すのに来てるのか、宴会に参加するのに来てるのかわからないよ。
うーん、イエスもそういう暇なお年寄りにいろいろ手伝ってもらえばいいのにね。
イエスは神様の使者。
月光仮面は月よりの使者。
どっちがすごいんだろう。
月光仮面かな?。
ホンダのミニキャブにまたがって、乗用車で逃げる悪者を追いかけるんだから。
やっと追いついたら、「憎むな、殺すな、赦しましょう」って。
何のために必死になって悪者を追いかけたの?。