きょうも、いつものようになにもない、平和な一日になると思っていた。


 彼は起きるや否や窓の外を見て、病室を飛び出した。

 雪。それも本格的な積雪。

 しばらくして病室に戻った彼は言った。

 「雪を払いのけた路面が凍結してる。この雪が消えて夏路面が出ることはない」

 いよいよタイヤ交換か。

 積雪路面を夏タイヤで走って、交換に行くのって、ものすごく不安なんだよね。

 「ほとんど、ぼくの車で出歩っているし、どうするの、交換?」

 一応、一時退院している患者さんの容態が変わった場合、往診ってこともあるわけでしょう。だから、交換しておいたほうがいいかな、とは思っているけど

 「けど、何?」

 夏タイヤで積雪路面を走るのが不安で・・・・・・

 「じゃあ、まず、ぼくが、朝礼の後すぐ、マツダに交換を頼む。恐らく夕方には持ってきてくれるだろうから、それからでも、明日でもいいから、きみがぼくのAZ-1を運転して、ぼくがきみの夏タイヤのホンダ・ビートを運転していって、多分3時間待ちとか5時間待ちだろうから、帰路はぼくがAZ-1を運転して帰って、交換が終ったビートを取りに行くのはぼくがAZ-1を運転して、きみは横。そして2台並べて帰ってくる、どう?」

 AZ-1って冬タイヤでも危険な感じがする

 「エアロパーツを取り付けてあるから、ノーマルみたいな危険性はないと思うよ。ぼくみたいな乱暴な運転でも、横転もスピンもない」

 じゃあ、そうする


 平和な会話と、いつもの朝礼と巡回。

 午後には月曜回診があるから、午前中の巡回は念入りに。

 このとき、一番上の病棟、小児癌専門病棟で起きていたことを、わたしはまだ知らなかった。

 ふと振り向くと、病院の外の非常階段を透明な盾を手にした連中が昇っていった。全員、全身ネイビーの同じ制服姿。

 まちがいない、警察の連中だ。

 慌ててスタッフ・ステーションに戻ると、看護副師長がひとりっきりで、いるはずの看護師も臨床心理士もアネさんもいない。

 「小児癌病棟で一年前に亡くなった患者さんの父親が、病棟にクレームをつけにきて、手にしていたナイフで看護師を脅して人質にとって、屋上でわめいてるらしいわよ。担当医と担当看護師が殺したことを認めろって」

 わたしは屋上まで会談を駆け昇った。

 逆恨みか。

 確かに遺族が、まともな治療をしなかったから死んだ。つまり殺したのと同じことだ、というクレームは年中ある。

 できる限りの治療はしてる。

 でも、わたしたちには厚生労働省指針というものがあって、もっと濃密で効果のある治療がしたくても、できないケースが多い。

 だけど素人に、厚生労働省指針がどうで、なんて言っても内容が難しすぎて理解されないから、ただ、申し訳ございませんでした、って頭を下げ続けることしかできない。

 病院の謝罪で気のすまないのはわかるけど、犯罪を犯しちゃダメ。

 亡くなった子供が喜ばないよ。

 屋上の扉を開けると透明な盾を持った連中の間からハンドスピーカーで、死刑を求刑されて、最終的に死刑が確定した人と無期懲役になった人の割合を怒鳴っている刑事らしき人がいる。

 これが特殊捜査一課、いわゆる篭城やハイジャックとの交渉と強行突入を業務にしている連中か。

 彼がいない?。

 容疑者は盛んに、

 「近づいたらこの看護師を刺し殺すぞ!」

 と、繰り返し叫んでいるが、SITは一切聴こうとしない。

 あっ、彼が容疑者に向かって無言で歩いていく。

 突然、走って容疑者の横に陣取り、容疑者の頭に、ステンレスのようなシルバーの拳銃を突きつけた。

 刑事ドラマで見る円柱が真ん中にあるタイプじゃない。

 ジェイムズ・ボンドが使う、グリップの中に弾倉が入っているタイプみたいだけど、ボンドのよりも大きくて銃身もはるかに長い。

 容疑者がナイフを落とすと、彼は看護師を抱えてこちらにダッシュしてくる。

 容疑者はSITが取り押さえた。


 ハンドスピーカーで怒鳴っていた刑事さんが、彼の元へきた。

 「特捜二課のおまえが何でSITのヤマにでしゃばるんだ。特捜二課第四班は新興宗教でも潰してろ。あんなことをやって、もし本当に看護師が刺し殺されてたら、どうやって責任を取るつもりだ!」

 それは、ない

 彼は感情を抑えてボソッと言った。

 「そんなこと、わかるわけないだろうが!」

 目が怯えてた

 他人を刺し殺す勇気なんて、ない

 「でも、万が一ってこともあるだろうが!」

 それは、ない

 「どうして、ないと言える?」

 ぼくが撃つから

 「三年前みたいにか? 懲りない奴だな、おまえは」

 SITの刑事はまだ噛み付きたいような勢いだった。

 「この場においては彼の判断が正しいと言わざるを得ないな。死刑と無期懲役の確率なんか、容疑者に話したところで何の意味がある。人質のPTSDを無駄に深くするだけだ。特捜二課について、言いたいことがあるなら私に直接云ってくれ」

 SITの後方から走ってきた男性が言った。

 誰?。

 課長!

 彼が驚いたような声をあげた。

 この温厚そうな人が特殊捜査二課をまとめてるわけ?。

 警察組織の中で最も物騒な部署だよ。

 でも、村井国夫さんに似ていて、颯爽としてカッコいいね。

 さすがに課長に対しては噛み付けないと見えて、SITの刑事は引いた。

 「拳銃携行命令については知ってるよな」

 課長は彼に言った。

 「今のぼくは命令に従えません。ここは病院というとてもデリケートな場所です」

 「しかし、ナイフを持った狂犬が」

 「奴は、組を壊滅させた、ぼくの非合法部門のメンバーを逆恨みして襲ってくるはずです。一般人には興味はない。対象は限られてます。大丈夫ですよ。暴力団員の一人や二人。それもドスかナイフでしょ。素手で対応できますよ。素人より暴力団のほうが対応しやすいですからね。出方がわかってるので。素人さんが怖いですよ。きょうみたいなことがあるとね。家庭では子煩悩な父親だったんでしょう。子供が亡くなったことで、自分の人生まで台無しにするとはね。あんなことをやっても、子供は喜ばないのに・・・・・・」

 「まだ、三年前の事件を引きずっている奴がいるんだな。正当防衛で処理したはずだが」

 「書類上はね。でも、書類が通れば、人の目が変わるというものでもないですから、一生背負っていきますよ。とにかくこのデザート・イーグル5・0はお返しします。本部長が渡してくれたんですが、直近の上司は課長ですから」

 デザート・イーグル5・0っていう拳銃なんだ。威力がありそう。

 あとで彼に訊いたら、警察用ではなくて軍隊用のものなんだって。

 頭部を撃つと、肩から上を平らにできるくらいの威力がある。怖いね。

 「それじゃあ、預かる。防刃チョッキだけでも」

 「ぼくにはジークンドーがあるから、必要はありません。ソマリア内戦もイラク戦争も防弾チョッキなんか着せてくれなかったんですよ。大丈夫です。部下を信用してください」

 「何を言ってもおまえさんは聴かんだろうな。突っ込みすぎて死ぬな。いいな」

 彼は頷いた。


 こうして事件は終った。

 「もし、使ってもいいのなら、特車1の冬タイヤ交換を経費でお願いします」

 「4本で・・・・・・ああ。どっちにしろマツダからウチに来るんだろう」

 彼は敬礼で返した。

 その姿勢のまま非常階段を降りていく警官隊を見送った。

 「タイヤ交換無料だってさ。儲かったー」

 今夜の映画のホットドッグとドリンクとポップコーン、ついでに入場料もおごってね。わたしは十万円もかかるんだから、タイヤ交換に

 「中古っていう」

 何シーズンも乗って、役に立たなくなったからリサイクルショップに売ったんでしょ。危なくて運転できない

 「だよね。おごるよ。こんな事件の後は心が暗くなりがちだからね。『アントニオ猪木』最高」

 わかった。『アントキノイノチ』って言えないんだ。

 AKBの「カチューシャ」がサチューカンになるのと同じだ。

 


 ねえ、訊いてもいい?

 「なに?」

 三年前の事件を引きずってるって

 「ああ。ある証券会社で、FXに大金をつぎ込んで、負けた男がいて」

 FX?

 「証券取引の一種。利回りがいいんだ。その分、社会の動向にはものすごく敏感に反応する。勝ち組は1割にも満たない場合もある。

 ちょうど、リーマン・ショックで、ギリシャの最初の破綻が始まりだしていて、アメリカもヨーロッパも下降気味にあって、勝てる人って、取引に使うソフトだけに1千万円とか、とんでもない投資をしてるんだ。そのクラスのソフトを使わないと勝てないってこと。それに、情報収集のためにも高価なソフトを使って、世界の動向を秒単位で見てる。不労所得になるんだけど、その男もそういう生き方をしていて、欲が張りすぎて、売りのタイミングを逃したために、大負けして全財産を失った。その責任が証券会社が裏情報を教えてくれなかったからだ、と言って怒鳴り込んで、窓口で応対した女性が、ロビーで騒がれると会社のイメージ・ダウンになるから、機転を利かせて応接室で応対したら、人質にとられてね。男は証券会社のビルから出て、隣の銀行のあるビルに逃げ込んで、たまたまぼくは非番で、銀行のATMで紙幣をくずしてた。コンビニ払いの請求書なんかで細かい紙幣が必要で。そしたらパトランプを鳴らして、SITがどやどや銀行のATM前の階段を駆け上がっていくんだ。何か起きたな、と思って、ぼくは外の非常口から昇っていったら、男が若い女性を人質にとってSITがハンドスピーカーできょうみたいなことをわめいてる。求刑の確定率なんか考えられる精神状態じゃないんだよ、人質を取るような奴は。とことん追い詰められているんだからね。本州から凶悪な強盗殺人班が北海道に入った、札幌市で目撃したという連絡が道警の本部に入った。札幌以外に逃走する可能性がある、ってことで拳銃常時携行命令が出ていて、ぼくも持っていたから、SITがわけのわからない話をしている最中に刺し殺す可能性もあるし、ぼくが飛び込んだドアから近かったから銃を構えて、あんな話は無視して、人質を解放してくれ、って言ったんだけど、SITの話で余計頭が混乱してたと見えて、女性を刺そうとしたからぼくが撃った。

 肩口を狙って撃てばナイフを飛ばせるから、肩口を撃った。

 ところがトリガーを引いた瞬間に、男がナイフを振り上げて反身になったんだよ。それで、心臓を貫通して即死。

 拳銃って、弾丸の後部に火薬が詰まっていてハンマーが弾丸の後ろの丸い部分の中央を叩いて火薬が爆発して弾頭が飛ぶから、叩いた反動が出て上に銃身を持ち上げようとする仕組みなの。だから肩を狙っても、反身になられたら心臓に当たる。左利きだと見えて、ナイフを左手で握っていたから。

 人質に危害を加えるのを制止させた、ということで、拳銃の使用は正当であると処理された。女性の制服にナイフでつけた傷があって状況証拠と物的証拠が揃ったから降格も懲戒免職にもならなかった。その事件がきっかけで、ぼくはSITから特殊捜査二課第四班に異動になったんだ。一番軽い処分。きょうのぼくを見て、びっくりしたでしょ。ごめんね。ぼくは中央署一危険な警官と陰では言われてる。中央署のダーティーハリーだって。こんなことをする人間が家庭を持つ資格はない、って尊敬する先輩の潜入捜査官が言ってた。オウムに潜入してたんだけど、今は分裂した「ひかりの輪」という教団に潜入してるみたいだ。

 ぼくには家庭を持つ資格はない。

 離婚届に印鑑を押そうか」

 何言ってるの

 サコちゃんは、尊い人命を守ったんだよ

 医師だって尊い人命を守るって事については同じじゃない

 人質の生命を守るためならガンガン撃ちまくりなさいよ

 凶器を弾き飛ばすためにしか撃ってはダメ、なんてそんな法律なんか破りなさいよ

 厚生労働省指針だって何回も破ってるんだし、やっちゃえ


 サコちゃんの座右の銘があるでしょ


             世の中に フェアなものなんて何もない

             目には目を

             復讐には復讐を

             アンフェアには・・・・・・アンフェアを



 でも、わたしが想像していたのは安曇班長みたいに情で落とすタイプ。

 顔が同じだから、やることも同じだと思ってた。

 

 まさか、雪平夏見タイプだとはね。

 でも、部屋はきちんと片付けてあった。


 さあ、あっ、そうだ。

 ねえ、もうひとつ訊きたいことがあるの?

 「なに?」

 きょうの21:30分から指定席で観る映画のタイトルは?

 『アントニオ猪木』

 じゃあ、元プロレスラーだった人は?

 「アントニオ猪木」

 

 やっぱりカチューシャと同じだね。

 弱みがない、ってことは人間味がないってことだから。


 安心しました。