きのうの夜から、患者さんが戻ってきて、病棟がいつもの活気を取り戻した。
本当は戻ってこないで、みんな元気にそのまま退院というのが理想なんだよね。
それでも淋しいのは、患者さんも病棟の仲間なんだからだと思う。
きょうは月曜恒例病棟回診。
でも、アネさんの様子がなんかおかしい。
午前中に院長室へ呼び出されてからなんだけど。
院長室で何かあったんだと思うけど、誰にも明かさない。
月曜回診すらすっかり忘れてしまった。
今まではどんなことがあっても、こんなことはなかった。
彼は回診でひたすらボケを取ることに夢中。
病室に入り際に足がもつれて倒れる、とか北野さんクラスのギャグなんだけど、リノリウムの床は下手に転ぶと骨折するから、むずかしい。
真面目でいいのにね。
彼がボケることで、病室の中が笑顔で溢れる。
ただ、そのためだけにやるんだよね、不思議ちゃんは。
みんなの笑顔がみたいってだけ。
でも、恐ろしいことに笑顔は身体状態に出る。
確実に回診でいい成績が出るから、不思議だよ。
結局、アネさんの様子がおかしいから、きょうは真面目に徹した。
回診から引き揚げてから、彼はもう一度出て行った。
孤高のエースストライカーの部屋。
月10万円のサポーター制度について、その後どうなったのか訊いてきた。
病室から戻って、話してくれたのは、わたしたちの他に、アネさんが同じクラスのサポーターになってくれることになって、資料請求をして書類を作成し、提出したばかりだから10月に結果がずれこむ、とか。
退院しても2週間に1度は検査に来なければいけないから、必ず結果を持ってくるから、って。
それはいいけど、きょうのアネさんだよね。
夕食後、スタッフ・ステーションに集合がかかった。
その場で、アネさんは正直に話してくれた。
きょう、院長室で何があったのか。
「喜べ、みんな。病院の粗大ゴミであるあの登山男が9月末をもって辞職することになった。最大の敵である理事長も定年で消える。4F病棟の天下だ。我々は革命を成功させたんだ。
味方であった副院長も定年退職だから寂しくなるよ。
ところで、後任の院長に、登山男がわたしを指名した。
わたしが院長なんて、信じられないだろう。みんなどう思う?。
この話、私は受けるべきだと思うか、蹴るべきか。
お願いだから意見を聴かせてほしい。
こっちから出した条件は、あくまで4F病棟の医長を兼務しながらの院長。
つまり肩書きだけにしてくれ、ということ」
みんな無言。
深刻すぎる問題だよね。
「肩書きだけでいいなら、OKすればいかがですか? その代わり院長室には入らず、ここにいる、ということで」
彼、一言多いというか、そういうのはヲタク副医長の役でしょう。
「ぼくも同感だな。辞める人間の意見は必要ないでしょうが、そして、今まで通り、担当患者を持って、この病棟を走り回ればいい。それがなくなるとアネさんらしさがなくなる。おかしな院長が就任すると、ここはやりにくくなりますよ。もし、アネさんが本当に、この病棟のスタッフを可愛いと思ってくれるのなら、守るつもりで院長に就任してください。みんなもそう思うだろう?」
わたしも、他の医師たちも肯いた。
見事なタッグ・プレイ。
一見、反目しているけれど、ヲタク仲間は結束が硬い。
確かに、今まで通りの1日を送って、院長という肩書きだけがつくのなら、何も変ることはない。
医長を辞めて、ってことになると反対するけどね。
アネさんが動かしてるんだから、ここは。
それこそ、院長オンリーになったら、働くだけ働いて、ぶっ倒れてそのまま死ぬのがみられない。
それが寂しいよ。
この病棟の医師は、まだまだアネさんの指導が必要。
半人前だから。
こっそりと足音を消して、院長が現れた。
「何、難しい顔して考え込んでるの、みんな」
「おまえが持ち込んだ問題だろうが!」
アネさんは反論した。
「あーなるほど。でも悩まなくていいよ。もう片がついた。結花ちゃんを次の院長にするということを連絡したから、東京本部へ」
あー云っちゃったよ、アネさんの名前を。
本人がいちばん嫌っているのに。
「おまえ、コラッ!それを云うな!! それにあれだろ、私の返事を待つと言ったろうが、あん!!!」
「待ったさ。でも無しのつぶてだ。だから本部の業務が終る前に連絡した。手続きに時間がかかるんだ、きょうが締め切りだよ」
「じゃあ、なんでもっと早く言わなかった。おまえも思いつきで辞めようと思ったわけじゃあるまい」
「うん。そうですね。24時間テレビで立木早絵ちゃんとキリマンジャロに登った時だ。頂上での休憩のときに、彼女は全盲というハンディキャップを持ちながら、健常者と同じ職場で働いてみたい。夢はたくさんあるけれど、結局は普通のOLになるんだろうなと思う、って言うんだな。新しい旅に出たい、ってさ。それを聴いていて、俺も旅に出たくなった。当面は国際山岳ガイドだけどね。旅にさよならはつきものだ。何かと別れなければ旅には出られない。さしあたって院長という拘束をぶち壊さなくては旅には出られない。
どこかの街で、ちいさな外科医院を開業して、山に登りたくなったら臨時休院にして山へ登る。
俺は街の中で死にたくないんだ。夢はチョモランマで遭難して死ぬこと。そこまで絵が描けたから、辞職することにした」
「なるほど、すごいですね、院長。壮大な絵だ」
彼は目に涙をためて院長に握手を求めた。
「来年、また早絵ちゃんが山に登るなら、必ず、どこにいても俺がサポートして成功させる。だから連絡を欲しい。後は頼んだぞ、総合診療医。未知の癌と徹底的にデスマッチを繰り広げろ。どこかで俺が応援する」
「ありがとうございます」
「ばかやろう、そんな前から決めていたんだったら、なんで締め切りまで話を引き伸ばした」
「早くから云って、考える時間を与えたら、断られるかと思ったから」
「ふざけんな!」
「そっちの条件はすべてのんだんだ。それでいいだろう」
「心の準備ってものがあるだろうが」
「結花ちゃん、院長なんて名前だけで何も変らないから。俺が保証する。前任者が保証するんだから、これ以上のものはない。それよりさ、ここではおはぎの夜食が出るんだって。きょうも出るよね。
山へ登っていると甘いものが欲しくなるんだ。でも、氷砂糖か黒糖のカケラなんだよ。キリマンジャロでもおはぎが食べたくてさ。帰ってきてから一昨日、コープで売ってるのを買って食べてみたけど、味がないんだよ、極端に微糖・減塩で。
きょうは何時から? 俺も混ぜてよ」
「きょうはもう食べ終わった」
アネさんは冷たく突き放した。
「だいたい午後11時くらいですよ。院長の分も増やして作りますから、どうぞ」
彼は云った。
素直だよね。
素直すぎて、不思議ちゃんなんだ。
行き過ぎたピュアってやつ。
だからわたしはウルトラマンメビウスに例えるの。
地球上の仮の姿のヒビノミライくんがそうだから。
「総合診療医は和菓子職人か」
「だけじゃない、シェフとしても一流だ。それを知りたかったら、これから毎日、退職の日まで同じ時間にここへ来い。飲食店では食べられないものが出るから。それも旬のものが1品入ってる。じゃなきゃ食べマルシェの出品品みたいなものは思いつかない。あれだけが異常に目立ってた。退職の日はスペシャルメニューを食べさせてやる。それから、院長室はいらない。あんな広いのはムダだ。あれは公務員宿舎みたいなもんだ。だから取っ払って、防音壁を入れて、総合診療医や志村、そして患者さんでも自由に使える音楽室にする。それが認められるのなら引き受ける」
アネさんは云った。
「ああ、それはいいかもな。今は屋上でサックスを練習してるんだろ、通子くんは。旦那に教えてもらって。これからは日に日に寒くなるから、屋外はキツイぞ」
えっ、なに、通子って誰。
わたしはブログではあくまで妙子ですっ! 通子じゃありません。
ちょっとショック。
こうなったら彼の本名もばらすよ。
彼の本名は怪人二十面相です。
だからわからない。
あるときはmaline。
あるときはなつみ海(まりん)。
あるときは井筒和雄。
またあるときは前山田健一。
あるときは市川裕一。
あるときは多田慎也。
あるときはフランチェスコ・サルトーリ
あるときはルーチョ・クアラントット
あるときは平中悠一。
とにかく、潜入捜査官という身分のために、身内と病棟の人間しか本名は明かせないんだ。
もちろんわたしは知ってる。でもブログで公にできない。
上のは一番下の一つを除いて、すべて音楽家としてのペンネーム。
一番下は小説家として、またはコラムニストとしてのペンネーム。
ペンネームをたくさん持てば、税務署が混乱して所得税が安くなると言われて、そうしたらしいけど、それは嘘だったって。ちゃんと納付書がきたって。
当たり前でしょ、事務所はすべてのペンネームの印税を集計して、本名で申告するんだから。
このペンネームでとんでもない所得税になったのがある。
多田慎也。これはAKB48用。代表作は「ポニーテールとシュシュ」
市川裕一。これもAKB用。代表作は「マジジョ・テッペン・ブルース」
そして、イタリア人名だよ。フランチェスコ・サルトーリは作詞。
ルーチョ・クアラントット。これは作曲。
全盲のイタリア人テノール歌手アンドレ・ボッチェリが1995年2月のサンレモ音楽祭に出場するというので、以前から交流のあった彼が詞と曲を書き、プレゼントした。
「コン・テ・パルティロ」というクラシカル・ポップス。
サンレモの様子を見ていた、アメリカ人歌手、サラ・ブライトマンが、ボッチェリとデュオでこの曲をレコーディングしたいと申し出て、英語詞がつけられ「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」という新しいタイトルを与えられた。
「コン・テ・パルティロ」を英訳してもタイム・トゥ・セイ・グッバイ」とはならない。
正当な英訳は「With you I'm going to leave」。
「君と一緒にぼくは旅立つ」。
グッバイというタイトルから、別れの曲とされているが、旅立ちの歌で、作った本人は、卒業式や結婚式などで歌って欲しいと云っている。
だから、わたしたちの病棟結婚式でも退場、ホテルでの結婚披露宴ごっこでも入退場で流された。
この曲は日本でも秋川雅史さん(「千の風になって」)がカヴァーしているし、最近では彼の親友の織田裕二主演のTVドラマ『外交官・黒田康作』そして2本の映画化『アマルフィー』で、クラシック界のイケメン・グループ、イル・ディーヴォが歌い大ヒット。
来年の所得税は「ポニーテール」より前にAKBに提供した楽曲と、イル・ディーヴォだけでも、税率が6割近い。不労所得者より多い税率となる。
東日本の被災者のために募金しようね。
まあ、公務員宿舎に廻されるんだろうけど。
東日本の復興に計算できない額の金額を投入しなければいけないと云ってる矢先に、埼玉県朝霞市で、無期限凍結していたはずの公務員宿舎が着工した。
地元の不動産業者に言わせると、一部屋を民間マンションに換算すると家賃が月50万円くらいだろう、という。
彼が所得税を納めたくないのも理解できる。
無期限凍結。
結局、政治家は嘘しか言わない。
そんな連中に、髪の毛が抜けるほど悩んで書いた仕事の対価をほとんど預けるなんて、嫌なのはわかる。
でも、日本国民である以上、それをしなければならない。
一緒に泣いてあげるよ、サコちゃん。
このペンネームの中で、いちばん有利なのは井筒和雄。
TVドラマのサウンドトラックを書くときのペンネーム。
収入は印税ではなく、買取といって、あたまからこれだけで書いてください、と頼まれる。
書いたのは『JOKER 許されざる捜査官』。
自分のことを書くんだから、やりやすい仕事だったと思うよ。
報酬は50万円。
去年の春に書いてる。
番組のスタートは10月だった。
それで済むと思ったら、ドラマがヒットしてサントラCDが出た。
それは印税。でもそんなに売れないよ、って彼は云ってるけど、もし、ってことになったら、神奈川県警捜査一課強行犯係第四班班長伊達一義警部みたいに、ガリガリ君アイスキャンデーの当たりを引き換えるという名目で逃げ出すのだろうか。
「午後11時だ。遅れるとおまえの取り分はない。忘れるな」
なんだかんだ言っても、院長のことは嫌いじゃないんだよ、きっと。
同じ年齢で、どこか気の合うところがあるんだけど、それが恥ずかしくて反目する。
この年代特有の美意識だと彼は云ってた。
院長と医長を兼務する人がいて、4F病棟はますます発展していく。
ただ、引き換えに2人の仲間を失うのはつらい。