仕事上がりに、二人で同時に携帯の電源を入れると、彼の携帯が鳴り出した。

 「はい。はい、式のときはご迷惑をおかけしまして、ありがとうございました」

 ちょっと、日本語が変じゃない?。

 ご迷惑をかけたのなら申し訳ございませんだよね。

 不思議ちゃんの日本語。

 ニューヨークで英語生活してる間に、日本語を正しく使えなくなってしまった。

 「遠くから本当にありがとうございました。今、彼女に代わります」

 えっ、なんでわたしが?

 「驚く人だよ」

 わたしは恐る恐る電話を受け取った。

 もしもし、あのう

 「NECの川渕でした。はやぶさプロジェクトの」

 あー、えっ。

 あ、あのう、式のときは遠くからわざわざありがとうございました

 ご迷惑をおかけいたしました

 「元気でやってますか? 病棟医師って女性にはきつすぎるお仕事でしょう」

 いえ、彼に助けてもらってがんばってます

 なにせ、日本人の2人に1人は癌に冒される時代ですから

 「2人に1人ですか。それはショックだな。ぼくも検診を早く受けないと」

 あくまで統計上のものですけどね

 「でも2人に1人とはショックだな。せっかく大仕事を終えて、これから楽しもうと思っていたのに」

 彼にお話があってのお電話ですよね

 代わります

 彼に電話を渡した。

 「もしもし。ええ、はい。そうですか。ありがとうございます。なんとしても関わりたくて無理を言って。オーディション形式でなんとか勝ち上がりました。ええ、あと10日ですよ。ぼくは緊張するので、もうだめですね。自分でスクリーンで観て、安心するか自己嫌悪に陥るか。なにせ題材が大きすぎます。構想17年開発7年打ち上げから7年ですから。それだけの年月を音楽で表現するとなると、本当にしんどい仕事でした。

 はやぶさが可愛いから、やっつけ仕事にはしたくないし。

 ところで、中村さん、その後どうですか? まだ手の内には握っているんでしょう。

 あー、それなら、なんとか乗り切りますよ。安心した。

 66億kmを音楽で表現する、所詮は無理なのかもしれません。

 でもアイツはミッションを成功させた。満身創痍でも、戻ってきた。それを想うと、途中で何度も投げ出しかかったぼくの作曲作業なんてとてもちっぽけで、恥ずかしいです。

 でも、まさか、太陽の裏側にある、肉眼では見えない小惑星の砂を採取する、なんていうミッションを成功させるなんて、プロジェクトのみなさんは素晴らしい。ぼくも期待に答えたつもりです。

 ええ、ええ、はい。ぼろぼろでした。でも、やりきったという爽快感が残っていたので。

 監督の期待にも答えることができたみたいだし。

 ええ、ええ。そりゃ、あるでしょう。NECはそんな会社じゃないですよ。

 やっぱり心配されました? ですよね31年間ですもんね。

 あー、そうか。そうなんだ。58が一番有利なんですか、NECも。でも執行役員の席くらい用意してもいいと思うけどな。八木さんに直訴しますよ、ぼくが。

 ええ、ええ、ええ、わかります。

 それもそうですよね。

 あっ、そうですか。

 あんまり待ちたくない電話ですね。

 午後6時が仕事上がりなので、携帯の電源を入れてます。

 その日が来ないように祈ってますよ。

 あとは中村さんですよね。

 でも、絶対に成功しますよ。

 突入軌道計算のどこかにミスがあっただけかもしれないし、何らかのアクシデントかもしれない。

 でも、はやぶさが成功したんだから、あかつきだって。

 日本の技術屋魂をみせないと。

 NASAにできないことを立て続けに行っているんですから。

 いつか成功して、また映画化される。

 また、ぼくは音楽で偉業を演出します。

 ええ、はい。何ですか。

 はぁ、ええ、到着したらお電話します。

 いえ、自分のためですから。自分で感動したくてやったんですから。

 初日が土曜で患者さんはみんな外泊で、病棟が留守になるんで、初日の初回上映を観ます。

 わざわざ、ありがとうございました。それでは」

 彼は電話を切った。


 「はやぶさプロジェクトの連中が10月1日公開の『はやぶさーHAYABUSAー』を試写で観たんだって。それで、感動的な音楽がついていて、恥ずかしかった、って。中村さんというのは、川渕さんと同じNECの社員で、現在、あかつきという国産の金星探査機プロジェクトのマネージャーをやっている人。1990年からJAXAに出向してプロジェクトを進め、2010年12月、打ち上げに成功したんだけど、金星軌道に乗せてから突入軌道に入れなくて、何度もはじかれて。でも、まだJAXAからコントロールできる状態みたいだから、はやぶさみたいにはならずに、ミッションを成功させると思う。

 それとね、川渕さん、NECに戻ったらちゃんとデスクがあったって。でも、58歳だから、年内には退職してゆっくりしたいらしい。執行役員にはなりたくない、って。退職の時に、また連絡するって言ってた。あれだけのことをやりとげたんだ、会社もそれなりに考えて欲しいな。

 それと、ぼく宛に荷物を送るから、よかったら受け取って欲しいって言ってた」

 あかつきプロジェクトなんていうのがあったんだ

 「はやぶさにかくれてしまったけどね」

 イトカワって太陽の裏なの?

 「うん、地球をはさんで反対側。だから地球からは見えない。その点、あかつきは金星だから。はやぶさが成功したんだからいけるさ。NASAは失敗したけどね。日本の技術屋魂を見せてくれるよ。

 その計画が失敗したためにNASAは莫大に予算を削減され、議会ではその必要性さえ問われた。

 そんな計画に純国産で乗り出すんだから。町工場の技術の結晶だよ。日本のある大手メーカーでは、部品の9割を町工場に頼ってる。それで、ぼくたちはTVを録画したり、TVゲームを楽しんだり、DVDやBlu-rayを観ることができるんだ。町工場は貴重な存在だよ。なでしこより、国民栄誉賞は町工場の連中に渡すべきだと思うね。ただ、オリンピックの出場権を獲得しただけだよ。金メダルを取ったわけじゃない。単に政治に利用されただけ。町工場は何十年も、人知れず、大手メーカーの難題に応えて、日本のものづくりを支えてきた。そのほうがよっぽど意味がある」

 なでしこジャパンって、オリンピックの出場権を獲得しただけで、国民栄誉賞なんだ。

 つまり、完結してない。

 今までの国民栄誉賞って、偉業を達成した人に贈られてきた、王選手のホームラン世界一記録。

 カンムリワシと呼ばれて、前人未到の13回防衛記録を作ったボクサーのちょっちゅねー具志堅さん。

 だったら、なでしこより、はやぶさプロジェクトの人々じゃない。

 NASAが失敗したことを純国産技術でやり遂げたんだから、偉業だよ。

 オリンピックの出場権って、他の競技の選手もロンドン・オリンピックには行くわけでしょう。

 なでしこだけが日本選手団じゃないはずだよ。

 じゃあ、出場権で国民栄誉賞をすべての選手にあげないといけないでしょう。

 完全に政治に利用したんだ。

 民主与党政治の人気取り。

 うわー、やだな。人間ってそこまで卑しくなれるんだ。

 ぞっとする。


 話は変わって、

 レーシックって知ってる?

 「レーシング?」

 レーシック

 「レー・・・・・・あー目の。近眼とか遠視とか、視力を矯正するやつ」

 そう

 わたし、受けようかなと思うんだけど、どう

 「うーん、これは個人の判断だから、ぼくがどうこう言えないかもしれないけど、ぼくは今のきみが好きだよ。昼間の眼鏡と仕事が終わった後のコンタクトレンズの落差がいいんだよね。改めて惚れ直すんだ。そのままでいてほしいっていうのもあるよ、正直に言って。でも、きみがレーシックをするというのであれば、ぼくに反対する権利はない。人は一人で自由に歩いて行ける生き物だからね」

 言わせた。

 ほんとはレーシックなんて受ける気はないんだよ。

 わたしに対する気持ちを試しただけ。

 でも、後味が悪い。

 サコちゃんがそこまでわたしのことを思ってくれているのがわかったから。

 人は一人で自由に歩いて行ける生き物。

 彼が小説で発してきたメッセージ。

 愛が深くなればなるほど、相手のことを束縛しないで、自由にさせてやりたい。

 それが彼の考え方だから。


 もう二度とそんなことは聴かないからね。

 ごめんね、サコちゃん。