きょうは「非小細胞肺癌におけるゲフィニチブ及びゲムシタビン投与及び非投与での急性肺障害・間質性肺炎の相対リスク及び危険因子を検討するためのコホート内ケースコントロールスタディー」の被検体となってもらう患者さん及びその家族に対する説明を、彼と共に行った。
ゲフィニチブとゲムシタビンをそれぞれ、午前と午後に分けて行った。
普通は家族に説明して同意をとる必要はない。
被検体となる患者さんのみでいい。
もし、患者さんが正常な判断をできない、たとえば痛み止めからくる精神障害などで、場合のみ、公正な立会人が必要とされ、その資格は試験の実施から独立し、試験に関与する者から不当に影響を受けない者で、被検者および代諾者が同意文書およびその他の説明文書を読むことができない場合にインフォームド・コンセントの過程に立ち会う者であることが要求される。
それが家族。
彼はわざと、スタッフ・ステーションの診察室で、扉を開け放って行った。
スタッフにも聴かせるために。
つまり、彼は臨床心理士でもあるわけで、催眠誘導を使ってその気にさせたりしないかどうかをスタッフに確認させたかった。
同時に、「非小細胞肺癌におけるゲフィニチブ及びゲムシタビン投与及び非投与での急性肺障害・間質性肺炎の相対リスク及び危険因子を検討するためのコホート内ケースコントロールスタディー」に必要とされる説明をすべて、公正に行ったかどうかの確認も兼ねてのことだ。
それだけ成功させる、つまり被検体となる患者さんを生きて、試験を終了させるだけの自信と、処置の仕方を考えてあるということなんだ。
だから、患者さんのみではなく、家族にもすべてを説明した。
特にリスクに関しては最も時間を割いて、丁寧に説明した。
結果、患者さんと家族両方の同意をとりつけた。
スタッフはみんな驚いていたよ。
付録で参加は任意の遺伝子解析にまで二組とも同意させたんだから。
最初に選んだ被検体に説明すると、今までは必ず断られるんだよね。
何人も何人もチャレンジしてやっと、というのが当たり前だからね。
二種類の抗癌剤とも、最初に選び出した被検体になる患者さんが同意書にサインと印鑑を押し、家族も立会人の署名に、家族の中の一人、ゲフィニチブは女性のほうがリスクが少ないから、被検体は女性患者さんだから、旦那さんが、ゲムシタビンは男性のほうがリスクが少ないから、被検体は男性患者さんを選んだから、奥さんが、サインと印鑑を押してくれた。
さあ、責任は重いよ。
彼が試験責任医だから、すべての責任を負うのが当たり前だけど、わたしも同じ責任を負う。
彼には話した。
一人で負うには、あまりにも重たすぎるし、彼に負担をかけすぎると、彼の持病という爆弾が破裂しないとも限らない。
もとは、わたしが試験責任医で行わなければならない生体実験だったんだから。
この同意書は1部を患者さんが、もう1部を立会人が、もう1部を病棟が、最後の1部を厚生労働省が保管する。
明日、宅配便で厚生労働省に提出すると、アネさん医長は言った。
彼は、看護師に被検体の患者さんの採血を頼み、それを血液型判定に廻した。
細かい血液型を調べるということは、最悪なリスクが起こったときに、スムースに輸血を行って、リスクを回避するんだ。
始める前から、そこにまで頭がいっている。
総合診療医だからなのか、彼個人の医師としての能力なのか、凄すぎる。
妹の翔子には、きょう起こっていることを、自宅に帰って、変なおじさんには絶対にしゃべるなと口止めしておいた。
しゃべられると、ただでさえヘッドハンティングを狙っているのに、一気に襲い掛かってくる。
向こうは厚生労働省直管病院だ。
いくら国立病院機構とはいえ、こっちは独立法人。
正面からぶつかったら、かなわない。
おかげで、わたしはファッション雑誌を買わされたけどね、翔子に。
なんか、ブランド物のポーチが付録についてるとか。
ポーチなんか100円ショップに行けば売ってるでしょ。
最難関を乗り切って、スタッフ・ステーションで雑談を交わしていた時、何気なく夕刊が目に入った。
北海道の、ここからさほど遠くない街で、生活保護受給者が自殺したという。
わたしは興味があって、手に取った。
遺書には「毎月のように公共料金が上がり、食品も値上がりし、保護費が削減されていってしまっては、もうこれ以上生活することができません。福祉事務所の皆様、今までお世話になりました。さようなら」とあった。
生活保護の現状については、彼からいい加減聴いているから、わかっている。
それより、自殺という行為が気になった。
人間という生物は、本能の中に自殺はいけないことだという意識が存在しているために、絶対に自殺はしない、と彼がよく言っていた。
あらゆる生物の中で自殺するのはウサギのみだと。
わたしは彼に夕刊のその記事を叩きつけた。
人間って、絶対に自殺はしない生物だって言ってなかった?
その他にも、いじめと思われる自殺が2学期の始業式から各地で連鎖的に発生してる
臨床心理学ってまちがってるんじゃない?
スタッフ全員が彼を視、回答を待っていた。
「人間は自殺はしないよ」
彼は面倒くさそうに答えた。
でも、この現実をどう受け止めて解説するの
わたし、今すぐに聴きたいんだけど
「簡単なことだよ。自ら何もないのに死ぬことはない。いじめや、この生活保護のケースは、背中を押す存在が必ずある。いじめだったり、生活できないほど削減された保護費と福祉事務所、つまり国の対応。これらが背中を押して殺した。つまり、自殺という範疇に安易に入れてしまっているけれど、これはまぎれもない殺人なんだ。
正常な判断が出来る状態では自殺はありえない。でも、背中を押して、追い詰めた状態へ導くファクターがあった場合は自ら耐え切れなくなって、正常な思考を失い、死に至る。ぼくみたいな躁鬱病でも、自殺思慮が起こる場合がある。それは躁鬱や鬱というのは心の病気だと言われているけど、実は病巣は脳の病気で、精神的に正常な思考能力を欠いているからさ。自分を追い詰めて行ってしまうんだ。自殺思慮は過去にぼくも体験している。でも、自分がなぜ死ぬのか、どうやって死のうとしたのかは憶えていない。気がついたら、死ぬ準備をしていた、ってことなんだ。
今は鬱も第四世代の坑鬱剤が出てきて、自殺思慮はほとんど起きなくなった。正しく薬を服用していれば絶対に大丈夫だ。
躁で自殺思慮が起きることは絶対にない。躁というのはとにかく世の中のすべてが楽しくてどうしようもない状態になるんだ。でも意識はないんだよ。
それで、買い物依存が激しく起きて、持っているお金をすべて使い切るまで買い物がしたくてどうしようもない。自分に不必要なものでも何でも、衝動的に買うことが楽しいんだ。
ぼくが今、一番怖いのが躁転して、買い物依存症が起こること。
きちんと薬を服用しているから、そんなに心配はいらないけどね。
生活のリズムが狂っているっていうのは、精神科医の言うように、危険な状態かもしれない。でも、眠れる時に寝てるから、リズムは狂っても、躁転するほどじゃない。
以前は、プラスティック・モデルを作るのに48時間不眠でやったり、DVDーBOXを72時間連続で視たりしていたから、比較的躁転することが多かったけどね。
退院待ちの担当患者さん二人と、忘れた頃に入ってくる急患だけだし、ケースコントロールスタディーが二人加わっても、趣味に生きていた無職時代より、むしろ躁転の可能性は少ないんじゃないかな。あの頃は生活のリズムが乱れていたなんてものじゃなくて、とてもじゃないけど、医師に報告できなかったからね。
でも、担当患者さんの状態がね。片やピッチに復帰する日のことしか頭にない。片やラーメンの食べ歩きだ。会社には、無理をせずに1日1時間程度の出社から始めるように言ったら、空いた時間をどう過ごすか。毎日、ラーメンの食べ歩きをしようと思う。ぼくが太鼓判を押す店をすべて教えた。平和だよねー。
さしあたって恐ろしいのはコホート内ケースコントロールスタディーか」
自殺が自殺じゃなくて殺人。
それを警察は自殺として処理するわけだ。
彼のように臨床心理学の知識を持った捜査官がいないから。
そういえば、アメリカって自殺が極端に少ないと、何かの本で読んだことがある。
FBIには心理学の知識を持った捜査官だけの部署があり、そこで事件を処理するから、日本のように安易に「自殺」という言葉は使わない。
日本にも犯罪心理学の知識を持った捜査官を集めた部署はある。
でも、扱うのは、犯人の姿形行動などを予測するプロファイリングという分野のみ。
正しく事件を処理できる能力を持った捜査官がここにいるのに、どうして、特殊捜査二課第四班の潜入捜査官なんだろう。
既成の部門に収まらない、特殊急襲部隊(SAT)とか、性犯罪対策専門ユニットだとかが集められた部署より、彼にぴったりな部署があるような気もするけどね。
でも、そうなったら、彼と会えるのは年に1度あるかないか、か。
夫婦でいる意味も薄れるよね。
やっぱり、彼は、今のままでいいよ。
失敗する確率が99%の緊急オペを成功させる能力を持った医師だけど、不思議ちゃんで。なんとかと天才は紙一重って言うけど、彼を見てると正しいと想う。
でも、そばにいてくれたら、わたしが楽しいから。
いなくなると、淋しさがMAXになって、自殺するよ。
その場合は、彼がいないことによる殺人になるの?。
犯人は彼?。
殺人じゃなくて、ネグレクトか。
どっちにしても、彼は逮捕される。
やっぱり、このままでいい。
潜入捜査官でいい。
病院の平和と、わたしを守って、しっかりと抱きしめて!。