きょうは彼の精神科への通院日。
わたしはもちろん同伴して、診察室(カウンセリングルームっていうのかな、精神科は)の中までべったりと付き添った。
彼が正直に、自分の現在の症状を残らず、医師に話せば、わたしはロビーで待っているよ。
でも、彼は違うんだ。
自分の症状を隠す。
なんともありません、普通です、変わりありません。
ちょっと待ってよ、って話だよ。
自分も医師でしょ。
それも総合診療医って、話したくない家族のプライベートまで当たり構わずに訊きだすんだよ。
それが、いざ自分が患者さんの立場になったら隠すわけだ。
だから、彼には一言も話させずに、わたしが洗いざらい話す。
きょうは、特に変わった症状が見受けられなかったから、ありのままを話した。
睡眠が浅いのと、短時間。
生活のリズムの乱れ。
やっぱり躁鬱には、この三つの事柄が一番危険で、病気自体を悪化させる要因になっている。
精神科医の先生の言うことはよくわかるし、できれば改善したいとわたしも思っているよ。
でも、病棟勤務医にそれは許されない。
ましてや、病院にたった一人の総合診療医だよ。
彼の置かれた境遇はどうすることもできない。
ただ、投薬でコントロールしてもらうしかないんだよ。
病棟医みんなが彼におんぶに抱っこなんだから。
次回は祝日(お彼岸だから、お母さんに会いに行かないとね)のため、1日早めての診察。
おそらく、同じ事を話すことになる。
病棟勤務医の宿命だからね。
昼食を外で済ませ、彼がスニーカーを履き潰したから、新しいのを買うのに付き合い、デザートをおごる、という彼に付いて行ったのは、1Fから5Fまでのほとんどのスペースを巨大な書店が占め、残りスペースをファッションのショップが入った複合ビルのB1F。
アイス・デザートのショップ。
100%地場産の大豆からとれる豆乳のソフト・クリーム。
どうやってこんなところを見つけたんだか、ビル自体が開店したのは8月だからね。
書店は医学書が豊富だから、ふたりでよく来るけど、B1Fにこんなにおいしいものがあったとは。
ちょっと、ジェラードっぽくて、ワッフルやコーンじゃなくて、紙コップに巻かれているんだけど、割ったワッフルが2箇所に刺さっていて、ぱりっとした食感とジェラートのやわらかさがマッチしていておいしい。
わたしは豆乳って好きじゃないんだけど、なんともなく食べることができた。
病棟に戻ると、彼とふたりで、アネさんのところまで出頭するように言われた。
スタッフ・ステーションの診察室へ押し込められて、アネさんは言った。
「10月に北海道がん大会が、この街で開催されることになった。それで、志村は内視カメラによる癌の確定診断を研究しているわけだ。それについて講演をしてもらうから。さて、総合診療医さんだ。総合診療医と癌、このふたつに共通する答えはなんだ。言わなくてもわかるよな。原発不明の癌とスキルスだ。このふたつに特化されているのが総合診療医だろう。このふたつは、これから最も必要とされる癌の知識であるけれど、残念ながら日本では充分な知識を持っている医師はいないし、それゆえに闘える医師は皆無だ。ハンチョウにはこのテーマで講演をしてもらう。
会場は、医師と癌患者さん、それにサポーター、つまり癌患者さんを抱える家族が大半になる。
今までは毎年、ヲタクかわたしが講演をしていた。
でも、今年はヲタクはああいう状態だから講演は無理だ。
そこで、頼む、わたしを助けてくれ。
今まで、この病棟は患者さんの墓場と言われてきた。
それを、前向きな講演で評判をひっくり返したいんだ。
総合診療医を手に入れたことをアピールできる機会だしな。
こうして、わたしたちは講演をさせられる羽目になってしまった。
「それで、お詫びといっては何なんだけど、この街で17日から19日まで、『まちなかマルシェ』という食のイヴェントがある。
それに、ハンチョウの夜食のレパートリーの中から一品を、この病院のこの病棟で出品して欲しいと思って申し込んだ。地場産の食材を使ってあれば、料理でも、スイーツでもなんでもいいんだ。
ハンチョウのもうひとつの腕を存分振るって欲しい。
市長を先頭にした審査団があって、トップを決めるんだ。
当日は、勤務外の看護師たちもテントで店員をさせる。
お願いできないかな」
それはお詫びとは言わないんじゃないかと思うけどね。
新たに荷物を背負わせてしまってるんじゃないかと思うよ。
「『まちなかマルシェ』は知ってますよ。駅前から市役所前までテントが並ぶんですよね。個人的に市長に頼まれました、友人として盛り上げてくれって。彼の子供たちのバースディーケーキはすべてぼくが作ってますからね。
お彼岸を済ませたら、夏休みに入りますし、アネさんの頼みなら聞かないわけにはいかないでしょう。市長の頼みなら断りますけどね。
料理かスイーツか、いろいろと考えてみます。
その代わり、夜食を実験の場にしますよ。まずいものを食べさせられるかもしれませんが、それは許してください。改良を重ねる場にしたいので」
これなんだよね。
眠りが浅い。生活のリズムが乱れる。
その原因。
なんでも自分で抱え込んでしまうんだ。
荷重オーバーは明らかなのに、それでも背負ってしまう。
生活のリズムが崩れることが躁鬱にとって最も恐ろしい。
精神科医は何度も彼に警告したけど、聞き入れない。
彼が何でも背負い込むことについて、わたしはいろんな手を使ってやめるように説得した。
彼に抱きついて、胸の中で涙を流してやめてくれるように懇願した。
でも、持って生まれた性格だから、変えられない、って。
彼自身も変えたいんだけれど、それができない。
わたしにできることは、彼の負担が少しでも少なくなるようにサポートするだけ。
一番苦しみもがいているのは、誰でもない、彼なんだ。