患者さんがいない病棟って、静か過ぎて恐ろしい。

 特に、夜は廊下を歩きたくない。

 病院と言うだけで、都市伝説がたくさん作られるからね。


 きょうは、別に出かける予定もないから、一応、スタッフ・ステーションにいた。

 みんなで笑いながら世間話に花を咲かせる。

 彼の理想とする病棟のあり方。


 彼はと言えば、ひたすら窓をのぞきこんでいる。

 窓の下は職員駐車場。

 きょうは、立っていられないほど風の強い日で、いろいろなものが空を飛んでいる。

 屋根のトタンやジュースの空き缶、どこかの店の看板。

 それらが自分の可愛がっているAZ-1にかすったり、当たったりすればボディーに傷がつくか、最悪凹んでしまう。

 でも、原因は自然災害で、損害賠償請求権はない。

 「おまえの店がしっかりと看板を取り付けていないから、飛んできて車に傷をつけた」

 それは、やくざのいいがかりでしかないから。

 彼は法律にも詳しいから、そのことを知っていて、よけいに心配になるんだろうね。

 

 ヲタク副医長と、特撮映画の話をしながらも、窓の外を気にしていて、何か音がするたびに窓に走り寄る。

 AZ-1ヲタクだ。


 「志村、ちょっといいか」

 アネさん医長に診察室に入るように言われた。

 ドアが閉められた。

 よっぽど極秘な話なんだろう。

 アネさんはライトボックスにCT画像を貼っていく。

 「どの患者さんのものかわかるな」

 はい

 もちろん、わたしの担当患者さんだからわかるよ。

 「T因子が2.N因子も2、M因子は0だ」

 T因子とは癌腫瘍の大きさと他の臓器への浸潤(食い込み具合)で、4段階に分類される。

 T2ということは癌腫瘍の最大径が3cm以上、あるいは気管支分岐部以外の気管支に浸潤があるということ。

 この症例では、癌腫瘍は3・6cm。気管支への浸潤もある。


 N因子とは、癌が転移するために通り道にするリンパ節に、癌があるかどうか。

 N0はリンパ節に転移を認めない。

 N1~N3までは、どこのリンパ節に転移しているかで決まる。

 N2ということは、原発巣(癌がもともと発生した場所)と同じ側の縦隔のリンパ節あるいは気管分岐直下のリンパ節への転移を認める。

 この症例は原発巣と同じ側の縦隔のリンパ節に転移が認められるが、気管直下のリンパ節への転移は認められない。


 M因子とは、他の臓器への転移の状況。

 M0は転移なし

 M1は転移あり


 TNM分類ではじき出されたこの症例のステージはⅢA期。

 通常はオペができるのはⅡA期までで、それから上のステージは化学療法もしくは分子標的薬に放射線療法で死期をどれだけ延ばすか、だけ。

 保険外では重力子線治療もあるが、特別成績がいいわけでもない。

 成績がいいというわけでもないというのは、続けることで癌を消滅させられるか、ということ。


 「志村、おまえにはいつもⅢB期から上のステージの患者さんばかり預けてきた。化学療法で日に日に弱って亡くなってしまう場にばかり立ち合わせた。

 重たいものを背負わせてしまったな。悪いと思っている。

 ここしばらくの姿を見ていると、志村はものすごく成長したな。病棟医の中でもトップだ。

 まあ、1匹、成長しすぎたモンスターはいるが、そのモンスターが志村を成長させてくれたんだ。彼に感謝を忘れるなよ。

 ところで、だ。志村もいつまでも化学療法専門じゃなくて、呼吸器外科として1歩ずつ未知の経験を積んだほうがいいと思う。

 この症例の患者さんのオペだよ」

 でも、ⅢAのステージは化学療法または分子標的治療薬+放射線って、厚生労働省指針で決まっているはずじゃ

 「だけど、この病棟にはⅣ期の腫瘍を強引にぶっこ抜いた大ボケ野郎がいるぞ。それも、御丁寧に腫瘍は原形を留めたままだ。そのホルマリン漬けを検査部にわざわざ、どこかの看護師が持ち込んだために、検査部長に殴りこまれてわたしは平謝りだ。なんで、わたしが謝罪しなきゃいけないんだ?。わたしが検査部に持って行けと言ったわけじゃない。独断行動だ。

 もう一例はⅢB最後期だ。またぶっこ抜いた腫瘍は原形を留めたままだ。そして、看護師がまた同じミスを起こした。また殴りこまれて平謝りだ。もう、わたしはいわれのない罪で謝罪したくない。

 腫瘍を切り刻んでいいから、執刀してみろ。

 前立ちに大ボケモンスターをつけるし、手術部には最高のベテラン・スタッフを揃えるように手配する。

 大ボケに言っておく。

 志村が限界でどうしようもなくなったら、執刀医を交代するように。

 でもな、志村。おまえも観ただろうけどな。

 全盲の18歳になりたての女の子が、6千メートル近い、プロの登山家でもギブアップするほうが多い山の頂上に立ったんだぞ。

 大ボケモンスターは言ったよな。

 ”ぼくは彼女が頂上に立つことが成功だとは思っていません。彼女が自分の限界を1歩でいいから越えてくれれば、そこが成功なんです”

 わたしはあえて、彼の言葉を引用させてもらう。

 志村が腫瘍をすべて完全に切除・摘出することが成功じゃない。自分の能力をすべて出し切ってもう限界だと感じてから1歩、先に進めることが出来たらそれは大成功なんだよ。

 それを見届けたら、大ボケモンスターがだまって交代してくれる。

 いいか、志村。誰だって初めから何でもできる医者はいない。

 あの大ボケだって、ニューヨークの病院で、たくさんの症例をこなしてきたからこそ、検査部に殴りこませるような真似ができるんだ。

 あいつだって、最初のうちは指導医つきでオペを行っていたんだと思うよ。

 あの大ボケにできるんだ、志村にだってできる。

 今回は大ボケを指導医兼前立ちにつけるから、やってくれないか」

 

 わたしは、彼の登場によって変わった。

 もう今までの臆病な医師じゃない。

 逃げちゃダメだ。

 逃げちゃダメだ。

 逃げちゃダメだ。

 よーし。

 わたし、執刀します

 「そうか。来週水曜で、時間は手術部で調整中だ」

 そこまで話が進んでいるということは

 「大ボケに執刀させるつもりだった。でも、ヤツが執刀すれば、またわたしは検査部に平謝りさせられる。それで、ヲタクに頼んだら、このステージのオペは厚生労働省指針に違反してるから、ぼくにはできないと言った。それ以上はわたしも何も言わなかった。これから、個人病院に帰るわけだろう。万が一、厚生労働省の知るところとなったら、アイツの医師免許の剥奪だけでなく、親の病院まで波及する。だから、この病棟を去るまではおとなしくさせておこうと思ってな。

 カントクの腕では無理だし、チャラやガンバは問題外。

 大ボケモンスター以外に、この症例のオペをこなせるのは、志村、おまえしかいないんだよ」


 そこまで言われたら、わたしも後には引けないよ。

 よーし、彼がやったように、原形を留めたままで腫瘍をぶっこ抜いてやる。




 きょうは4F病棟は患者さんが空なので、食事の配膳はなし。

 みんなでコンビニ弁当を3食食べました。


 夜食の買出しに行くために、一旦、病室に戻ると、彼は申し訳なさそうに言った。

 「きのう、アルトと一緒に渡すつもりでいたんだけど、忘れた」

 封筒に入ったものを差し出した。

 「一番大切なものなのにね」

 封を切ると英語で書かれた賞状らしきものが1枚と、わたしの肩から上の写真のついたIDパスが入っていた。

 「賞状は」

 サンダーバードの任命状

 「正確には世界平和機構スペクトラムのもの。医療部はスペクトラムの直轄管理下で、サンダーバードに随行するという形になっているんだ。IDカードには英語と日本語両方で、所属部と名前が書いてあるよね。日本に支部があるんだ。筑波学園研究都市の、あるオーディオ・ヴィジュアル・ゲーム機メーカーの研究棟ビルの地下3階にね。エレベーターに1Fから乗り込んで、エレベーターの階数表示キーを、IDの名前の上に書かれた番号の通りに押すと、あり得ない地下3Fに行き着く。そして、IDカードの下のポケットに収められているカードは、支部の入り口のドアキーだ」

 わたし、ほんとうにスペクトラムの医療部の1人になれたのね

 あー夕陽に向かって叫んでもいい?

 「ゲリラ豪雨で夕陽はないよ」

 じゃあ、夕陽が出たら叫ぶ

 それより、任命状は額装しないとね

 「100円ショップで」

 そんなのはだめ!

 もっとちゃんとしたやつ、って言ってもどこで売っているのかわからないけど

 「ぼくがアクリル絵の具を買っている画材店が、額縁専門店をやってるから、そこにいけば、合うのが見つかるよ。食材集めのついでに廻ろう」

 絵も描くの?

 「いや」

 アクリル絵の具って

 「ああ、フィギュアを作るときに顔はアクリル絵の具でペイントすると表情が生き生きと見えるからね」

 なるほど。


 さあ、買出しに行こうか。

 相棒に傷や凹みがないといいね、サコちゃん。