外泊明けの患者さんが病棟に戻ってきた。
さっそく巡回。
みんな、いい想い出を作って帰ってきたみたいでよかった。
1匹よくないヤツがいた。
自分の愛車を、わたしよりも可愛いと抜かした大バカ野郎だ。
どこかの臨床心理士で総合診療医。
ねちねちと叱ったあと、T-FALのフライパンで思いっきりぶん殴っておいた。
少しは理解できただろう。
今夜はそいつの指揮するオーケストラのサマー・コンサート本番。
終わったら、忌憚ない感想を聴きたいって言うから、辛口で評価するよ。
いいものはいいと誉めるし、悪いものは悪いとはっきり言う。
忌憚のないとはそういうことだからね。
それで、感想。
指揮者としては文句はない。すばらしいよ。
びっくりしたのは、オケにつきもののセカンド・コンダクターがいないってこと。
クラシックのオケには必ず、第一ヴァイオリンの中にセカンド・コンダクターがいて、指揮者は単なる飾り物で、オケのメンバーは、セカンド・コンダクターの弾くヴァイオリンの弓の上げ下げを見て演奏してるんだ。
ベルヴェルト・フォン・カラヤンという20世紀で最も偉大と言われた指揮者は、実は偉大じゃなくて、もっともふざけた指揮者なんだ。
指揮がド下手。
オケのメンバーは彼と眼をあわせようともせずに演奏してた。
視線は客席とステージの中間。
そこにセカンド・コンダクターがいた。
ヴァイオリンの弓で指揮をするんじゃなくて、普通の指揮者のようにタクトを振る。
あからさまだよ。
カラヤンが指揮する映像を観ると、演奏と指揮がズレているのがはっきりとわかる。
クラシックのわからない人はごまかされるけど、マニアの目は鋭いよ。
なんで、セカンド・コンダクターがいないのがわかったかというと、指揮者、つまり彼がステージに出てきて、一番最初に握手したのがコンサート・マスター。次に大抵はコンサート・マスターの隣にいるはずのセカンド・コンダクターと握手をするんだけど、コンサート・マスターとだけ握手を交わしたら、さっさと指揮台にあがってしまったから。
それと、演奏中にヴァイオリンの弓の上げ下げに注目していたら、他のパートのメンバーが合わせていないのがわかったから。
彼が思い通りに動かしているのがわかった。
次に、ピアニストとしての評価。
ジョージ・ガーシュウインの「ラプソディー・イン・ブルー」は満点だよ。
ピアノの表情の使い分けがものすごくはっきりと表現されていた。
身体の芝居とピアノでの表現がベスト・マッチ。
特に酔っ払いのピアノの表現がすごい。
ウチの翔子も、変なおじさんも、母親も圧倒されてたよ。
チャイコフスキーの「ピアノ・コンチェルト」第1楽章は90点かな。
もう少し、ダイナミックがあればよかった。
決して下手ではない。
プロのクラシック・ピアニストで、彼よりも下手な人はいるからね。
それと、欲を言えば、ちょっと硬かったかな。
本人も、もう何年も弾いていないから、って言っていたけど、やっぱりブランクがネックになったんだと思う。
アンコールで彼はヴァイオリンを弾いた。
それもメンデルスゾーンの「ヴァイオリン・コンチェルト E-minor」
彼が祖父からお母さんに至るまで、ヴァイオリンを習ってきた中で、一番時間をかけた曲なんだ、って言うとおり、満点でいい。
ダイナミックのつけかたといい、細かい音符の処理といい、文句のつけどころがない。
この曲はプロのヴァイオリニストでも弾くのを嫌がる。
それだけ自分の技術や音楽性が出る曲なんだ。
実は徹底的にあら捜しをして、虐めてやろうと思ったけど、あらがない。
まあ、第一楽章だけだからね。
庄司沙耶香さんという、ものすごくもてはやされているヴァイオリニストがいるけど、彼女より彼のほうが上だと言える。
彼女は落ち着きがないの、とにかく。
弦に弓を当てるまでが、ふらふらして、身体でオケの演奏に乗っているんだと思うけど、クラシックでは絶対にやってはいけないこと。
とにかく、ソリストなら、自分がヴァイオリンを構えて、最初に弓を下げるまで、直立不動が原則だから。
身体でリズムをとるというのは、自信のなさの表れに他ならない。
その点、彼は指揮者のほうを見たまま、微動だにしなかった。
そして指揮者の指示があって初めてヴァイオリンを構え、弓を当てた。
まず、音色がすばらしい。
それを彼は思うままに操る。
まるで、身体の一部であるかのように自由自在。
自分の弾いている楽器の長所と短所を知り尽くしている。
ちなみに、彼のヴァイオリン、どのくらいの価値があるかわかる?。
17世紀にイタリアで創られたものだよ。
正解は、日本円にして7千500万円くらい。
もちろん、借り物じゃなくて、彼の私物だよ。
それで、普段は銀行の貸し金庫に預けてるんだ。
きょうの昼休みに、銀行から出してきた。
彼が運転しにくいから、わたしの膝の上にケースを乗せていたんだけど、彼が、中を開けてみてもいいよ、って鍵をくれた。
開けてびっくり。
心臓が止まるかと思ったよ。
止まりかけた。
ヴァイオリンにはF字孔といって、天板の両側に音を出すためのF字型の穴が開いてるんだけど、そこから覗くと、製作者の名前とか作られた年、工房の名前が書かれたシールが貼られているんだけど、わたしはまず、それを読んでしまった。
どうしてもヴァイオリンを見てもいい、って言われたら、そこに一番先に目が行くの。
17世紀のイタリアの、その製作者と工房で作られたヴァイオリンには大体4千万円前後からあるんだ。
その次に価値を決めるのは木目。
木目の入り方で音色が決まるからね。
それがものすごくいいの、彼の楽器は。
きれいとしか表現する言葉を知らないからそういうけど、こんなに美しい木目ってなかなかないよ。
その次が魂柱の位置。
ヴァイオリンの中に1本の楽器と同じ材質で作られた柱が立ってるんだけど、それの位置で響きが決まる。
音が硬かったり、逆に腰がなくなったり。
それは、動かすことができるの。
自分でやる人もいるみたいだけど、彼は、自分の好みの音を追及するために、わざわざイタリアまで行って、このヴァイオリンが作られた工房を訪ねて、職人さんと実際に演奏をしてみながら、位置を微妙に動かしてもらってる。
それだけこだわってるわけ。
別に、ヴァイオリンを弾くことが嫌いなわけじゃないし、クラシックが嫌いなわけじゃないの。
たまらなく好きなんだ。
ただ、クラシックとかピアノ、ヴァイオリンというと、スパルタ教育の想い出しかないから、ジャズに逃げるだけ。
ジャズは教えられたものじゃなくて、自分でゼロから始めて、さらに腕を磨くために専門学校に入ったんだから。
彼にとってのジャズは、スパルタからのシェルターみたいなものだったんだと思うよ。
クラシックは大好きなんだ。
だって、クラシックの話題になると時間を忘れて盛り上がれるもん。
わたしも、ヤマハに通ってピアノを習ったけど、家で弾かされるんだ、変なおじさんに。
それがうるさいの。
自分がクラシックを好きなもんだから、娘に理想をぶつけるんだ。
あらゆる言葉で罵倒するし、酷かったよ。
あの頃のことは忘れたい。
でも時々、夢でうなされる。
彼もそう。
同じ過去を持った人間が出会って、恋に発展して、結婚した。
お互いの傷をなめあって生きてるみたいなものだよ。
とにかく今夜のクラシック・オンリーのコンサートは大成功だった。
ポップスを入れるのが悪いって言ってるわけじゃなくて、オーケストラらしさが出ていたと思う。
変なおじさんが文句を言わずに帰ったからね。
翔子と顔を見合わせて笑ったよ。
打ち上げがあったんだけど、出ないで帰ってきたんだ。
病棟待機があるからって。
実際にはないんだけどね。
本当の理由は、夜食を作らなければならないから。
二十日盆まではおはぎって、病棟スタッフが決めてしまったから。
彼、大変だよ。
缶入りの味付け小豆を使っているんじゃなくて、小豆を買ってきて、えんどう豆と、2つの鍋で味付けしながら煮込んでる。
巡回の時間だけ火を止めて、あとは付きっ切り。
豆が割れたり、焦げたりするからめが離せない。
また、おいしいんだよね。
くどい甘さがないし、塩加減もいいし。
くどい甘さにならない秘密をわたしは知ってるけど、誰にも言わないよ。
話すときは、彼が自分で秘密を話すだろうからね。
さあ、今夜もおはぎで和むよ。
アネさん医長は毎日、60個近く食べるから。
夜食のために夕食を抜いてるのかもしれない。