きょうは、彼の精神科の受診日。
そして、皮膚科の受診日も重なった。
結局、お盆休暇で閉院するから、こういうことが起こるんだ。
しかたのないことだから。
かく言う、ウチの病院もきょうの午後から17日いっぱい、外来は休み。
いいね、外来はお盆休暇に夏休みがあって。
病棟には夏休みはあるけど、お盆休暇はない。
でも、患者さんはきょうの夕方から、それぞれ外泊に出るから、病棟は空になるんだけどね。一応、外泊を早上がりする患者さんがいたり、それも容態が悪いんじゃないんだよ。
家族とケンカして、家を飛び出してきたって。
それに急患ってこともありえるし、通常勤務体制で、9月になってから夏休みになる。
彼の精神科の予約時間が午前11:30。
アネさんは、どうせ昼食を持っていかれる時間になるだろうから、外で済ませろ。そのまま皮膚科へまわって帰って来い、って言うんだけど。
実は、皮膚科の予約時間は午後4時なんだ。
精神科の診察を終えて、投薬を受けたらちょうど午後0時。
それから病院まで帰れば、目の前で昼食がエレベーターに乗って降りて行ってしまう。
だから、外で済ませた。
以前、彼が教えてくれたパスタのお店がすっかり気に入って、きょうはパスタにしました。
暑い時に熱いものを食べるといい、という点では、ラーメンもアリ、だけど、暑くなりすぎると熱いものは身体が受け付けないからね。
季節限定のパスタがどうしても食べたくて。
あさりのボンゴレ。
これが最高なんだよ。
ただ、タカの爪を使っているから、それだけは、皿の端によけるんだけどね。
わたしたちプロテスタントは香辛料を口にすることを、律法で禁じられてるから。
カレーも、外食はできないんだ。
3分、お湯の中で茹でる、レトルトか、バーモントカレーの甘口だけ。
香辛料のないボンゴレもおいしいよ、慣れると。
もちろんお寿司はサビ抜き。
病院に戻ったら、アネさんが言った。
「こんなに早く2軒のクリニックを周って、昼食を食べたのか?」
精神科だけです
皮膚科は午後4時だから
「あの皮膚科は午後6時までだからね。まあ、それだけ混み合っているってことか。やっぱり、腕のいい医師の下には患者さんが集まるね」
そんなにいい腕なんですか?
「北海道では最高だよ。アメリカに留学して、現地の皮膚科で腕を磨いてたんだ」
ねえ、アメリカだって
サコちゃん、アメリカで会ったことある?
「学会での研究論文発表を聴講したことはある。でも、まさか、この街で開業しているとは思わなかった」
じゃあ、どうしてあのクリニックに?
「それまで通っていた皮膚科に投げ出されて、いくつかの病院の看護師さんに訊いて周ったんだ。最も信頼できる皮膚科はどこか、って」
で、みんなが口を揃えてあのクリニックへ行けって言った
彼は頷いた。
「やっぱりそのぐらいの医者にならないとな。アメリカ留学の医師がもう1人いるんだよ、この街には」
「ぼくの眼科の主治医ですね」
「あそこを主治医にしてるんだ。よく見つけたな」
「アメリカ時代に、同じ病院の眼科と総合診療科で働いていたことがあったので」
「元・同僚ってやつか。それで、同じ地方の出身だから、気が合った」
「同じ阪神タイガース・ファンだから」
「なるほど。世の中で何よりも結束が固いのが阪神ファンだからな」
「タイガース・ファンの治療費は格安で、ジャイアンツ・ファンにその分をかぶせるんです。診察もタイガース・ファンにはとても丁寧で、ジャイアンツ・ファンにはお粗末。徹底してます」
「ハンチョウも同じことを、この病棟でしてるのか?」
「まさか。ぼくは仕事にはプライヴェートを持ち込まない主義です」
わたしは、きょうの夕方から外泊に出る患者さんに注意事項を伝え、一応診察をしておいた。
彼は唯一の担当患者である孤高のストライカーの下へ行ったようだ。
彼と少年の笑い声が聞こえる。
うらやましいよ。
わたしは患者さんとの笑い話が苦手で、どうしてもできない。
話題が少ないんだよね。
彼はあらゆるジャンルに精通しているから、患者さんに話題を合わせることができる。
わたしがスタッフ・ステーションに戻ってみると、アネさんと彼が話してた。
「なんだよ、あんなデカイ笑い声をあげて」
「前回のワールドカップの、日本の敗因について。ベスト16まで岡田監督が持っていったのに、それを台無しにしてしまったバカがいる」
「それで?」
「原因はソイツだ。ソイツがPKを蹴らなければ日本は決勝に行けたはずだ、って」
「駒野を責めるなよ。あの場だ。緊張もするさ」
ヲタク副医長が笑った。
「いえ、駒野が悪い。駒野のせいだ。でもね、そんなやつが、何でトイストーリー3のCMをやったんでしょう。なんでディズニーはあんなヤツを起用したのかな。トイストーリーははずさない映画ですよ、あいつがCMに出たせいで興行収入がものすごく減ったかもしれない」
「そこまで言うか」
ヲタク副医長は頭を掻いた。
「だって、事実は事実です。ディフェンスの3人があれだけ素晴らしかったのに。田中とマルクスと闘莉王は最高でしたよ」
「ごめんね、ややこしい子が1人いるんだわ。田中マルクス闘莉王っていう名前なの」
ヲタク副医長。
「知ってますよ。それをあえて、ボケたんです。おかげで大笑いしても呼吸が苦しくない程度まで回復しているのがわかりました」
それが彼の診察法なんだ・・・・・・新しい。
「あっ、そうだ、外泊届けの用紙」
彼は用紙を1枚持って、スタッフ・ステーションを出て行った。
しばらくして、用紙をひらひらさせながら戻ってきた。
「まったく、あいつは15歳にもなって、自分で外泊許可願いも書けないんですよ。自分の名前と期間だけなのに。お母さんに頼りきって」
「いいだろう。頼れるうちは頼る。一番甘えたい時に甘えられなかったんだ」
アネさん医長。
「ところで、どうする、あの傷」
「母親の話から、父親による虐待であることがはっきりしました。児童相談所もああいう調子ですからね。今は、なんとか警察を動かすことを考えています。幸い、少年課の警部が仲間にいますから」
ああ、彼女か
「志村も知り合いか?」
アネさん医長。
あの、以前、札幌の篭城事件のときに彼と裏口から強行突入をかけて、掌をナイフで切られた相棒の奥さんです
「あー、あとでわざわざここにクッキーの詰め合わせを持って御礼に来てくれた彼女か。警部なのか?」
あのときは警部補でした
8月1日付けで昇進したんですよ
「キャリアなのか?」
東大卒です
「わたしの後輩か。だったら警部になれる。警察の学閥は東大だ」
「よく知ってますね」
彼はニコニコして言った。
「ハンチョウも警部だよな。ところで課はどこなんだ?」
「所属は特殊捜査二課。今、金曜の深夜帯のドラマで『ジウ』というのを放送しているんですが、それが特殊捜査二課を舞台にしています。原作は小説なんですけど、けっこうおもしろいですよ。ただ、ちょっと想像の部分が多いですけど。正式な任務は特殊犯の中でも極めて特異な事件を扱うことです。たとえば地下鉄サリン事件に始まる一連のオウム真理教事件は特殊捜査二課が扱った事件です。オウム心理教の中に、信者を装った潜入捜査官を入れて、検挙に至りました。ぼくも、実は潜入捜査官の1人です。最近は、病院もいろいろな事件が起こる。でも、なかなか外から警察を入れにくいですよね。だから、ぼくが医師免許と臨床心理士のライセンスを持っていたために、病院に潜入してるってわけです」
「おまえ、全部自分でしゃべってどうする?」
「かまいませんよ。事件が起きた時に、ぼくを当てにしてくれればいいんですから」
潜入捜査員って身分を明かさないんだよね
ほんとに全部しゃべって大丈夫?
「問題ない」
それで終わりかい。
「ところで、買ったよ」
わー、ZONEの新譜。
それも2枚組だよ。
やったね、サコちゃん。
アネさんと、ヲタク副医長と。
「看護師たちもみんな買ってるみたいだぞ。それに監督に、チャラにガンバ」
要するに病棟スタッフ全員ってことだ。
全員が2枚組だったらすごいよね。
えっ、サコちゃん、あんまりうれしくないの?。
「ありがとうございます。おかげさまで所得税がたくさん納められます」
あー所得税ね。
45%。
3年後のことだけど、今から気になるよね。
収めた税金はどうせろくでもないことに使われるんだから。
午後4時、皮膚科はきょうも混み合っていた。
予約時間が遅れ遅れて、診察は1時間後。
全体的に、彼のベーチェット病はきょうのところはいい方向に向かっている、って。
でも、部分的に悪化している箇所がある。
医師は悩んでいた。
強い薬に変えれば、あるいは進行をストップすることができる。
でも、副作用というリスクがつきまとう。
さすがのスーパードクターも悩むことがあるんだ。
決断は?。
「強い薬に変えましょう」
きっぱりと言った。
「今までの薬では進行が止まらないことがはっきりしました。そのまま使い続けていれば、やがて最悪の、失明という結果が出るでしょう。副作用を軽減するための薬も処方しますから、強い塗り薬を塗って、副作用を抑えるための飲み薬、二種類を服用してください」
決断力があっていいなー。
わたしにも、この決断力がほしい。
帰り道、いきなり彼は、車を道路から三軒長屋の前に入れた。
餃子、10円まんじゅう、そしてウルエという看板が並んでいた。
「ちょっと休憩しまーす」
勝手にガルウィングドアを跳ね上げる。
「ちょっと、待っていて。すぐ戻る」
あーお手洗いでしょ。
水分をとるのが少ないと、精神科で注意されて、慌てて大量のスポーツ・ドリンクを飲んだから。
2Lを一気飲みだよ。
むかし、渡辺正行さんがコーラの一気飲みで一斉を風靡したけど、あれは350mlでしょ。
彼は2Lのペットボトルを一気だからね。
お手洗いも行きたくなるよ。
えー?。
ソフトクリームを2本手にして戻ってきた。
「ここのウルエっていうのが地産食堂なんだ、北海道産の食材しか使わないってやつ。このソフトクリームは猿払村の生乳100%で、味が濃くて最高だから」
わたしにも一本くれた。
なめてみると、確かに濃いね。でも、嫌味な、くどさは全然ない。
「消防署の向こうにシネコンがあるでしょ。あそこで映画を観たあと、昼間ならここまで足を伸ばして、これを食べてまた引き返すんだ」
ほんとに、おいしいソフトクリームのあるところまで知ってるって、グルメもそこまでくると唖然とするね。
でも、おいしい。
マツダの営業所兼整備工場兼ショールームの前をすり抜ける。
ショールームは改装中で、テントに覆われていた。
「そう遠くないうちに、お世話になるかもしれない」
どこか異常なの?
「いや、異常じゃなくて、ボンネットがね」
だから異常なんでしょう?
「そうじゃなくて、ぼくのAZ-1はM2タイプという型なんだ。リアウィングもM2ウィング、ホイールもバンパーも、M2型の特殊なものなんだけど、ボンネットだけ、スピード・タイプのものなんだ。だから完璧なM2タイプにしようと思って。ボンネットは自宅マンションの壁に立てかけてある。邪魔になるから取り付けてしまおうかなってね」
確かに部屋の中にボンネットを立てかけてある家はないよね
引越しまでに済ませたら
「そうする。ところで、夏休みのニューヨーク行きだけど、ぼくの勤務していた病院を見学してみる?」
忙しいところなんでしょ、いいの
「問題ない。ただし、変わり者の集まりだから、それだけは覚悟しておいて」
ウチの4F病棟も外から見ると変人の集まりだっていうから、たいしたことないよ
それより、最新の治療や診療をこの目で見てみたい
夏休みは、ニューヨークに行くことに決めた。
彼の残した足跡をたどる旅。
パスポートも、あと一週間程度で出来上がり、市役所から呼び出しがあるはずだ。
彼の勤務していた病院を見学することで、これからのわたしの診察や治療法について役に立つことを発見できるかもしれない。
必ずできる。
彼という医師を生んだ病院なんだから。
その前に、まだいろいろとある。
明後日は札幌行き。
彼のプロダクションの夏祭りライヴ。
彼が外出許可をわたしの分も取ってくれた。
夏祭りのあとは、シネコンでZONEのライヴのライヴ・ビューイング。
そして、来週はいよいよ24時間TVのヴォランティア・スタッフ。
院長が、全盲の少女とイモトアヤコさんをバックアップして、キリマンジャロの縦走登山にチャレンジする。
院長に言わせれば、登山経験の豊富な者でも困難なチャレンジだという。
なんとか少女の夢を叶えてやって欲しいな。
あの人は、それしか存在理由はないから。
今は東京で基礎トレーニングの最中だというけど、院長がいなくても、いても、病院は機能している。
ただ、アネさん医長だけは、ケンカ相手を失って、ちょっと元気がないけどね。
何よりも大切なこと。墓参。特に彼のお母さんのは、忘れるほど葬儀のない志村家と違って、まだ6年だからね。
わたしは、担当医として、ずっと引っかかっていて、墓参をすませると、開放された気分になる。
だから、どうしても行くよ、15日に。
志村家なんてどうでもいいんだから。