月曜午後の回診が終わったあとって、やっと一息つけたか、って感じ。
医師がすべて、スタッフ・ステーションに集まっての雑談。
みんなは冷えた緑茶を、わたしと彼、今週から日中勤務になった紺野看護師は、お茶は律法で禁止されているから、それぞれに100%ジュース。
こんな時が永遠に続いたら、幸せだよ。
きょうもまた彼の院内PHSが鳴った。
すべてがぶち壊しだよ。まったく。
「はい。今、行きます」
あーん、行っちゃうの、わたし淋しい。
「どうした?」
アネさん医長が訊いた。
「救急救命に乳幼児が担ぎこまれたようですが、病名も処置の方法もわからないからきてほしい、って」
「そんなものは小児科でわかるだろう」
アネさん医長と同意見です。
「小児科でお手上げだそうですよ」
「だらしないねぇ、それでよく小児科だと胸を張れるもんだ。わるい、頼めるか」
「今、行きますよ」
行かなくてもいいって。ここでまったりとしようよ。
「小児科に医師のリース料を請求してやる」
そんなのいいから、ここでまったりとしよう。
「たんまりとお願いしますよ。病棟の患者さんも一緒に旅行ができるくらい」
それ、いいかもしれない。
「まかせろ!」
アネさん医長、本気で請求するよ。
彼は1Fの救急救命まで階段を駆け下りていった。
「これは、もしかすると緊急オペってこともありえるな。ヲタク」
「症例によるけど、恐らくぼくじゃ無理です。乳幼児でしょう。症例がなんであれ、危険な賭けですよ。ぼくは賭けはしないことにしてるんで」
「監督は?」
「呼吸器外科なら。わたしはオペの経験も少ないですし、向かないと思います」
「そうか、やっぱりヤツしか頼れないか」
っておい!。
誰か忘れてるだろ。
「志村は、手を汚さない方がいい。ヤツが執刀するようになったら、まあ、アイツはリスクも考えずに目の前の患者さんを救うことだけに夢中になるからな。志村は前立ちだ。夫を医師としてサポートできるな。どんなに難しいオペでも、ヤツがやると言ったらサポートするよな」
当然じゃないですか
夫婦の共同作業ですから
「アイツをコントロールできるのは、志村、おまえだけだ。アイツは暴走する危険性がある。器用だから何でもこなすが、目の前の患者さんしか見えなくなって、自分のことはどうでもよくなるヤツだ。志村はわかっているよな」
はい
アネさんはヘルプにつかないんですか?
「つかない。アイツのオペを見てると、自信喪失状態になってしまう。あんなのはもう2度とごめんだ。わたしはここで、請求書を書く。第一、小児科がお手上げなら、わたしに何ができる。呼吸器外科だぞ」
ですよね
じゃあ、わたしが代表して
彼のオペから学ぶものは多いので
「よく言ったね、志村。おまえは短い間にものすごく大人になった。ヤツのおかげだね。感謝を忘れるな」
彼がスタッフ・ステーションに戻ってきた。
「ぼくが執刀します」
「症状は?」
アネさん医長は訊いた。
「左横隔膜に穴が開いて、そこから臓器が顔を出して肺を圧迫して呼吸不全を起こしています。もう、自発呼吸はありません。横隔膜の穴を縫合で閉じるか、でなければ人口横隔膜に左右とも取り替えるか」
「横隔膜の穴か。そんなに簡単には開かないだろう」
アネさん医長。
「恐らく、極端に薄いんでしょう。これは小児科ではなくて、心臓外科の分野ですが、この病院では診療科目外ですからね」
「それを話して、他の心臓外科のある病院へ搬送したらどうだ」
「たらいまわしにされるでしょう。今、ここでオペを行わない限り、あの子は確実に命を落とします。小児科ではヒポクラテス誓詞を知らない方がほとんどのようで、一斉に逃げましたよ。文部科学省はゆとり教育でヒポクラテス誓詞を削ったんでしょうかね。とにかく、最善をつくします」
ヒポクラテス誓詞
医神アポロン、アスクレピオス、ヒギエイア、パナケイアおよびすべての男神と女神に誓う、私の能力と判断にしたがってこの誓いと約束を守ることを。この術を私に教えた人をわが親のごとく敬い、わが財を分かって、その必要あるとき助ける。その子孫を私自身の兄弟のごとくみて、彼らが学ぶことを欲すれば報酬なしにこの術を教える。そして書きものや講義その他あらゆる方法で私の持つ医術の知識をわが息子、わが師の息子、また医の規則にもとづき約束と誓いで結ばれている弟子どもに分かち与え、それ以外の誰にも与えない。
私は能力と判断の限り患者に利益すると思う養生法をとり、悪くて有害と知る方法を決してとらない。
- 頼まれても死に導くような薬を与えない。それを覚らせることもしない。同様に婦人を流産に導く道具を与えない。
- 純粋と神聖をもってわが生涯を貫き、わが術を行う。
- 結石を切りだすことは神かけてしない。それを業とするものに委せる。
- いかなる患家を訪れるときもそれはただ病者を利益するためであり、あらゆる勝手な戯れや堕落の行いを避ける。女と男、自由人と奴隷のちがいを考慮しない。
- 医に関すると否とにかかわらず他人の生活について秘密を守る。
- この誓いを守りつづける限り、私は、いつも医術の実施を楽しみつつ生きてすべての人から尊敬されるであろう。もしこの誓いを破るならばその反対の運命をたまわりたい。
医大で必ず習うでしょ。
それとも、文部科学省がゆとり教育で、5つの誓いをオミットしたとか。
彼はそう言ったけど、わたしは習ったよ。
ヒポクラテス誓詞を知らない、守れないというなら、医師じゃない。
派遣社員にでもなれば?。
「わかった。こっちでできることがあれば何でも言ってくれ。人口横隔膜についても、当たりをつけておく」
「お願いします」
彼は病室へ入った。
前立ちのこと
「だから言ったろ。もう、目の前の患者さんしか見えてないんだ。志村、こうなったら自分で売り込め。徹底的なアピールだ。恐らくヤツはシャワーを使ってるはずだ。おまえも妻だ。押しかけて強引にシャワーに入れ。恥ずかしくないよな」
恥ずかしいよ。
そういう関係は4ヶ月の結婚生活で2度しかないんだから。
でも、やる。
押しかけてでも、前立ちで彼のオペを見学する。
わたしは医師としてもっと大きくなるんだ。
そうして父親を見返してやる。
患者さんを目の前にして逃げるなんて、おまえはそれでも医師か。
目の前に死にそうな患者さんがいる。
彼の大嫌いな子どもだ。
それでも、彼はオペの決断をした。
ヒポクラテス誓詞を守れたら、どうだろう。
この患者さんを見殺しにできる?。
それができるのならば、今すぐ医師を辞めて、病院を出て行け。
わたしがいきなりシャワーに飛び込んだら、彼は飛びのいた。
全裸だからね。
ユニットバスの鍵をかけることさえ忘れてる。
患者さんしか見えてないんだ。
それでも、わたしの全身を眺め回してる。
オペに神経を集中しなければならないときだよー。
「なにやってんの?」
前立ちが必要でしょ
「そうか。それくらい小児科の人間を使うさ」
あなたの男の子の部分が、わたしを前立ちにさせると言ってる
「目の前に生まれたままの姿の女の子がいたら、男はみんなそうなるんだよ」
彼はため息をついた。
「わかった
じゃあ、前立ちをお願いします」
やっぱり、あれだね、夫婦の共同作業じゃないと
執刀医と前立ちとは息が合わないとうまくいかないから
「だからって、一緒にシャワーを浴びるわけ」
「節水にはなるけどね」
「よし、いきますか」
はい、お願いします
成功させる自信は?
「アメリカで数例こなしてるから、大丈夫だ。ただ、乳幼児だからね、点滴の針が」
何ヶ月?
「9ヶ月」
だとしたら、血管は1mm以下か。点滴を通せない
この病院に、それをやってのける看護師さんが1人だけいる」
ああ。涼しい顔をして緑茶を飲んでた
「お願いしてみるよ」
シャワーから出て、白衣に着替え、スタッフ・ステーションに行った。
見つけた。
定年後、半ば強引に職場復帰させられた、結婚式には彼の親代わりを勤めてくれて、「緊張するっ!」と叫び続けながら行ったりきたりしていた看護師さん。
「お願いがあるんですが」
「なに?」
「これからぼくの執刀するオペの患者さんは9ヶ月の乳幼児です。血管が」
「1mmに満たない」
「その血管に針を入れられるのは、この病院でたった1人」
「わたし、って言いたいんだ」
「お願いできませんか」
看護師さんは電話を取った。
「コンマ8の点滴針をオペ室へ届けてください。多分小児科にはあるでしょう。あんたたちの行うべきオペを4Fで請け負ったんだから、ガタガタ言ってないでそのくらい協力しなさいっ!」
「あっ、また増えた。えっと、医師が2人と看護師1名のリースだな。最終的には、オペが何時間かかるかで、単価×時間になるから、まだ請求書は単価だけか」
アネさん、ほんとうにレンタル料を請求する気かい。
「この前みたく急がないでいいから、ゆっくりいけ。そうするとリース料が儲かる」
わたしとしては一秒でも早く終わらせたいよ。
患者さんの命がかかってるんだから。
さて、オペ室へ入る直前で、術着に着替え、準備万端。
「いくそ」
看護師さんは、やすやすと血管を捕らえ、小児科に届けさせた針をスムースに入れる。
これは、この人の特殊能力なんだ。
どんなに血管の出ない人でも、あっという間に針を入れてしまう。
これだから、定年退職になっても病棟が離さないんだよ。
仕事中にぶっ倒れてくたばったら面白いから、ってパターンの中の1人。
手術は、まず、飛び出している臓器を、元の位置よりわずか下に下げ、横隔膜の穴を縫合し、臓器を元の位置に戻す。
もし、開腹してみて、横隔膜の縫合で、また同じように臓器が飛び出すようなら、人口横隔膜にとりかえて押さえる。
横隔膜って、臓器が肺を圧迫するのをふさぐためのフェンスだからね。
今は、人工臓器の技術がものすごく進歩していて、あらゆる臓器を人口のものに置き換えることができる。
人間の技術ってすごい。
でも、それを間違った方向に使用すると、とんでもないことになる。
科学技術って、諸刃の剣だからね。
この患者さんは、横隔膜が通常の、同年齢の子どもより薄い。
彼はそう判断した。
やっぱりか。
横隔膜に穴が開いたから臓器が飛び出したんじゃない。
臓器が横隔膜を突き破ったんだ。
両方の横隔膜を、人口のものに変えたほうが得策だね。
院内PHSで小児科に、9ヶ月の乳幼児用の人口横隔膜をお願いしたけれど、手持ちはない。
1F薬局にもない。
彼は、麻酔を担当してくれている麻酔部の部長に、麻酔のリミットを訊き出して、4Fから、出入りの製薬会社にあるかどうかを訊いてもらい、あればすぐオペ室まで運んでほしいと頼んだ。
さいわい、製薬会社のひとつに在庫があり、届けてくれるとのこと。
あとは時間の短縮だね。
彼と一旦、オペ室から出て、北海道警察旭川方面本部の本部長に連絡、理由を話して、交通課のパトカーに製薬会社の車を先導してもらうわけにはいかないか、を聴いた。
彼にとってみれば、特殊捜査二課の中に設けられた極秘セクションの課員で、交通課といえども、同僚だからね。
しかも幼い子どもの命がかかっている。
本部長は喜んでOKしてくれた。
ラジコン友達だからね。
何かと警察のイメージが悪いきょうこのごろでしょう。
イメージ・アップのためなら、そのくらいきいてくれるよ。
製薬会社から人口横隔膜が届いた。
これを、患者さんの体型に合わせて微妙に切り落としては合わせてを繰り返して、やっとピタリとあった。
あとはこれを縫合すればいい。
アネさんはゆっくりいけといったけれど、麻酔のリミットがあるから、乳幼児のオペは時間との闘いなんだ。
よし、縫合はこれでいい。
子ども用の縫合鉗子とかがあれば、もっと、体内での取り回しが楽なんだけどね。
それも開発して欲しいな。
さて、切開した胸部から腹部にかけての縫合。
これは前立ちの見せ場。
わたしにやらせてくれないと、あとですねるよ。
「縫合がうまいよね」
だって。
どんなもんだ。
「内視カメラだけじゃなくて、縫合の腕もすばらしい」
切開部の縫合って独特の結び方なんだ。
みんな、ものすごく時間をかけて練習する。
恐らく、彼もバスに乗っているときも、電車に乗っているときも、それから歩いている時も延々と練習を繰り返していたんじゃないかな。
わたしも、あの結び方には泣いたな。
でも、泣いても止めなかったからこそ、きょうがあるんだ。
縫合、完了いたしました
「それではオペを終了いたします
みなさま、ありがとうございました」
彼は、いつものように、すべてのスタッフに頭を下げて周った。
だから、彼の執刀するオペにはどこの部もトップが揃う。
初心忘れるべからず。
スタッフは医師の下僕でもなければ奴隷でもない。
むしろ、スタッフがいるからこそ、医師はオペが行えるんだ。
たった一人では絶対に行えないからね。
あのブラックジャックだって、ピノコという助手がいるからこそ、天才的な手術が行えるんだから。
スタッフは位置づけすると、医師より上なんだ。
4Fスタッフ・ステーションに戻った。
「おい、3時間半か。もう少し粘れなかったのか」
アネさん。
「麻酔のリミットもありますし、相手が乳幼児ですからね」
これでギリギリでしょう
「そうか。じゃあ請求書を書くか。単価×3時間半だろ。医師の単価が違うから気をつけないと・・・・・・これでどうだ。一応、電卓でもう一度、っと・・・・・・よし、間違っちゃいないな。わたしもまだ老化してないか。よし、じゃあ8Fに行ってくる」
ほんとに行ってしまったんですけど。
「いいんだよ、あれで。自分の病棟でしなければいけない仕事をほかして、他の病棟のヘルプに行ったんだ。だいたい、小児科で小児の症例のオペができないっていうほうがおかしいだろう」
ヲタク副医長が言うのも間違いではないと思うけどね。
でもそこまでやるか、ってね。
「病院の変人は4Fの凡人でしょ」
監督。
「あっ、そうそう
もう、『コクリコ坂から』観てこられました」
彼は監督に訊いた。
映画の批評なら、彼女だから。
「きのう、時間をもらってね。タダ券をありがとう」
「辛口でいいですから、評価を聴かせてください」
「タダ券もらってるしねー。でも、あえて言わせてもらうと、『借りぐらしのアリエッティ』が100だとすると、25かな。ちょっと破綻した感じがするのよ。原作から時間軸を移動させてしまったのが原因のような気がするんだけど。そもそも、高度経済成長の歪が生んだドラマでしょ、原作は。東京オリンピックの時代って、高度経済成長の頂点だからね。ドラマとして成立させることはできなくて当然だと思うけどね。『ハリー・ポッター』に抜かれ、『トランス・フォーマー』に抜かれ、どんどん下降線をたどっていくのもわかる気がする。『ポケモン』にも抜かれたしね。『こち亀』は観るに値しない作品だけど、ヒットはするだろうし。もう、あきらめたほうがいいのかもね」
「ぼくも、スタッフでありながら、今までのジブリ作品の中で『ゲド戦記』に次ぐワーストだと思ってます。
ぼくのジブリって、『ナウシカ』『ラピュタ』『となりのトトロ』『魔女の宅急便』『崖の上のポニョ』『借りぐらしのアリエッティ』『耳をすませば』なんですよ」
「わたしは『耳をすませば』が最高だと思ってる。あの作品は以外と人気があるのよ」
「ありがとうございます。いいお話が聴けてよかったです」
「シャワーを浴びてオペのことはすべて忘れた方がいい。次のオペに引きずることになるから」
ヲタク。
オペを嫌がったくせに、口だけは一人前。
でも、この病棟からいなくなると淋しいな。
監督もだよ。
「そうします。でも、1匹が使用中ですから」
まだ、ここにいるって
「先にどうぞ」
一緒に浴びよう
夫婦で恥ずかしがってどうするの、ねっ
「完璧に下に敷かれてるな」
ヲタク。
「だってT-FALのフライパンが」
「あれは当たり所が悪けりゃ死ぬぞ」
「覚悟は常に」
こんな会話を交わすことができるのも、あと2ヶ月ないんだ。
悲しいよ。
でもヲタクも監督も、いずれはこの病棟を去って、自分の親の経営する病院へと戻らなければならない。
彼らにとって、ここは研修の場なんだ。
わたしと彼にはいくところがないから、アネさんについて行く
それでいいんだよね。
ああ、帰ってきた。
「8Fに置いてから、同じものを1Fの事務部に提出してきた。絶対に巻き上げるぞ、わたしは」
このはちゃめちゃな男気、大好きだよ。
「おい、ハンチョウ、夕食食べそびれたんだから、志村を誘って、どこか気の利いた店にでも行って、夕食を食べて来い。大丈夫だ、夕食分くらいおまえのリース料でありあまる」
たまんないよね
わたしは、こんな人が好きだよ。
子どもみたいにやんちゃなところがあるけど、医師としての腕は一流だからね。
理想だよ。
わたしはアネさんのような医師になりたい。
わたしもついていかせていただきます、アネさん。