きのうの午後10時少し前、病棟内に残っているすべての医師は、直ちにスタッフ・ステーションに集まるようにアネさん医長の指示があった。

 彼とわたし、中島”監督”医師、そしてヲタク副医長が集まった。

 あとの2人は夫婦で花火を観たあと、どこかで食事でもしていると見えて、まだ戻っていなかった。

 

 何かと思えば、NHK総合の番組『総合診療医ドクターG』の、わたしたち医師も、解答者として、番組内の臨床研修2年目の医師の卵と同じように病名を導き出す、というものだった。

 わたしと彼は、個人的に病室で行おうと、PS3に録画していた。

 でも、ライバルは多いほうがいい、って言っておこう。

 先週は彼にこっぴどくやられた。

 やられるならばいっそ、集団でやられたい。

 集団が相手なら、彼も何も言えないだろうから。

 上司が2人もいるんだからね。


 今週の番組の患者さんは、肩こりと吐き気という症状がある。

 あせってはいけない。

 再現ドラマが進むたびに新たな症状が明らかにされるんだから。

 彼はもう、メモに肩こりと吐き気から考えられる病名を書き連ねている。

 先週もそうだった。

 総合診療科医って、できる限り多くの病名をあげて、新たな症状が明らかになるたびに消していくんだよね。

 わたしもそれがしたい。

 でも、肩こりと吐き気だけじゃ、何も浮かばないよ。

 そうしているうちに、患者さんには温痛覚症状(たとえば、お風呂に入っても、まったく温かみを感じない。真夏なのに毛布を何枚も重ねて眠っても、暖かさを感じない)があることがわかった。

 きょうはわたしの勝ちだよ。

 病名はワレンベルグ症候群。

 決まりだよ。

 彼も同じ答えを導き出していた。

 やった。

 わたしも医師として確実に成長しているんだね。

 今まで、よくがんばったぞ、志村。

 がんばったわたしを誉めてあげたい。

 

 ほとんどの医師がメモを止めた。

 みんなそれぞれに病名を導き出したんだ。

 同じ、だろうね。

 この温痛覚症状はワレンベルグ独特のものだから。

 ところが、アネさん医長と彼だけは、まだ、メモにペンを走らせている。

 ワレンベルグで決まりでしょ。

 まさか2人とも迷路にはまり込んだとか?。

 

 最終解答の発表の時間となった。

 アネさん医長は右椎骨脳底外側解離。(みぎずいこつのうていがいそくかいり)

 彼は右椎骨外側解離。(みぎずいこつがいそくかいり)

 似ているけど、かなり違うんだ。

 アネさんの書いた病名は、症状がきつくて、救急救命に搬送するか、即死。搬送中の死亡例がものすごく多い。

 彼が書いたのはその軽度のもの。

 原因は解離による血栓。

 どちらもそう。

 彼の書いたものは、血栓を溶かす薬を投薬してもらい、飲み続けることで完治可能。

 たしかに、それも間違いじゃないかもしれないけど、ワレンベルグ症候群が正解だって。

 左半身のみの温痛覚がそれを証明してる。

 

 番組の総合診療科医が、答えを言った。

 確定診断は右椎骨外側解離。

 彼の1人勝ち。


 番組が終わってから、彼が正解を導き出したヒントについて話し、他の医師の解答を見て周った。

 ワレンベルグ症候群にたどり着いたのは、わたし1人。

 あとの2人は惨敗。

 そしてわたしの解答を見て、言った。

 よくここまでたどり着いたね

 すごいよ

 スーパーローテーション実施前にこの病棟に配属になったんだよね

 それでよくワレンベルグ・シンドロームという解答が出るよ

 どこで何を勉強したの

 もっと誉めて。

 イスからふわっと舞い上がってる感じだよ

 でも、ちょっと残念でした

 ワレンベルグ・シンドロームは病名じゃなくて症状をまとめた呼び名なんだ

 惜しいよね

 ここから1歩踏み出せるとよかったのに

 ゆっくりとイスに落下していくんですけど。


 「アネさんはさすがに引っかかりませんでしたね。右椎骨脳底外側解離は病名です。左半身の温痛覚に目をつけて右椎骨に問題があると視たのはさすがです。でも、脳底部まで進行していれば、患者さんは救急車で搬送されていたでしょう。ぼくも、最初は右椎骨脳底外側解離と書いたんです。でも、よくよく考えてみたら、患者さんは家族と、自らの足で病院を訪ねていたのを思い出したんです。それで、脳底をはずしてみました。まだ、そこまで進行してないんじゃないかとの推理で。でも、いざ病院にきたら、足に力が入らず、思うように歩けない。そして意識を失ってしまう。右椎骨外側解離は、症状が強く出たり、まったくでなかったりを繰り返す病気ですから。みなさんは呼吸器外科ですから、知らなくても何の問題もないんですよ。これは脳神経外科の診療科目ですから」

 「あー、脳神経外科といえば、どこかにそんな肩書きをつけたじじいがいたな。まあ、デスクに座っているだけの毎日で、現場に立ってないから、この病名を導き出せないだろうけど」

 妹の翔子が言った。

 今週一週間は午後9時から翌午前9時までの深夜勤病棟薬剤師だからね。

 ウチの父親か。

 言い当ててる。

 それについてはわたしもそう思う。

 勝手に土地を買って、家を建てて、いざ引っ越すぞ、というときに、引越し屋がどこも込み合っていて、秋以降でなければ空きがなくて引っ越せない。

 世の中のことがまるでわかっていないんだから。

 今の時期はJR職員と日本郵便の社員が転勤で大移動する時期なの。

 って、彼が言っていた。

 勝手なことをするから、神にも見放された。

 なんと哀れなじじいでしょうか。

 

 「これは、あれか、いわゆる生活習慣病の一種なのか?」

 ヲタク副医長。

 「さらさら血とかドロドロ血とかいうやつのことですか?」

 彼は逆質問。

 ヲタク副医長は頷いた。

 「まったく関係はありません」

 ヲタク副医長はほっとしたような顔を見せた。

 「ある日、突然発症して、音もなく進行する病気です」

 たたみかける彼。

 「日本人の2人に1人が癌に冒される時代だ。似たようなもんだろう。だったら、おもしろおかしく人生を精一杯生きるのがいいってことだ。病気を恐れずに常に臨戦態勢をとっていれば怖いものなんかなにもない」

 アネさん医長はさすがだね。

 悟りを開いているよ。


 彼は笑いながら、夜食の仕込みに入った。


 病気を怖がって、何でも特保だの、根拠のない自然食品だのをあれこれ口にしているよりも、真正面から堂々と病気を迎え撃て。

 わたしは肺癌以外と闘わないけど、彼はすべての病気と闘ってくれるから心配ない。

 でも、この世の中に、スキルス癌と真正面から闘える医師がいるとは。

 総合診療医の特徴として、原発癌(発症理由がわからない癌、要するにスキルス)が得意分野である、って書かれてるからね。


 やっぱり一歩およばなかった。

 こうなったら盗める機会に片っ端から盗んでやる。


 覚えていたまえ、明智君、この怪人20面相に盗めないものなどない。

 もう、彼のハートを盗んだしね。

 得意のすねた攻撃もあるし。


 女は真剣になると怖いよー。