きのうは、彼の44歳のバースディーだった。
44って数字が嫌な予感を思わせるけれど、誰もが越えているから、心配はしなくてもいい。
一昨日の夜は、わたしのバースディー・パーティー+4回目の結婚記念日で、街に飛び出しはしゃいだ。
わたしはまた街に出たいと、彼に言ってみた。
いいよ、って言ってくれなきゃまずいんだ。
そうなったら、得意のすねる作戦を使おう。
彼は気軽にOKした。
あまりにも軽すぎる。
でも、すべてが上手い方向へと流れているから、OKだ。
彼ののカーナビを勝手に操作して、そこまで行けと告げた。
彼は、その通りにしたよ。
ついたところはイタリアン・レストラン。
「こんな場所に、こんな店が存在することすら知らなかった」
彼は言った。
グルメでも、あまりに近すぎると見落とすんだ。
そのほうが、わたしとしてはうれしいけどね。
イタリアンならカジュアルでいいし、ここはわたしの、たった2人しかいない、高校時代の親友が、父親と2人でやっている比較的こじんまりとしたお店。
彼女はイタリアで修行をしてきたから、彼の舌も満足させてくれると思う。
たとえば、日本列島を1つの街に例えて、本物のイタリアンを食べさせてくれるお店がどのくらいあるか。
両手・両足の指に満たないほどの数でしかない。
ましてや、わたしと彼の暮らす中堅都市に、まさか本物のイタリアンを食べさせてくれるお店があったなんて、最高でしょう。
料理はコースとして出された。
イタリアンの長所って、カジュアルな服装でも、店に入れてくれるところだし、フレンチと和食って形がすべてで、中身が薄いこともあるけど、イタリアンにはそれがない。
もちろんある程度の形はあるよ。
でも、内容も充分ある。
わたしはひたすら、謝った。
あんなすばらしい、わたしのバースディーを祝ってくれたのに、こんなところしか知らなくて
「そんなことって、全然ないよ
ぼくにとっては、フレンチより最高
どこで、こんなお店を見つけたの?」
それは、もう少ししたらわかるよ
やがて、テーブルに1人の女性シェフが現れた。
「本日は当店を御利用いただきましてありがとうございます」
彼女と目を合わせて、微笑んだ
「いかにも、妙子らしい彼ね。佐々木蔵之介さんと間違われるでしょう」
それも現職の警官にね
街頭パトロールとすれ違ったら、わざわざ引き返してきて敬礼だよ
そして、課長様にもよろしくお伝えください
「結局、わたしだけが残った、か。わたしは料理と結婚したからいいけどね」
彼はわたしたちのやり取りをだまって聴いている。
「わたしの高校時代の同級生で、親友の1人。この前、皮膚科で会ったコと3人で、いつも一緒だった。わたしが友達と呼べるのは、彼女たちだけ」
「なるほどね、それでこんな店を知っていたんだ」
「お味はいかがですか?」
「ボーノ」
それって、どこの国の言葉?。
イタリアンで、言ったということはイタリア語だろうね。
彼は13ヶ国語をしゃべるからね。
わたしは日本語・ドイツ語・フランス語・英語で、精一杯。
「ありがとうございます」
「彼女は、イタリアで料理を学んできたの。あなたが見ても完璧なイタリアンでしょう」
そして、女性に向かって言った。
彼はとにかくグルメで、不必要なほどのこだわりを持ってるの
ここが気に入ったみたいだから、これから、イタリアンが食べたくなったら、ここに来るから、以後、よろしく
出される料理のすべてにボーノ
そんなに気に入ってくれたのならうれしいよ。
でも、他人には教えたくない。
わたしたちだけの味にしたい。
「こんなバースディーは初めてだよ
最高!
きょう死んでもいいほど最高!
ぼくの育ってきた環境には、バースディーを祝う習慣はなかった
プレゼントはくれたよ
小学校低学年まではおもちゃ
それから中学3年生までは図書券
図書券は、ぼくにとって何よりのプレゼントだった
とにかく本が好きで、片時も離さないコだったからね
新刊が欲しくても、読みたい本のすべてを手に入れることは不可能でね
図書券があれば、それらを買いだめできる
1日1冊ペースで読むときもあれば、時間をゆっくりとかけて楽しむ時もある
図書券で買った本はゆっくりだった
もったいなくてね
高校入学と同時に、その風習も消えた
本が買いたければ、アルバイトで買う
授業が終わると同時に、ジャージに着替え、テニス・コートへ
日が暮れるまで、血を吐いてぶっ倒れるような猛特訓を受けて、、そのまま、顔を手だけを洗い、音楽室へ
吹奏楽部で、4kmのランニングとストレッチをしてから、練習開始
午後9時に終え、帰途につき、家で軽い食事を摂って
テニスと吹奏楽という、重たい部活動を2つこなすと、誰でもそうなると思うよ
吹奏楽はきつくない、と思うかもしれないけど、それは、見た目だから
実際に自分でやってみると、どれだけきついかわかる
軽い食事しか受け付けなくなるほどきついんだ
午後10時から翌日の午前2時まで、CoCo壱番屋のカレーの下請工場で、砂糖・塩・小麦粉などの60kg入り袋を何百回もかついで、それぞれのセクションへ積み込む
バイトを終えたら、帰宅して予・復習
ベッドに入るのは外が明るくなった、午前4時
午前5時には起きて、学校へ
即、テニス・コートに行って、きのうの練習でぼくが凹ませた金網の修復
午前6時から朝練習
1日1時間の睡眠でよくやれたと、今になって思うよ
人間は最低1日に3時間の睡眠をとれば問題ない、という医師もいるけど、1時間はあまりにも、ね
土曜まではそういう生活で、日曜日は、朝3時にバスが迎えに来て、ゴルフ場へ
キャディーのアルバイト
ゴルフをゼロから憶える必要があって、しかもコースを確実に、芝目まで憶えると、客がついてくれる
キャディーは指名制だからね
ぼくは、大きな会社の営業所長専属
ぼくの選んだクラブを使ってくれるんだ
いいスコアを叩きだせる、ってね
ホールの特徴もすべて自分でラウンドして覚えてるから、適切なアドヴァイスができる
いいスコアであがると、喜んで福沢さん3人とか5人なんていうチップをくれる
それは運営会社に提出しなくていいから、すべてぼくのもの
その人は毎週来てくれたから、指名がはいればバイト料もあがるし、チップはもらえるし、かなり割りのいいバイトだった」
やっぱり、ものすごく苦労してきたんだ、彼。
だから、生活保護での生活に真面目に、法を犯すことなく生きることができた。
「そんな環境だから、こんなパーティーを開いてもらえるなんて、思いもよらなかった
きみも心憎いことをしてくれるよね
ぼくがグルメなのを知っていて、こんなすばらしいイタリアンを食べさせるお店でバースディーを祝ってくれるなんて
お店の雰囲気も作りも最高に気に入った」
わたしは病室から車の中も、そしてこの店にきてからも離さなかった、少し小ぶりな段ボール箱を、彼に渡した。
あなたのプレゼントとバランスがとれれば、いいけど
「えっ、何
ここで開封してもいいかな?」
わたしは頷いた。
彼がダンボールのクラフトテープをゆっくりと剥がし、開くと、中にはハードケースが入っている。
ケースを取り出し、止め具をはずし開いてみると、中にはサックスが入っているはずだ。
それも、ソプラノ。
カーブドソプラノなんだけど、普通のカーブドソプラノというのは、ネックの部分だけがわずかに曲がっているだけで、あとはストレートな管体でストレートなネックとカーブしたネックが2本同梱され、デタッチャブルという名称がつけられているが、わたしが贈ったのは管体が曲がっていて、朝顔の部分が上を向いている、つまり、アルト・サックスを小ぶりにしたような感じのもの。
むかしのソプラノ・サックスってこんなスタイルだったんだって、彼が言ってた。
でも、マーチングなどのときに音を前に飛ばすことを求められ、いつの間にかデタッチャブル、もしくはストレートに取って代わられた。
今では、国産は1社のみ。海外メーカーでも、イタリアのメーカーが1社、オーダーメイドで、フランスのメーカーが1社作っているだけらしい。
もちろん、中国製や台湾製はあるよ。
でも、初心者がおもちゃにする程度のもでしかない。
音程がないに等しいから、演奏になんて使えない。
わたしが贈ったのはイタリアのメーカーのものだった。
「いいんだよね、このメーカーは
徹底的に手作りにこだわっていて、職人さんが妥協しないの
だから、プロの奏者でも使用に耐える
日本製のサックスみたいに、余計なキーをつけて簡単に吹けるように改良されたりはしていない
でも、音色がいいんだよね
普通のソプラノって割れたような、決して心地のよい音じゃないんだ
でも、このタイプのカーブドは、やわらかくて甘い音がする
そして、デタッチャブルやストレートと比べると、ダークな音色なんだ
ジャズにぴったりなんだよね
でも、ぼくは、デタッチャブルを使っている
どうしてかといえば、4月までのぼくには手の届かないものだったし、贅沢品を買ったとなれば、生活保護法に触れて、受給を廃止され、刑務所に送られるから」
彼はくすっと笑った。
最後に、またケーキ。
これは病棟に持ち帰り、スタッフで切り分けていただきます。
デザートのジェラートが、また、たまらなくボーノだ、って。
「マックやロッテリアでは、もう定番と化しているジェラートだけど、あんなのは食べられない
この店のが本当のジェラートなんだ
イタリアで食べたことを想い出したよ
でも、ファスト・フード店って、あんなもので、よくジェラートを名乗っているよね」
正直でいいけど、何でも子供みたいに口に出すのは、まずいような気もするけどね。
でも、わたしたちみたいな病棟勤務で、24時間常に緊張感を保っていなければいけない人種は、せめてプライヴェートな時間くらい、子供じみた遊びに身を委ねないと、精神的におかしくなると思うんだ。
誰も認めてくれないかもしれないけれど、それでもわたしたちはわたしたちの時間を送り続けるよ。
「土曜日の、バンドでのライヴで、さっそく使わせてもらうよ
新品のサックスって、音抜きという作業をしてからじゃないと使用できない
思いっきり大音量で、ぼくらプロだと30分くらい吹きまくる
それをしてはじめて、音がこなれて、楽器の持つ本来の音が引き出せるんだ」
店をあとにして、駐車場まで歩きながら、彼は誰彼ともなく言った。
「本当に最高の夜だ
今夜も、世界中の時計はすべて止まっているんだろうな、ぼくたちのために」
それにしても、今夜のイタリアンはすべての料理にボーノ
デザートのジェラートにまで、ボーノ。
日本でいくつかのイタリアン・レストランを歩いたけど、すべてがイタリアンもどきでしかなかったんだって。
こうして、彼の人生最初の、最後にはしたくないバースディー・パーティーは過ぎていった。
きょう4日から、いよいよこの街の最大の祭りが始まる。
今夜は大花火大会。1万5千の大輪の花が夜空に咲く。
でも、わたしたちはそれを無視して、こうして病棟で過ごす。
両隣の新婚さんは、会場へと出かけた。
1発の花火って、安いもので10万円。
祭りで見世物として打ち上げるものは、30万円とか50万円もする。
それを1万5千だからね。
東日本大震災の被災者の方々の義援金として贈り、花火大会は取りやめるくらいの姿勢があってもいいと思う。
あっ、これは彼が言ったんだよ。
市長と、役職なしで友人だから、彼は市長のプライヴェートの携帯に電話を入れ、再考をうながしたけど、時すでに遅く、実行委員会はもう準備を整えてしまった。
ただ、仙台市と姉妹都市提携があるから、被災者を含めて、膨大な数の仙台市の人々が訪問してくれている。
仙台の七夕祭りを、彼がよく夜食の食材を調達する仲買さんのアーケード商店街を舞台に行う。
北海道と仙台市の七夕は8月7日だからね。
そのあとも歩行者天国祭りだとかいろんな名称の祭りが、雪の降り出すまで続く。
ほんとうに、パッと咲いて、パッと散って終わりの花火に50万円×1万5千はもったいない。
国から被災者に支給されるのは、100万円。
花火2発分。
いまだに激甚災害指定になっていないのかな。
なっていれば最高300万円が、国から支給されるけど、条件として、住宅が全壊していることと家財道具がすべて使いものにならなくなっていること。
2つの条件が揃って初めて、300万円。
今の時代に、300万円で家を新築して、家財道具をすべてそろえる、なんてできるわけがない。
わたしの実家が、新たな場所に土地を買って、この病院のすぐそばに新築したけど、建物だけで4千万円を越えてる。
まあ、2世帯住宅だからかもしれないけれど、300万円じゃダンボールの家がいいとこじゃないかな。家財道具が高いからね。
家だけ建てても、家財道具がなければ生活できないよ。
大花火大会は、お金の無駄遣いという課題を残したまま、終了した。